[ 三妖神物語 第四話 女神帰還 ] 文:マスタードラゴン 絵:T-Joke

第三章 大祭、女神降臨の儀。

 彼女にとって思い出とはあまりにも膨大な時間の証である。
 彼女の所有するそれは三人の中で、もっとも多く、もっとも古い。
 その殆どを封じられた空間で孤独に過ごしてきた彼女だが、自分の境遇を嘆いたことも恨んだことも無かった。
 寂しさはあった、悲しみもあったかも知れない、だが、瞳を閉じれば、いつでも多くの命の息吹を感じることが出来た。だから、耐えられた。
 そして、その長い時の中で、彼女は彼を見つけ、彼も又、彼女を見いだしたのだから。
 そして、彼と出会ってから、彼女はさらに多くの思い出を作った。
 夢の中の思い出ではなく、自らの手で触れることの出来る暖かい、光に包まれた思い出。
 それを与えてくれた存在を彼女は永遠の主と定めていた。
 そして、その存在と共に生きた後も新しい思い出はいくつも作られた。
 その思い出の一つが、この神殿にあった。それは、極めて新しい物。
 そこで、有る少年に出会った。
 年代を感じさせる石造りの神殿。
 光を当てると淡く白い燐光を放つ白憐石(はくれんせき)によって作られた、極めて平凡な神殿。
 人口15万を数える中堅都市、フェルローズ。
 そこにある神殿の裏庭、大きなカラの古木の幹にもたれ掛かるように、彼女――シリス――は神殿を見つめていた。
「あの子は、今頃、どこで何をしているのでしょうね・・・・」
 神殿の裏庭、彼女の視線の先で遊ぶ子供達を見て、静かな微笑みを浮かべる。
 あの少年と出会ったのはわずか二十年前の事。

