[ 三妖神物語 第四話 女神帰還 ] 文:マスタードラゴン 絵:T-Joke

第六章 新しい名、新しき絆

 その村に、彼が生まれたのは春の穏やかな日だった。
 何の変哲もないごくごく普通の家庭、そこにその子は産まれた。
 家は、小さな農家だった。
 家族は父と母、姉が二人。五人家族で平和に暮らしていた。
 だが、平和は破られるためにあるのかも知れない。
 その地方の領主が跡目争いで戦争を引き起こし、彼の生まれた村が戦渦に巻き込まれた。
 神々や精霊の加護の深いこの世界では、それほど戦争が多いわけではない。なにより、強大な力を持つ妖魔や魔獣が徘徊するこの世界では、人間同士で争い、隙を作ることは自殺行為に等しい。
 人間同士の争いにより生まれる負の感情を糧とする妖魔や魔獣も数多く存在する。それらが人間の戦いに干渉することもある。そのため、人間同士が争うことは極めて危険なことなのだ。
 下手をすれば戦った者同士が全滅し、その死体や人の憎しみを食らうために戦争を煽った妖魔達の一人勝ち。”漁夫の利”をせしめられることさえ有るのだから。
 しかし、それが分かっていながらも、人の愚かさが無くなることは決して無い。
 その危険を無視して、あるいは忘れてつまらない争いを起こすこともあるのだ。
 戦場となった村。あちらこちらに転がる死体と焦げ臭い匂い。
 血の染みた大地から、死肉と血を求めて下級の妖魔が現れ、人の心を食らう魔獣達が人間の心に狂気を吹き込む。
 怒声と哄笑、悲鳴と叫びが交差する中、人々は混乱と恐怖の底で怯え、逃げまどう。
 そんな阿鼻叫喚と化した村の中に、彼の家族の姿はなかった。
 彼の家族は全員無事に他の土地に移り住んでいたのだ。

 戦争が始まる三日ほど前、彼等の家に奇妙な二人組の旅人が訪れた。
 それは、素晴らしい美しさを誇る女性達だった。
 漆黒の髪と黒曜石のごとき瞳を持つ薄い琥珀色の肌をした幻想的な美女と、太陽のごとく輝く金の髪と碧玉のごとく鮮やかな瞳を持った褐色の肌の女戦士。
 彼女達は隣の国にすむ遠い親戚だが急用のためにしばらく家を空けなくてはならない、その間、家の管理をして欲しいと彼の父に頼んだ。
 この地を離れるだけの余裕がないし、三ヶ月前に生まれたばかりの乳飲み子もいる。とても旅など出来ないと言うと、女達は懐から大量の金貨の入った袋を旅費だと言って父親に押しつけるように渡し、赤子には奇妙な呪文を唱えた。
 祝福の呪文だと言うがそれが本当かどうかは魔術に縁のない家族には分からなかった。
 そして、家のある場所までの地図を与え、ほとんど強引に彼等をその村から追い出したのだ。
 父親のラドルは極めて現実的で堅実な男だった。普通ならこんな怪しい話に乗るはずのない彼が、何故か今回は素直にその得体の知れない女達の言うとおり、村を離れることにした。
 親しい友人達にその話をし、村を離れる間の畑の事を頼むと村を後にした。
 山を越えて隣の国に入り、教えられた通りの場所、でたらめに広い土地に古いが作りのしっかりした三階建ての大豪邸が見えた頃、風の噂に村が戦場になったことを知った。
 戦争に巻き込まれた村は、ほとんど壊滅状態となり村人は死に絶えたと。
 その事を知って家族は愕然とした。
 今から思えば、あの女達は不自然すぎた。
 第一、遠い親戚と言うが、わざわざ国境を越えた所にいる縁遠い者に家を預けるだろうか? 
 近所の友人知人に任せるのが常識というものだ。だが、あの時、あの美女に見つめられたとき、ラドルは不思議と疑問も疑念もわかなかった。
 何か術でも使われたのかも知れない。そうと気が付いたのは、この家に着いて村の噂を聞いた後のことだった。
 もしかしたら、戦争のことを知っていてあえて自分達を逃がすためにこんな芝居をしたのかも知れないとも思ったが、では、何故そんなことをしたのか? 何故自分達の家族だけを救ったのか? 彼女達は何者なのか? さらに、どうして戦争の事を知っていたのか?
 考えれば、考えるだけ訳が分からなくなる。
 だが、悩んでいても仕方がなかった。
 彼等はこの新しい土地で新しい生活を始めることにした。
 村に帰ることは出来なかった。
 既に軍隊に蹂躙され、人が住める場所ではないと聞くし、何より、知らなかったとはいえ、自分達だけ逃げ出したような後ろめたさがあったからである。

