[ 三妖神物語 第四話 女神帰還 ] 文:マスタードラゴン 絵:T-Joke

第五章 魔獣の涙、月の詩

 ・・・・それはどれほど過去のことであろうか?
 星が生まれ、滅びるほどの時の流れがあった。

 ある小さな世界。神々の力で封じられた小さな世界に彼等は存在していた。
 彼等の名は魔獣”バシリスク”
 神々に忌まれた者達。呪われたる獣達。
 その視線は生きとし生けるモノを物言わぬ石と成し、その吐息は精霊さえ滅ぼす毒である。
 その血は全てを腐敗させる酸であり、その喉を潤すために飲まれた泉の水は数百万年に渡って毒水と化す。
 その皮膚は触れただけで命あるモノを溶かす腐毒であり、その爪に傷つけられたモノは苦痛と恐怖、そしてその毒に狂い死ぬと言う。
 6本の足と額に短くまっすぐのびた角を持ち、鱗に守られた肉体を持つ毒蜥蜴。
 万物の生命から忌まれた命。
 何故、彼等が生まれたのか? それは、神のみぞ知る。
 何故、彼等はここで生きるのか? それは神の慈悲。
 光も届かぬ薄闇のこの世界で、彼等は細々と暮らしていた。
 仲間の死肉を食らい、死した石を食らって。
 それでも、彼等は生きていた。
 だが、長い時の流れの中で、彼等、バシリスク達に滅びの時がやってきた。
 それは、一つの卵の形をしていた。
 その卵から生まれた小さな命。
 毒蜥蜴達の全ての力。一族の全ての能力を集めて生まれた、最強の子供。
 彼女が卵を割って薄闇の世界へ這い出た時。彼女の目に生きて動いているモノは何一つ写らなかった。
 彼女の強大すぎる毒の力は、毒に対して充分な耐性を持つはずの同族さえ滅ぼすほどのモノだったのだ。
 彼女は目の前の死体を食らって成長した。
 自分がなんなのか? 何のために生まれたのか? 何を成すべきか?
 彼女は何も知らなかった。
 自分の行く末さえも、彼女は知らなかった。
 彼女は自分の能力を押さえることも制御することも知らずに成長し、やがて、神々の力によって作られたこの世界さえ破壊してしまった。
 空間に与えられた神々の力をも彼女の”毒”の力は越えてしまったのである。

 神々はその事態を深刻に受けとめた。このまま、幼いバシリスクを放っておけばその力は全ての世界に染みだしあらゆる命を滅ぼすだろう。
 すぐに新たな結界を張るために神々や魔族から選ばれた者達が崩壊した空間へ向かった。
 この場合、殺すという選択肢は選べない。
 バシリスクの毒は極めて強く悪質なのだ。死体からあふれでる腐毒の方が、生きているときより何倍も強い。バシリスクに対して最も安全確実な対応策は異空間に封じてしまうことだった。

 しかし、彼等はその原因を知っていたが、その力を正確には把握していなかった。
 同族さえも容易く滅ぼし、結界を破壊するほどの彼女の力は神々や魔族にさえ脅威となる力であったのだ。
 不用意にその力の影響空間に近づいた神や魔族はその力に蝕まれた。
 有る者はあっと言う間に病に犯され、有る者は瞬時に石と化した。
 それを癒す術は神々には無かった。
 ”知の神”の一人であり、医術を司る神、ディラフィレスの術さえバシリスクの毒に犯された者達を癒すことが出来なかった。
 最後の手段として、時の女神が毒に犯された者達の時を止め、封印した。いつの日にか彼等を癒す術が見つかることを祈って。
 生まれ落ちたばかりの幼いバシリスクの毒に神々も魔王も対抗する術を持っていなかった。
 このまま放っておけば彼女の毒の力によって神界も魔界も滅び去ることになる。
 神界の王はついに最後の手段を用いることにした。
 活動期に入ったばかりの竜王に助力を欲したのである。
 ちょうど活動期に入っていた白竜王と黒竜王がそれを承諾した。
 さしものバシリスクの猛毒も竜王には通じなかった。
 二体の竜王はその力によって、バシリスクを封じる時の結界を作り上げた。
 そして、再び世界は平和な時を取り戻した。
 十数名の病に落ちた神々と魔王を残して。