 それは二十年前のある夏の日。
 一人の少年が病に倒れた母親を連れて、この神殿の門を叩いた。
「お願いします!! かあさんを助けて下さい!!」
 必死に少年は神官にすがった。
 神官達は少年と母親を受け入れたが、その母親の病と容態に驚かされた。
 母親は既に瀕死の状態だった。どんな難病かと神官達は症状を確かめて言葉を失った。
 それは、”ドヴァ熱症”と呼ばれる一種の伝染病だった。その結果に神官達は、一瞬自分達は誤診をしたのではないかと疑ったほどである。なぜなら、この病はさほど治療が困難な病ではなかったのだ。
 伝染病ではあるが、それほど恐ろしいものではない。
 かかりやすいが直りやすいと言う類の病気で、この病で命を落とす可能性があるとすれば、生まれたばかりの乳児か衰弱した老人くらいだ。
 少なくとも薬神シリスが人々に与えた知識に従って静養すれば、普通の体力を持つ者なら二日ほどで完治する程度のものであったのだ。
 薬も、それほど高価な物ではないはずだった。
 確かにこのあたりでは原料は手に入らないが、他の土地では在り来たりの物で入手は容易であったし、薬の製法もそれほど手間のかかる物ではない。伝染病の中では最も手軽に治療できる類の物だったのだ。
 それをこれほど拗らせるとは、今までどのような生活をしていたのか?
 奇妙に思った神官達が少年に話を聞くと、少年は答えた。
 自分達がヤフェイの信徒であり、山奥の村に隠れ住んでいることを。
「なるほど、そうであったか・・・・」
 彼の母親の容態を調べた神官が、全てを理解したように頷いた。
 ヤフェイは人が知識を持つことを極端に嫌っていた。さらに、他の神や魔族が与える知識は全て邪悪な物として排斥するよう信徒達に命じていたのである。
 そのため、ヤフェイの信徒達は一般人が常識的に知っている知識さえ持っていない事が多いのだ。
 特に、人間の知る薬学や医術の知識の大半はシリス神がもたらした物であるため、その方面の知識は世間より千年以上遅れていると言われている。
 ヤフェイ神はシリス神とは犬猿の仲、と言うより、三妖神と犬猿の仲である。
 ヤフェイの信者達にとってはシリスのもたらした知識は邪悪な知識の筆頭にあげられるのは当然のことだ。
 そのために、未だヤフェイの信徒達は病気を治すとき、神に祈ることしか出来ない。
 例え知識を持っていても、それを使うことは教義に反することなのだ。そして、そのことは、一般の人々にも知られていた。
「話に聞いたことはあるが・・・・これほど症状が悪化するまで放っておくとは・・・・」
 病を癒すことをその役職とするシリスの神官達にとっては、まさに悪夢のような現実である。
「一体、今までどんな治療をしていたの?」
 年若い女性神官が優しく尋ねると、少年は泣きながら、答えた。
「体の中に入った魔物を追い出すって・・・・ダギジリ草のだし汁を・・・・」
「病で体力を失っている者にダギジリ草だと!? 正気か!」
 あまりにでたらめな治療法に、壮年の神官が目をむいた。
 ダギジリ草は薬草ではあるが、その薬効は下剤としての物で副作用も激しい。
 第一、ダギジリ草はその薬効故、便秘の治療薬以外に使い道はほとんどない。
 そんな代物を伝染病の治療に使うなど言語道断である。
「僕も・・・・やめた方がいいと思ったんだけど・・・・牧師様は神様が清めた聖水で作ったから・・・・大丈夫だって・・・・」
 しゃくりあげながら少年がそう言うと、神官はあきれ果てた。
「ヤフェイにそんな芸当が出来るものか!」
 所詮、ヤフェイに水に力を与えるなどと言う芸は出来ないのだ。人に、この現界に干渉する力をヤフェイは失っているのだから。
 だが、数こそ少ないが、いまだにそれを認めないヤフェイの信徒達が生き残っているのも確かなことなのである。
 少年ははじめ、牧師の言うとおりにしていたが、いっこうに母親の容態はよくならない。
 それどころか、少しづつ悪化していくのが少年には分かった。
 このままでは母親は死んでしまう。
 少年は危機感を持った。
 現に、この病で村人の多くが倒れ、何人かが死んでいくのをその目で見たとき、もはやヤフェイの教えを守ることは少年には出来なかった。
 少年にとって、ヤフェイの教義より母親の命の方が大切だったからだ。
 そして、少年は村人の目を盗んで何とかこの町までやってきたのだ。
 彼は森で精霊達と良く遊んでいた。
 村の人々は精霊を忌み嫌っていた。ヤフェイの教義に反する存在であったからだ。
 だが、少年は密かに彼等と遊び続けた。
 精霊達がヤフェイの言う恐ろしい存在には少年にはとても思えなかったのだ。
 村の中で伝染病が流行りだしたとき、少年は森の精霊から話を聞いていた。
 その病を治す薬草はこの辺りでは手に入らないこと。
 しかし、シリス神の神殿に行けば薬をわけてもらえること。
 そして、山の麓にある町にかなり大きなシリス神の神殿があることなど。
 それを聞いて少年は、村を捨てることを決意した。
 他の村人にはシリス神の薬のことを言う気にはなれなかった。
 例え言ったところで彼等がヤフェイ神の教義に反するシリス神の薬に頼るわけがない。第一、ヘタにその話をすれば背教者として火炙りになる危険さえあった。
 まだ、夜が明けきらぬ内に、病によって意識を失っている母親を引きずるようにして、やっとの思いでシリス神の神殿の門を叩いたのだ。
 少年が母親を連れて無事にこの町までこられたのは、精霊達の協力があったからこそである。
 そうでなければ、まだ幼い少年が病で動けない母親を連れて、村人に見つからず、不慣れな道を迷いもせずにこんな所までこられる訳が無い。
 もしも、精霊の協力が無ければ、今頃村人に捕まって火炙りになっていたはずである。
「お願いです。かあさんを助けて下さい」
 少年の必死の懇願に、神官は渋い顔をした。
「出来るだけのことはしよう。だが、容態がかなり悪い。
 もっと早くここに来ていれば確実に直せたろうが、これほど拗らせては確実に直すという保証は出来ない」
 神官の静かな言葉に、少年は顔を伏せてきつく唇をかんだ。
 実際、少年の母親の症状はほとんど末期状態であった。
 まだ体力が残っていれば魔術で治療することもできるのだが、極限まで衰弱しきった肉体に魔力を使うと、よけいに症状を悪化させかねない。
 薬を使って直すしかないのだが、ここまで症状が進んでいては、その効果もそれほど期待できないのである。
「ここにシリス神が降臨されれば・・・・」
 壮年の神官が小さく呟いたが、それは誰の耳にも届かなかった。
 人間の医術や魔術とは違い、女神が使う術の中には命そのものに力を与える術もあると言われている。
 それを使うことが出来れば、彼女の病を直すことも容易だろう。
 あと半月ほどで三妖神への感謝を捧げる祭りが始まる。しかも、今年は十年ごとの大祭だ。
 十年に一度、かの女神達は現界を訪れ人々との交流を楽しむという。
 その女神が、この神殿に来てくれたなら、病に倒れた少年の母親を救うこともできるだろう。
 しかし、この大陸にシリス神の神殿はそれこそ無数にある。有力な物だけでも二百はくだらない。
 この程度の神殿に女神が降臨することなど、まずあり得ないことだった。