 それからは、平穏な日々が続いた。
 あまりにも平穏な日々が過ぎ、一月ほどの時が過ぎた。
 この家の主人が一向に戻ってこず、連絡も無いのが不安と言えば不安だったが、何事もなく日々が過ぎていった。

 そして、運命の日が訪れた。
 その日は一足先に夏が来たかのような熱帯夜だった。
 晴れた夜空では、美しく輝く星々が三つ子の月のいない夜を思う存分満喫していた。
 今日は月休みの日。
 天空に高く輝く銀の月。西の空に浮かぶ赤い月。東の空でまどろむ青い月。その三つの月全てが空に現れない珍しい日である。
 その星空の下、あまりの暑さにあえぎながら、町から少し離れたところにある借り物の家へと帰路をラドルが急いでいると、道の右側を道なりに沿って生えている茂みの中でがさりと音がした。
「死ね! 卑怯者!!」
 闇の中から叫び声が上がった。何事かと声のした方に顔を向けた時、どんと、彼の身体にぶつかる固まりがあった。
「痛!!」
 脇腹に鋭い痛みが走った。そこに手を添えたとき、ラドルは自分の手がなま暖かい液体に触れている事を知った。
「な・・・・何をする!」
 ラドルが呻くように叫ぶと、星明かりを受けて、男の持っている刃が僅かに光った。その先には赤黒い色をした血が付いている。
 月が姿を見せなくとも、目の利くものなら何とか視力を確保できるほどに、星々の光は明るい。そして、ラドルにはその相手の姿を捕らえる程度の視力はあった。
 だが、刃物を持っている男の顔や体つきはまるで分からない。どうやら、黒っぽい服と覆面までしているらしい。
「ラドル・・・・この卑劣漢が!!
 自分達だけで逃げおって、恥を知れ!!」
「な・・・・なに!」
 その声にラドルは聞き覚えがあった。
「その声・・・・イアン!? イアン・ミヤトか!?
 無事だったのか? だが、これは何の仕打ちだ!」
「ふん! 俺の声は覚えていたか!
 だが、何の仕打ちとは笑わせる! 自分の罪を知らぬとでも言うのか!!」
 空いている左手で自分の覆面をむしり取ったそこに、ラドルの知る男の顔があった。
 イアンは覆面を投げ捨て、刃物を両手で持ち直すと、油断無く構え第二撃を打ち込もうとしている。
「イアン・・・・お前・・・・」
 ラドルは痛みをこらえて自分を刺した相手、かつての友人を見る。
「貴様は、自分達だけ逃げ出した! 村の同胞を見捨ててな!!
 俺の家族は・・・・俺の家族が! 妻や娘が兵士共になぶられ、殺されていた頃、貴様等だけはのうのうと逃げ延びた!!」
「違う! 話を聞いてくれ!
 私達は本当に何も知らなかった!!
 本当に、旅人に頼まれてこの土地に来たんだ!!」
 必死に訴えるが、イアンの耳には届いていなかった。
「黙れ! そもそも、そんな都合のいい話があるわけがない!
 貴様は自分達だけが救われるために、俺達を犠牲にしたんだ!!」
 叫ぶと同時につっこんでくる。
 ラドルは避けようとしたが、出血のためか目眩を起こしその場で身体をゆらしただけだった。
「死ね!!」
 繰り出される包丁。それが確実にラドルの胸を捕らえ、彼の心臓を貫こうとした瞬間!

 キィィン!