 バシリスクはその幼さ故に、自分の身に何が起こったのか全く理解できなかった。
 暗い薄闇の世界が開け、光が目の前に広がると同時に自分以外の生きて動いている者達を見た。そう思った瞬間、有る者は苦悶の表情でもだえ、また、有る者は物言わぬ石となった。そして、目の前に動く者が再び無くなると、今度は長大な体を持つ優美な生き物が二つ彼女の前に現れ、何事かを呟いた時、自分の周りの景色が再び一変していたのだ。
 その世界はとても緩やかに時が流れる異世界。竜王の力によって紡がれた閉ざされた世界であった。

 だが、彼女はそれを簡単に受け入れた。
 もしかしたら、自分は世界から排除された存在であると本能的に理解していたのかも知れない。
 そんな彼女を神々も哀れに思ったのか、たった一つだけ慈悲を与えた。
 神の慈悲、それは夢を見ること。
 彼女はこの封じられた世界で夢を見ることを許された。
 時間の歪んだ小さな世界の唯一の住人は、夢の中でのみ他の世界の住人達を見ることが出来た。
 それは、彼女を魅了した。
 小さなバシリスクにとって他に何も存在しない漆黒の小さな世界より、夢の中の色鮮やかな世界が真実の世界になるのにそう時間はかからなかった。
 それから、遥かな時が流れる・・・・

 彼女の夢の中に新しい住人が生まれた。
 現界に”人間”と呼ばれる種族が誕生したのである。
 初めは何の力も持たない非力な生き物であった人間達は、自分達の創造神ヤフェイから与えられた知識で少しずつ世界にその版図を広げていった。
 だが、それは、様々な生物達との衝突であり、残虐な略奪であり、醜い争いであった。
 人間の神たるヤフェイは人間に無限とも言える欲望を与えた。それを糧にこの世界を全て人間の所有物とするために彼等は戦い、殺し、奪い尽くした。
 生まれたばかりの、幼く非力な命である人間に初めの頃は助力していた多くの精霊達もついに彼等に愛想を尽かし始めていた。
 それでも、彼等の暴挙は収まらなかった。
 やがて、一人の人物が生まれた。人の身には余る強大な力を持って生まれた彼。
 その強大な力は彼自身を苦しめた。その力は彼の仲間であるはずの人間達を恐れさせるには充分なものだった。そして、彼は己の力のために同族から疎まれるようになっていた。
 彼が生まれた時から彼女は彼の存在に心惹かれた
 自身の強大な力に脅え、その力故に苦しむ彼を彼女は見捨てることが出来なかった。
 強大すぎる彼の力、その存在に気が付いた時、人を生み出したヤフェイは驚喜した。
 その力を手に入れられることが出来れば、自分は神の中の神。最高神にさえなれるのだと。
 元々、ヤフェイは神々の中では最下位の存在だった。だが、彼は己の力と地位に満足していなかった。
 ヤフェイの欲望と野心は底なしであった。
 自分はこんな小さな存在では終わらない。必ず神々の世界を支配し、最高の権力と力を手に入れる。その目的のために彼は人間を作った。
 その欲望故に自分達以外のモノを排除し滅ぼすことさえ厭わぬ強欲な生き物。
 それは、ヤフェイが、人間の創造神がそう望んだからだった。
 その欲望の力でこの世界の自分の信徒以外、人間以外の全ての命を支配し、滅ぼすために。
 それによって自分の力と神界での地位を上げ、他の神々の力を削ぐために。
 人間はヤフェイの望みにより神の姿を模して作られていた。人間達はそれが、ヤフェイ神の人間への愛情だと信じていたが、事実は違っていた。
 それはヤフェイの支配欲を満足させるための代償行為だった。
 神に酷似した姿の人間を支配することによって、自分が神の世界を支配したときのことを夢想していたのだ。そして、いつか来るその日まで、自分の征服欲を満たすためのモノだった。
 そんな中に彼が生まれたのだ。
 自分が考えていたよりも早く、その夢が実るときが来た。ヤフェイはそう思い彼の誕生を祝福し、他の神々や魔族は彼を見守った。
 ヤフェイは彼の力の理由を知らなかったが、人間である以上自分に忠誠を尽くすと頭から信じていた。
 神々や魔族は、彼の力の理由を知る者もいたが、それより、彼がヤフェイの命令にどう動くか、その成りゆきを注視した。
 ヤフェイは神の名において彼に命じた。
 自分は人間を作った神である。故に自分に忠誠を尽くし力を貸せと。さすれば、自分の右の席を与えるだろうと。
 だが、ヤフェイのその命令を彼は断固として拒絶した。
 彼は人間を嫌っていた。そして、人間を作った神をも憎んでいたのである。
 皮肉な話であった。
 人間が自分達以外の存在を病的に嫌うのは神であるヤフェイがそう作ったからだ。
 自分達とは違う者、自分達以上の力を持つモノを嫌悪し、排斥する。
 それにより、この世界に生きる人間以外の生き物を排除し、人間の勢力を拡大するのがヤフェイの目的だった。
 だが、それは、人間でありながら人間以上の力を持つ”人間の”彼をも嫌悪し、排斥する事になった。
 彼は人間社会から排斥され孤立していた。そして、彼は自分を受け入れてくれない狭量な人間を嫌い、人間をそのような存在に作り上げた神をも憎んでいたのである。
 まさに、皮肉きわまる結末だった。
 ヤフェイは自身のせこい謀略に足下をすくわれたのである。