 そして半月ほど時が過ぎた。
 少年の母親の容態は、一進一退を繰り返した。
 薬と正しい治療法のおかげで、症状の悪化は防ぐことが出来たのだが、体力の衰えが著しいため、とても回復までこぎつけることが出来ない。
 かろうじて薬の効果で命をつなぎ止めているという状況だった。
 母親の看病をしながら少年はこの神殿の生活にとけ込みはじめた。
 少年は神殿で神官見習をめざして勉強していた。
 母親を看病しながら、この神殿で暮らしているうちに、シリス神がもたらした医学と薬学に大きく心惹かれていたのである。
 母親の様子を見て、いかに正しい知識が人を救うために必要であるかを痛感したのであろう。
 それに加えて、今までヤフェイという知識を禁じる神の村にすんでいたために押さえられていた知識欲が爆発したのかも知れない。
 神殿は、少年の熱意と母親の容態を考慮して彼を受け入れた。
 元々、ヤフェイの隠れ村に住んでいたくらいであるから他に身寄りなど無い。
 そこで、神殿側も少年を引き取ることにしたのである。
 ただ、少年を神官見習いの修行をさせることに対しては、反対する神官も少なからず居た。
 少年の熱意は認めるが母親は生粋のヤフェイの信者である。何しろ、自分の命がこれほど脅かされているにも関わらず、自分の意志で村を出ることを拒んでいたのだから。
 もしも、母親が自主的にこの町にきていれば、もっと症状は軽くすんでいたはずだ。
 彼女の症状が重いのは、ヤフェイへの信仰心から村を出ることを拒絶し続けていたためだったのだ。そして、彼女が意識を失いかけてから、ようやく少年が母親を文字どおり引きずってきたのである。
 病が治ったとき、ヤフェイ神の信徒である母親が、このままここにとどまるかどうかは分からなかった。少年の話を聞けば聞くほど大人しくここにとどまるような女性ではないことを神官達は理解した。
 だから、例え少年が望んでも、母親が彼を引きずっていってしまうのではないかという声もあったのである。
 だが病の母親を放り出すわけには行かないし、少年の決意は固い。
 例え母親が正気を取り戻しても、今更村へ帰ることは出来ないだろうと言う意見もあり、結局、彼女の病が癒えるまで様子を見ることとし、本人の希望を優先することにしたのである。

 そして、少年の新しい生活が始まったわけだが、それは平穏とはいいがたかった。
 神官について修行しているときはいい。医術や薬学の授業も喜んで受ける。だが、それらが終わり宿舎に帰ってから、彼は宿舎にいる同年代の子ども達のいじめにさらされていた。
「おい! ヤフェイの奴隷が何でこんな所に居るんだ?
 早くでていけよ!!」
「だいたい、ヤフェイは三妖神様と敵対している悪神だろ?
 そんなの奴の信者がシリス様に許されるわけ無いじゃないか!」
「そうだ! さっさと出てけ!!
 お前なんかがシリス様の神官になれるわけ無いやい!」
 こういう時は子供の方が残酷だ。母親の命を救うために全てを捨てた少年に、周囲の目は冷たかった。
 ヤフェイの信徒は三妖神の信者にとって、許しがたい存在である。
 ヤフェイ。数百年前にこの世界を支配しようとして愚かな戦いを引き起こし、三妖神の前に敗退した愚劣な神。
 そして、その無意味な戦いで多くの犠牲を出した憎むべき”人類最大の敵”
 だが、何よりも、三妖神に敵対していることが彼等の神経を逆撫でするのである。
 三千年以上前から伝わる古い伝説。暗黒の竜とヤフェイ神の争い、それを納めた三妖神の活躍。それは、おとぎ話として人々に広く知られている。
 そして、数百年ほど前に起きた戦いは人類史に歴史として知られている事実。
 その二つが三妖神とヤフェイ神の確執を物語る。
 ヤフェイ神の信徒がどれほど狂熱的にその存在に忠誠を誓っているか、それがどれほど危険であるか。一般の人々も良く知っている。
 まして、シリスに仕える神官ならば、ヤフェイと、三妖神の不仲は真実であり事実であり、現実であった。
 それは、見習いの修行を始めた者達も、神官の子供達にとっても同じ事だった。
 特に少年の決意を知らない子供達にとっては、自分達の神の敵の下僕が目の前にいるのだから、悪態の一つもつきたくなるのである。
「俺は、もうヤフェイ神を捨てたんだ。
 ヤフェイ神は俺のかあさんを見殺しにしようとした。何の知識も与えず、救いもくれなかった。
 でも、シリス神の知識は俺のかあさんを助けてくれている。だから、俺はきっとシリス神の神官になってみせる!」
 いじめにさらされる度、少年はそう周りに言い続けた。それは、自分自身の決心を確かめる物であったかも知れない。
 少年は既にヤフェイを見限っていた。
 例え母親がなんと言おうとヤフェイの元へ戻る気は無かった。そして、母親を説得してここに残ろうと決意していたのである。
 この程度のいじめで挫けていては、この先やっては行けない。
 自分には帰る場所は無い。シリス神に仕えるしか自分の生きる道は無い。
 少年の決意は悲壮でさえあった。