 澄んだ音を立ててラドルの心臓を狙っていた鋼の牙は砕け散る。
 それは細かい粉末となり、星明かりを反射して雪のように美しく儚く風の中に散っていった。
 思いがけない事態にイアンもラドルも呆然とその場に立ち尽くしていると、彼等に声をかける者がいた。
「逆恨みはそれくらいにしたら?」
 美しい音律を持った声が夜風に流れる。
 そして、闇の中から生まれたような美しい女性が現れた。
 黒いマントに黒いドレス。漆黒の髪を風になびかせた彼女はまさに、夜の闇から生まれた精霊そのものに思われた。
 星明かりの中でさえ、その瞳が美しく怪しい輝きを放つ。
 金と銀の美しい光。だが、その色に注意を払う余裕は二人にはなかった。
 人を殺そうと殺気だっている人間と、殺されかけている人間に、そんな余裕などあるはずもなかった。
「何者だ! 邪魔をするならお前から殺すぞ!!」
 イアンはそう恫喝したが、彼女は全く恐れる様子はない。
「お前が恨みをはらすべきは村を戦場にした領主やその軍隊でしょう?
 村を捨てた人間を狙うのは筋が違うのではなくて?」
 穏やかな声と口調。だが人を説得する強い何かを持った声。
 イアンは身体が動かなかった。
「治癒するから、動かないで」
 ラドルに向かって彼女がそう言うと、その言葉に従うかのように、かなりの深手だったはずのラドルの傷はあっさりと消える。それと同時に、出血によるものと思われる目眩さえ消えて意識がはっきりした。
 そのおかげでラドルは目の前にいる女性が何者であるか思い出した。
「・・・・その声・・・・思い出した!
 あの時のあからさまに怪しい女魔術師!」
「・・・・あからさまに怪しいはないでしょう?」
 イアンの殺気を平然と受け流した彼女が、ラドルの叫びに不機嫌に応える。
「何故! 何のために私達一家をこの土地に呼び寄せた!」
 ラドルは疑問を目の前の女性にたたきつけたが、それに彼女は答えなかった。
「その前に、しなければならないことがあるわ。
 あなたに答えるのはその後で」
 そして、イアンに神秘の相貌を向ける。
「イアンと言ったわね? 彼を狙うのは筋違いではない?」
「う・・・・五月蝿い!
 俺の家族は兵士に殺された!! 何故、そいつ等だけ無事なんだ!!」
「・・・・つまらない八つ当たりね・・・・」
 侮蔑の視線でイアンを見下す。
「お前は軍隊にも領主にも復讐する勇気も力も持っていない。
 自分の憎悪や怒り、悲しみを抑える心の強さもない。
 自分の激情をぶつける相手が、たまたまここにいたからここまで来た。
 全く迷惑な男ね」
 鼻先でせせら笑う。
「何故! 何故貴様は! そいつ等だけ助けた!!」
 イアンのやり場のない怒りに彼女の言葉は冷たかった。
「彼等を助ける理由があり、あなた達を助ける理由がなかった。
 それだけの事よ」
「な!
 せめて! 戦争が起こる事を教えてくれれば、俺達は助かったんだ!!」
「私がそうと言ったところで、お前達は信じはしなかったわ」
 人間は自分にとって都合の良い事だけを信じ、都合の悪い事は一切信じない。
 長い年月を生きてきた彼女は、人間の歪んだ性癖を良く知っている。
「それに、私にはあなた達を助ける権利はないしね・・・・」
「なんだと?」
 続けて語られた彼女の言葉の意味が分からず、イアンは眉をひそめた。
「私はあるお方の使い魔。
 自分の主人を守る権利と義務があるから、主人とその家族を守るためには全力を尽くす。でも、あかの他人の人生や、国の歴史に干渉する事は出来ないのよ」
 表情を見せずに、淡々と言葉を続ける。
「私達使い魔は、主人の命令があれば歴史にも人の生活にも関わることが出来る。
 でも、命令がなければ、私達に他人の生き死にに干渉する権利はないわ」
 イアンもラドルもただの農民だった。魔法に全く縁のない彼等には彼女の言う事は殆ど理解出来なかった。
 わずかに理解できたのは彼女が人間ではなく”使い魔”なる存在であるという事。
 そして、主人を守るためにラドルの家族を守ったという事だけだった。
 残念ながら、使い魔と言うものがいかなる存在なのか、彼等には全く理解出来なかった。
「私の家族に、あなたの主人がいると?」
「だから助けたのよ」
 ラドルの問いに呟くように答える。
 もしも、主人がいなければお前達など助けなかった。そう、言外に言われているようにラドルには思えた。
「うわあああああ!」
 二人の話を横で大人しく聞いていたイアンが雄叫びを上げて突っ込んできた。
「俺の家族を返せ!!」
 悲痛な叫びを上げて両手を振り回す。両手に握り拳大の石を持っており、それで殴ろうとしたのだろう。
「・・・・少し頭を冷やしてらっしゃい」
 彼女が冷たくそう言うと、突っ込んできたイアンは一瞬のうちにその場から消え去った。
「イアンは? 彼はどうなった!」
 消え去ったイアンに驚いてラドルは彼の安否を尋ねた。
「命を狙ってきた相手を心配しているの?」
 くすくすと面白そうに笑って続ける。
「大丈夫よ、少し遠くの湖に落としただけだから。
 今日は熱帯夜だし、頭を冷やすにはちょうど良いわ」
 ”少し遠く”の湖。それは大陸の端にある小さな湖。
 ここから人の足でまるまる7年、一般に使われている長距離移動用の魔法交通機関でも十日はかかる距離の事を彼女はそう表現した。
「教えて下さい。あなたの言う主人とは誰です?
 家族の誰があなたの主人なのです?」
「・・・・それを知ってどうするの?」
 彼女は静かな口調で尋ねる。その瞳の冷ややかさにラドルは気が付かなかった。
「いえ、ただ知りたいだけです。何故、こんな事になったのか、それを知りたいだけです」
「つまらない好奇心は身を滅ぼすだけよ」
 そっけなく言い捨てる。
 人間は好奇心の固まりである。だが、それが良い方向に実を結ぶことはあまりない。
 自分の好奇心を満たすために禁断の知識に、知ってはならぬ禁忌に手を出し、自分はおろか他人をも巻き込んで滅び去った愚か者のなんと多いことか。
 それに、この質問に対して対応を誤れば、彼女の主人に危害が及ぶ可能性もあるのだから。
 (でも・・・・何時かは分かること・・・・そう、何時かは)
 ミューズは迷っていた。今ここで彼女の主人の正体を明かすべきか否か。
 彼等が強大な力を持つ”マスタードラゴン”の存在を知ったとき、どう動くか。
 たとえどんな力を持っていたとしても、自分の子供として愛する事が出来るのか。
 あるいは、たとえ実の子でも強大な力を持つ魔物として恐れ、彼を捨てるか。
 主人にとっても、彼女にとっても、これは賭だ。
 だが、それは極めて勝率の小さい不利な賭であり、さしものミューズにもためらいがあった。
 人間は自分と異なる存在を異常なまでに嫌悪する。それは、彼等の神が与えたものであり、人間の本能といっても良い。
 ここで、主人の力の事を明かせば、ほぼ間違いなく彼等は主人を捨て去るだろう。人間とはそう言う生き物なのだ。
(・・・・結論を出すのは早い方がいいかも知れない。でも、家族がマスターを見捨てたとき、成長したマスターがその理由を知ったら・・・・)
 自分達はマスターに憎まれるかも知れない。ミューズはそれが怖かった。
 ミューズがためらっていると、ラドルは彼女の様子に有る答えが閃いた。
「まさか・・・・あの子が?」
 ラドルの言葉を聞いてもミューズの表情にはなんの変化もなかった。
 その表情から彼女の内心を悟るのは不可能だった。
 表情を消すのは彼女にとって大した問題ではなかったのだ。だが、自分の心臓が激しい鼓動を打ったのを彼女は自覚していた。
(・・・・何時かは、分かること。
 早めに結論を出していた方が、マスターの傷は浅くてすむ・・・・か)
 ついに決断し、静かに息を吸う。
「・・・・その通りよ。良く分かったわね」
 その言葉が流れ出すと、ラドルは息を飲み込んだ。
「そうですか・・・・あの子が・・・・」
 真っ青な顔で、ラドルは家に向かって歩き出した。
 ふらふらと、まるで酔っているかのように千鳥足で家に続く道を歩いて行った。
 その足どりは極めて怪しく危なっかしい。
「・・・・さて・・・・どうなるかしらね・・・・」
 呟いた後、彼女はその場から消え去った。