 ついに三妖神を祭る大祭が始まった。
 トリニティの最高権威、大神官長と主神たるシリス・ミューズ・メイル、それぞれに仕える大神官、そして、数千人もの神官達が見守る、大聖堂の正面にある祭壇。
 多くの信者達が見守る中、祭壇の真上に光の柱が立つ。
 力強い黄金の輝きを放つ柱。
 清水のごとき清らかな銀の柱。
 漆黒の闇のごとき黒く、周りを金と銀の輝きが彩る不思議な光の柱。
 それらの光柱が消えた後、そこには絶世の美女が三人たたずんでいた。
 黄金の輝き、太陽の光を束ねたがごとき髪と、太陽の欠片を埋め込んだような黄金の瞳を持つ美丈夫、力の化身”太陽の愛娘”闘神メイル。
 清水の流れのごとき、美しき銀の髪と、月の光を相貌に持つ銀の美女、月の女神”聖月の乙女”薬神シリス。
 艶やかな夜のごとき髪、黄金の瞳と淡く青みがかった銀の瞳。光の知識と闇の神秘を秘めた”夜の女神”雷神ミューズ
 信者達はその美しい姿を認め、深く頭を垂れる。それは、最高の敬意。
 大神官長と大神官が三妖神に対して、深い敬意をもって挨拶をする。
「この日を再び向かえられたこと、私たちにとってこれ以上の喜びはありませぬ。
 これより十日間、神と同じ時を共有できることに感謝いたします」
 大神官長の言葉を受けて、ミューズが答える。
「汝らが正しき道を歩み続けていること、嬉しく思います。
 私達があなた達とこの場所で再び出会えたことがその証であることを、私、雷神ミューズがここに認めましょう」
 ミューズの跡を継いでシリスが続ける。
「わたくし達はあなた達を見守るだけの存在です。
 けれど、同じ時を共有し思い出を共に作ることは出来ます。
 新たなる思い出を共に作るこの時を向かえられた事に、わたくしは喜びを感じています」
 静かに微笑んだシリスに続いてメイルが口を開いた。
「今日より十日間、共に同じ時を生きよう!
 そして、その思い出を新しい時の糧としよう!!
 さあ! 祭りの始まりだ!!」
 メイルが高らかに宣言する。
 そして、祭りが始まった。
 ここまでは、毎回の祭りで必ず行われる行事。だが、これから先は人々と三妖神が思い思いに行動する。
 祭りは無礼講だ。皆がこの時を待ち望んでいた。そして、いつもは荘厳な大神殿もこの時だけはにぎやかな声があふれ、明るい歌声と歓声がはじけるのだ。
 人々が談笑する。三妖神自身もあっと言う間に人の輪に取り囲まれてしまう。
 しばらくはそういう人々の相手をする。いわば祭りの挨拶のようなものだ。
 ただ、中にはいきなり三妖神を口説こうとする恐いもの知らずもいたりする。
「シリス様! お願いです!! 俺と一緒になって下さい!!」
「ミューズ様! デートしましょう!!」
「メイル様、是非、俺に稽古を付けて下さい!!」
 笑って受け流すミューズ、謝りながら真面目に断るシリス、ぶっきらぼうに断るメイル。
 三人三様の反応をしながら、時を過ごす。
 楽しい時はすぐに過ぎるものだ。人々にとって、美しい女神と過ごす楽しい時間はあまりにも早く過ぎていく、そして、それぞれの女神は己の神殿に出向いて行く。