 彼女は主人の元に向かったのである。
 既に彼女の相棒のメイルも主人を守るために側に付いているはずだった。もしもの時のために、彼女達は主人の側にいる必要があった。

 そう、もしもの時のために・・・・

 その少年は、美しい女性達と暮らしていた。
 二人の女性はそれぞれ外見も雰囲気も全く異なり、血のつながりはないように見える。
 少年も、自分が彼女達とは血がつながっていないことを早くから知らされていた。
 美しい漆黒の髪と金銀妖瞳を持つ年上の女性、ミューズと名乗った彼女は彼の家族がある理由から彼を捨てたことを詳しく教えていた。
 幼い彼には酷な現実を彼女は隠さずに話した。
 例え残酷であろうと、正しい知識を持っていた方が、何も知らずに無責任な噂に流されるよりも良いと判断したからだった。
 ただ、彼に話さなかった事も幾つかあった。別に話さなくても支障はないだろうと判断したためだが、実の所、さしものミューズも彼に話せない様な出来事もあったのだ。
 ミューズの話を聞いても、少年に悲しみはなかった。というより、悲しみを感じなかった。
 なにしろ、少年が捨てられたのは彼が殆ど乳児の頃である。自分を捨てた家族など顔も覚えていない。
 そんな顔も覚えていない、思い出もない相手に捨てられたからと言って、寂しさなど感じるはずもなかった。
 自分の現状を簡単に少年は受け入れた。そして、納得した少年は自分の家族が彼女達だけだと思うようになった。
 彼女達は少年に不自由な思いをさせなかった。
 少年自身贅沢をしない質だったが、彼女達は信じられないほどの財産を持っていた。
 どうすればこんな大金が手にはいるのかと少年が首を傾げたくなるほどの。
 以前、地下室に案内されたことがあるが、まるで迷路と思えるほどの広大な地下部分にある数十もの部屋の中に、金銀や宝石がぎっしり詰め込まれていたのを見たとき、目眩がしたのを覚えている。
 一体どうやって稼いだのか、何に使うのかと尋ねると、色々な仕事を長い年月して稼いだのだが、使う当てが全く無かったので気が付いたらここまで貯まってしまった。と笑っていた。
 そして、ミューズはその一つの部屋を示して、少年にこう言った。
「この部屋をあなたにあげるわ。
 この部屋に詰まっている金銀宝石、全てあなたが好きなように使いなさい。
 お金をどう使うか、どう生かすか。それを学ぶのも人間として大切なことだから」
 あっさりとそう言って彼にその部屋の鍵を与えた。
 部屋を改めてみて、少年はまた立ち眩みをした。
 地上の屋敷で彼があてがわれた部屋と同じくらいの大きさの部屋。
 縦75ザカール(メートル)、横70ザカール(メートル)、高さ12ザカール(メートル)という部屋と呼ぶには少々広すぎるその空間。
 その中に、びっちりと詰め込まれた金貨や宝石を見て、ため息を付く。
 普通の人間なら、一生かかっても百分の一も使いきれないのは間違いない。それほどの大金をいきなり幼い彼に与えるとはどういう神経をしているのか?
 単に物事におおざっぱな性格なのか、あるいは、これだけある財宝の部屋の一つくらい何の価値もないと思っているのかもしれない。
 だが、ミューズの考えは別の所にあった。
 この程度の金の魔力に理性を失う程度の器では、この先彼は生きてはいけない。
 彼の奥底には神の力さえ凌ぐ強大な力が眠っているのだ。いずれはその力と正面から向かい合わなければならない。そのためにも、この程度の金で理性を失うようではお話にもならない。
 ミューズは彼の理性を試す為に、器を確かめるために、一国の国王に匹敵するほどの大金を少年に与えたのである。
 少年は元々器が大きかった。いや、正確に言うなら、器が大きいというより、欲望が欠落していると言うべきかも知れない。
 少年は本質的に欲望が希有だった。欲深い人間には奇跡と言うほどに物事に執着しない淡泊な性格だった。
 その欲のなさが、彼を救っていたのだが、そもそも、その欲望の淡泊さが彼の力による影響であることもミューズは知っていた。
 その意味ではミューズの試験は少年には試験とは言えない程度の物だった。
 ミューズにしても、彼の器が変わっていないことを確認する程度のことだったわけだから、それはそれで、一向にかまわなかった。
 この程度の試験を通過できないほどに狭量なら、すぐに少年は死ぬことになるのだから。
 そうして、彼女達と何不自由無い、それなりに平穏な人生の恩恵を受けていた彼は、新しい出会いをする事になる。

 背の高い木々が、青い葉を茂らせる。
 その葉を縫って木漏れ日が地面を愛撫する。
 屋敷の主人が所有している美しい山。少年の大切な遊び場であり、多くの生き物達と出会える彼の憩いの場。
 いつものように、その山にある森の中で動物達と遊んでいた少年の前に、見慣れぬ客人が現れた。
 それは美しい女性だった。
 清水の流れのごとき銀色に輝く長い髪。天空に浮かぶ月のごとき美しい輝きを秘めた瞳。
 人とはかけ離れた美しさを持つたおやかな女性。
 だが、少年はその美しさに惑うことは無かった。何しろ、一緒に暮らしている二人の女性も目の前の女性に負けず劣らずの美女である。知らず知らずの内に彼には美女に対する免疫が出来ていたらしい。
 そして、その女性が人間以外、それ以上の存在であることを本能的に感じていた。
 少年はそう言った人間以外の存在に対して寛大だった。
 家族が自分を捨てたのが自分の力を恐れたためだとミューズに聞かされて育った彼は、人間に嫌われている存在に親近感を持つようになっていたのである。
 じっと自分を見つめて微動だにしない美女。
 少年の周りに集まった獣達も、美女を見つめて緊張したように堅くなる。
 やがて、動物達は静かに少年と美女から離れだした。まるで、美女に遠慮し二人っきりにするかのように、遠慮がちに静かに離れていく。
 やがて動物達が全ていなくなり、二人っきりになった。それでも美女はただ少年を見つめるだけだった。
 美しい女性に見つめられるのは男にとって不快なものではない。だが、少年はまだそう言うことにはなれていなかった。何も言わずに見つめられ続けるのは、かなり気恥ずかしい。
「あの・・・・」
 少年が口を開こうとしたとたん、美女の瞳から輝く光の滴がこぼれ落ちる。
 それが、涙だと少年が気づいた時、美女はその白魚の様な細く美しい指で涙を拭って言葉を紡いだ。
 その姿に似つかわしい美しい調べが二人だけの空間に流れ出す。そして、動かぬ美しい彫像のような女性は命を持った存在となる。

「・・・・挨拶もなく、あなたのお目を汚した非礼。なにとぞお許し下さい」
 いきなり謝られて少年がめんくらっていると、女神とも思われるほどの美女は静かに言葉を続けた。
「わたくしは名も無き魔神にございます。
 今日、あなた様の元を訪れましたのは、あなた様にわたくしの名を付けていただきたいと思い、そのご挨拶にお伺いしました。
 この愚かな魔神を哀れと思われるなら、なにとぞ、わたくしに名をお与え下さい」
 自分の腰に届かぬ幼い少年を前に、大地に片膝をつき頭を垂れる。
 最高の礼を尽くす美女。その態度とその言葉の内容に、少年は目を見開いて絶句した。
 少年は既に魔法の基礎を学んでいた。
 その中に名に対しての知識もあった。
 人間の名は魔法の例に倣わないが、強い魔力を持つ存在に名を与えると言うことは、その存在を支配する事だと言うことを少年は既に知っていた。
 彼女は自分の主人になって欲しいと少年に頼んでいるのだ。
 しかも、美女の口調からすれば彼女は魔神だと言う。そんな存在が何故自分のような子供にそれを望むのか。その理由がさっぱり分からず少年は混乱していた。
「わたくしはあなた様に大恩ある者です。
 そのご恩はこの命と力の全てを尽くしてなお、報いることのかなわぬ程の物。
 わたくしに出来るのは、この命と力をあなた様のお役にたてることのみなのです。
 なにとぞ、わたくしにあなた様にお仕えする機会をお与え下さい」
 もったいぶった言葉に惑わされそうになったが、何とか彼女の言葉を理解しようと、少年はうんうん唸り、そして、肝心な部分だけは何とか理解できた。
 何が言いたいのかは理解できた。だが、何故そんなことを言うのか理解できない。
 自分に恩があると言うが、この美女と出会った覚えなど少年にはなかった。見たこともない相手にいきなり恩返しをさせて欲しいと言われても、混乱するのは当然だろう。
「あ・・・・あの・・・・何を言ってるの?
 僕はあなたに会った事も・・・・」
 無いのに、そう言おうとした彼の言葉を聞き慣れた声が遮った。
「とうとう来たか・・・・」
 呟くようなその声は少年の良く知る者の声だった。
「メイル姉さん!」
 少年は自分の後ろを振り返ってその女性に呼びかけた。
「・・・・こうして、顔を会わせるのは初めてだったわね」
 メイルの後ろからミューズも現れた。
「私達のことは知っているはずよね?」
「はい、お初にお目にかかります。偉大なる力を統べる方々」
 彼女は二人に頭を下げた。
「あなたが来るのは覚悟していたけど・・・・随分と早かったわね。
 もう少しかかるかと思っていたのに」
 少しすねたようにミューズが言う。
「ご迷惑でしたでしょうか?」
「当然!」
 はっきりきっぱり言いきるミューズ。ミューズの反応に白銀の美女は目を丸くする。
「はっきりおっしゃるのですね」
「言葉を飾っても仕方がないでしょ?
 で、あなたは何しに来たの?」
「すでにご存じと思いますが・・・・」
 彼女が遠慮がちに言うが、ミューズは納得しなかった。なかなかいじめっ子である。
「あなたの口からはっきり聞かせて欲しいのよ」

 ・・・・壮絶な女の戦いが目の前で起ころうとしていた。
 こういう事態を初めて目にする少年は、周りの張りつめた空気に脅えて横にいるメイルの服を堅く握りしめた。
 それに気が付いたメイルは優しく少年の頭をなでてやる。