 三人の女神、その美しい姿が空中に浮かんでいた。
 これから、それぞれの神殿に向かう前の僅かな時間。三人だけになるその時に、ミューズはふと溜息をもらす。
「ふう、毎度の事ながら、人間の相手は疲れるわね」
 髪を掻き上げながら見せるその表情を、彼女は信者達の前に出すことは決してない。
 冷めたその瞳には信者達の姿はどのように映っているのだろうか?
 ミューズにとって人間など、自分の主人を不幸にした元凶でしかない。
 愛着も慈愛も有りはしない。ただ、ヤフェイの勢力を削ぎ落とすために人間達の人気取りをしているだけなのだ。
 ミューズにとっては好きでもない相手に愛想笑いを振りまいている訳だから、このような祭りは余り楽しいことではない。
 だが、人間を欺くことは彼女にとって負担ではなかった。
 この程度の演技でヤフェイと人間を引き離しておけるのなら安いものだと割り切っている。
 本当はヤフェイともども、人間を抹殺した方が楽なのだが、諸事情でそのような強硬手段に出られないのである。
「さすが”謀略の魔女”。
 今のお前の台詞を連中に聞かせてやりたいものだな」
 呆れ果ててメイルはミューズを見つめる。
 メイルも人間をそれほど好きにはなれない。人間のために自分の主人が苦しんでいたのは事実であるからだ。
 しかし、だからといって、ミューズのように割り切ることは出来ない。
 彼女は常に人間につかず離れずの立場をとっていた。
「・・・・そのようなことは余り口に出すべきでは無いと思いますよ。
 どこにヤフェイの目が光っているか分からないのですから・・・・」
 例え、この世界に干渉する権利を失っても、この世界の様子を覗き見する程度のことはヤフェイにも出来るし、天使という彼の使い走りも居るのだ。迂闊な言葉は命取りになる。
 シリスがそう窘めるとミューズはシリスを睨んだ。
「この私がそんなヘマをするとでも思うの?」
 氷よりも冷たい、凍てつく言葉を不機嫌に吐き出す。
 だが、ミューズのその言葉をシリスもメイルも素直に取らなかった。
「さて、どうかな?
 お前のことだ、今の言葉をヤフェイが聞きつけて策謀をもくろめば、それ幸いと力尽くでけりを付ける気ではないのか?」
 メイルの言葉をミューズは薄い笑みを浮かべて聞き流す。その笑みが何を意味しているのか、他の二人は十分に理解していたのである。
 それから、三人は別々の場所へと向かった。
 この祭りの間どの神殿に赴くかは、完全に女神達の自由である。それぞれ、自分を主神として崇める神殿に挨拶をしに行くのだ。

 他の二人と分かれてシリスが降り立ったのは、神殿としても中堅、都市としても平凡な規模を持つフェルローズ。
 理由は単純だった。そこに自分の力を必要としている者がいた。ただ、それだけだった。
 この世界の医学技術は極めて高度に発達していた。
 魔術による神性治療、薬草や鉱物など薬物を利用した化学療法――この世界では単純に薬術治療と呼ばれている――そして、神官達のカウンセリングによる精神治療。
 この三種類は医術の三本柱と呼ばれていた。
 この三本柱によって、よほど変わった病、神や魔族の呪い等でもない限りは、ほとんどの病を治療出来るだけの技術が確立していた。
 特に神官によるカウンセリングはそれだけで大抵の病を治療するとさえ言われていた。
 そして、その三本柱の医術を人間に授けたのは他ならぬシリスである。
 人の病は肉体だけでなく、心から直さなければ完全には癒せないと言うのが彼女の考えであり、信者もそれに素直に従った。
 その結果として、当然のごとくシリス神の神殿はその地域の総合病院の性格を持つ事になった。
 一般の医師の手に余るような病や、心に深い傷を負った人間の治療を主に行うのである。
 そして、人の心の苦しみを和らげることを生業とする神官は、精神面の治療に最も適した存在であった。
 そのため、今の水準の医術を持ってすれば、よほど処置が手遅れにならない限りは、女神の手を煩わせるような事態にはならない。
 それほどの技術を持った神官達が切実に自分の力を欲しているのであるから、無視するわけにも行かない。
 ミューズに”お人好し”と酷評されるシリスは、ついついこの神殿に足を向けてしまったのである。
 そして、女神は一人の少年と出会う。

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