 ミューズの言葉にも白銀の美女は全く動じず、言葉を続ける。
「わたくしがここにまいりましたのは、そこにおわすお方にお仕えするためです。
 そして、わたくしの力をそのお方のお役にたてるために、恩に報いるために参りました」
 静かに、しかし臆することなく言い切った彼女。
 ミューズは冷たい口調でさらに問い続ける。
「あなたはマスターの力を知っているのでしょう?
 それでも、彼に仕えるつもり?」
 ミューズの言葉は厳しい。だが、白銀の美女は全く頓着しなかった。
「わたくしは長い間夢を見ておりました。
 優しくも悲しい、大いなる力を持った人間と、その方に仕える美しい使い魔達の物語を。
 もしも、わたくしがそのお方の力に脅え、そのお方を裏切るとお思いなら、その心配はご無用です」
 強い決意を秘めた銀の瞳。その輝きは見る者の心を打つ力を持っているのかも知れない。
 さらに、言葉を続ける。
「わたくしがどのような存在だったかは、あなた方も十分にご承知と思います。
 わたくしもそのお方と同じ悲しみと寂しさを知っています。
 そのお方のお心を傷つけるようなまねをどうして出来ましょう」
 強い輝きを秘めた瞳でまっすぐにミューズとメイルを見据える。
 ミューズもまた力のこもった眼光で彼女を睨む。

 ・・・・しばしの時間が過ぎた。
 メイルが大きく頷く。
「信用できそうだな」
「・・・・分かったわ。でも、あなたを受けいるれるかどうかはマスターが決めること。
 まあ、せいぜいがんばって口説くのね」
 そっけなくそう言うと、ミューズとメイルはその場から姿を消した。
「メイル姉さん! ミューズ姉さん!!」
「後はあなたが自分で決めなさい」
 少年の声にミューズの声が答えた。が、それっきりだった。
 再び二人だけとなったが、何がどうなっているのか結局少年には理解できない。
 銀の美女は自分の物語を話して聞かせることにした。
 全ての命に恐れられ、神々や魔族からも排斥されたある呪われた魔獣の末裔の物語を・・・・。

 森の中に主人と”客神”を残して、二人は屋敷の一室に戻っていた。
「飲むか?」
 メイルがミューズを気遣い、葡萄酒を持ってくる。
「ありがと」
 グラスにつがれた葡萄酒を飲みながら、窓越しに主人のいる森を見つめるミューズ。
「すまんな」
 メイルが呟くように詫びる。
 少ない言葉にどれほどの思いが込められているのか、ミューズには十分に分かっている。そして彼女はそれに笑って答えた。
「何を今更・・・・
 駆け引きが苦手なあなたにあんな役なんかできっこないでしょ」
 そして、さらにグラスを傾ける。
 ミューズと並んで、窓越しに森を見つめるメイル。
 ミューズはぽつりと呟いた。
「・・・・マスターの事だもの、多分あの娘を受け入れるでしょうね・・・・」
「そうだな・・・・」
 少しすねたように呟くミューズ。その声にメイルは頷く。
「それにしても、随分と簡単に彼女を信じたわね」
 ミューズはからかうように言う。それにメイルは苦笑で答えた。
「お前もな」
 二人は彼女に自分の主人の姿を重ねていたのだ。だからこそ許した。
 つまらない下心を持った者が主人に取り入るつもりで近づいてきたのなら、蹴り倒していただろう。
 彼女は自分達の主人の影だった。光と影の二人がそろったときどうなるのか、それは彼女達にも分からない。だが、それが良い方向に向くことを期待した。
「・・・・でも、やっぱり・・・・」
 それ以上は言わない。言えない。心の奥に秘めた思いをも飲み込むかのように、ミューズはグラスの中の液体を一気に飲み干した。
 それを見て、メイルもそれに倣った。彼女の心の奥に燃えるものを酒でかき消すかのように・・・・。

「・・・・つまり、あなたの力を封じて、あなたを閉じこめていた封印から解放したのが僕の前世だと?」
 銀の美女が語った自分の過去。その長い物語を聞き、彼女が何故自分にこだわるのかを理解した少年は、自分が導き出した結論を口にしてみる。
 半信半疑の彼の言葉に白銀の美女は大きく頷いた。
「わたくしがこうして光にあふれた世界に生きることが出来るのも、神々に愛されるようになったのも、全て、あなた様がわたくしの呪われた力を封じ、新しい命を授けて下さったおかげなのです。
 もしも、あなた様がいなければ、わたくしには永遠の孤独と死に近い無意味な生しかなかったことでしょう。
 わたくしはあなた様の恩に報いる責務がございます。
 なにとぞ、あなた様にお仕えすることをお許し下さい」
 再び頭を下げる彼女に少年は難しい顔をした。
 前世がどうの、恩がどうの。彼には全く関係ないことなのだ。それなのに押しかけられては正直たまらなかった。
「・・・・悪いけど、僕は知らない。覚えていないもの・・・・
 よそを当たってくれない?」
 少年にとってそんな身に覚えのないことで恩を感じられても困るだけだった。
 美女は困ったように微笑む。
「あなた様が忘れても、わたくしは覚えております。
 あなた様だけが永遠の主人たるお方と、わたくしは心に決めているのです」
 そして、少し悲しそうな瞳で少年を見つめる。
「それとも、呪われた忌まわしい魔獣のわたくしでは、あなた様のお役にたてぬのでしょうか?
 あなた様がわたくしの存在を不快と思われるなら、わたくしは去りましょう。
 そして、永遠にあなた様の前には姿を現しません」
 あまりにも悲しそうな瞳。
 捨てられた子猫のような、その頼りない、心細そうな瞳に見つめられた時。神秘の美女の悲しげな瞳を見て、誰が彼女の懇願を拒絶できるというのだろう?
 そして少年も、彼女の瞳の力に勝てなかったのだ。
「そんなこと無い。
 いいよ、別に主人だの何だのそんなのはどうでも良いから、一緒に暮らそう」
 少年はそう言った。
 その言葉が、彼女が自分に仕えることを認めたものだとは、少年には自覚がなかった。
「御主人様、なにとぞ、わたくしに名をお授け下さい」
 すでに自分のことを主人と呼ぶ美女を少年は困った表情で見つめる。
「御主人様はやめてよ。
 名前だってちゃんとしたのがあるんだろ?」
 少年がそう言うと、銀の美女は頭を振った。
「いいえ、わたくしに名はないのです」
「神様達にはなんて呼ばれていたの?」
 少年が尋ねると彼女は答えた。
「神族や魔族の方々はわたくしの事を”白銀のヴェヴル”と呼んでおられました」
「白銀のヴェヴル?
 じゃ、本当に名前がないの?」
 ヴェヴルと言う言葉が”名を持たぬ者”と言う意味であることは現界でも変わらない。
 少年が呆れた表情をすると、銀の美女は照れ隠しに微笑んで頷いた。
「・・・・しかたがないな・・・・どんな名前が良いの?」
 溜息混じりでそう尋ねると、彼女は静かに答える。
「それは御主人様の望まれるとおりに。
 ですが出来ることなら、わたくしの一族の名”バシリスク”の名を残していただければ、これに勝るものはありません」
「・・・・何故?」
 少年は彼女の言葉を理解できなかった。
 彼女は決して自分が”バシリスク”の一族であることを誇りにしているわけではない。
 自分の事を”呪われた忌まわしい魔獣”と言った彼女の言葉からもそれは容易に理解できる。
 少年が疑問を口にすると、彼女は答えた。
「わたくしは御主人様に新しい命を与えられ、生きる喜びを与えられました。
 しかし、わたくしの本質は呪われた忌まわしい魔獣なのです。
 御主人様に与えられたこの幸せに目が眩み、自分の本質を忘れてしまわないように、わたくし自身に対する戒めとして一族の名を残していただきたいのです」
 あまりにも悲しい決意だった。
 例えどんな姿になろうと、どんな生き方をしようと、”魔獣バシリスク”として、その呪われた運命からは逃れられない。彼女はそれを覚悟していた。いや、それは諦めだった。
 自身の呪われた生から逃れられない彼女。彼女のその姿は少年にも痛ましい。
 彼女は、自分の本質から逃げない、それに必死に歯を食いしばって耐えているのだろう。それはあまりに悲しい決意。
 少年は必死に考えた。
 そんなに気にすることはないと言っても、恐らく彼女は承知しないだろう。
 第一、自分には彼女に何か言えるほど経験があるわけでもない、実績も持っていない、唯の子供なのだ。だから、少年は考えた。
 彼女が満足出来るような名前を、一族の名を残しながら、彼女の美しい、優しい心にふさわしい名前を。それだけが、自分が今、彼女にしてあげられることだったからだ。
「・・・・シリス・・・・ってどうかな?」
「え?」
 少年の言葉に美女が聞き返した。
「シ・リ・ス。
 ”バシリスク”の真ん中の三文字を取って”シリス”。
 一族の名を使っているし、きれいな名前だと思うんだけど・・・・
 全然、ひねっていないから、嫌なら他の名前を考えるけど・・・・」
 少年がそう言うと、美女はその名を呟いた。
「シリス・・・・」
 そして、彼女は突然少年に抱きついた。
「有り難うございます。
 わたくしごときにこのような美しい名を与えて下さったことを、心から感謝いたします」
 少年を抱きしめながら、彼女は泣いていた。
 喜びの涙は、とどまることなく彼女の瞼からあふれ続けた・・・・。

 この時より銀の美女、神々より白銀のヴェヴルと呼ばれていた女神はシリスの名を戴く事になったのである。

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