 当然、彼の態度にヤフェイは激昂した。
 だが、彼を力ずくで支配しようとしたヤフェイは手痛いしっぺ返しを食らった。
 彼は自分の孤独を慰めるために、そして、自分自身の強大な力が暴走しないように自分を見守り、監視する使い魔を作り上げていた。
 ミューズとメイルと名乗ったその使い魔の力さえ、神であるヤフェイの力を遥かに凌駕していたのである。
 人間の使い魔に叩きのめされ半死半生となり、這々の体で逃げ出したヤフェイ。
 その痴態を神々や魔族は見届けた。
 聖霊や精霊、妖魔や妖精はそれを見て溜飲を下げ、人間であるはずの彼を気に入り、彼に力を貸すことを約束した。
 自分の神をはり倒したという事実は竜族にも大いに受けた。
 神を越えた最高種族・竜族はそう言った反骨の精神を持つ者を大いに愛した。
 神に作られながら、神を越えた自分達にあい通じるモノを感じたのかも知れない。
 その出来事以来、彼は、神や魔王はもとより、竜族にさえ愛される者となったのである。
 だが、大多数の人間達は、自分達の神が人間の使い魔に敗れたという事実を知らなかった。
 ヤフェイ自身がその事を必死に隠していたのである。
 もしも、この事実が人間達に知られたら彼等がどう考えるか、想像に難くない。
 自分の創造物たる人間の、さらに創造物の使い魔にさえ劣る力しか持たない神が、一体自分達にどれほどの栄光を約束できるというのか?
 他の神々や魔族に睨まれたら一巻の終わりではないか?
 まして、竜族の怒りに触れたらどうするのか?
 この出来事を知られれば、人々のヤフェイへの信仰は一瞬のうちに消滅し、人々はそれまでとはうって変わって、他の存在に遠慮して生きることになるだろう。
 それでは、自分の野心が消滅することになる。
 人々は結局、真実を知らされなかった。
 だが、強い魔力を持った者達はその出来事を知っていた。
 残念ながら、その事実を一般の人間に話したところで信じる者などいないだろう。そのため、魔道士達は口をつぐんだが、今までのように、権力者の言いなりに動いたり、自分の欲望のために他の存在を脅かすことはしなくなっていた。
 今までは聖獣や魔獣、精霊や妖魔を敵にしても神の後ろ盾があると信じていた。
 だから、どんな無茶もできた。だが、その神が頼りにならないと分かった以上、自分達より強大な力を持つ存在に戦いを挑む無謀なことはもはや出来なかった。
 そして、有力な魔道士達が大人しくなってしまったために、権力者もそれ以外の人々も思うように勢力を拡大できなくなった。
 強大な魔力を持つ聖獣や魔獣と戦うには魔道士達の協力が必要不可欠だったのだ。
 知らず知らずのうちに、人間達の侵略の足は鈍り、いつの間にかそれは停滞していた。
 それを見た神々や魔族も、今までの人間達の愚行を許すことにした。
 精霊や妖魔や妖精、聖獣や魔獣達も人間をある程度許すことにした。
 亜人種達との交流も始まり、人々はささやかながら平和で幸せな時を生きることになったのである。
 そうして、人々は人間以外の存在との共存を模索しだした。
 ところが、他種族との交流が始まった世界でさえ、彼に対しての人間達の態度は変わらなかった。
 それどころか、以前にもまして冷たくよそよそしいものになった。
 事実を知っている魔道士達などは特に酷かった。
 同じ人間でありながら、自分達にはない強大な力を持つ彼に対する、それは異質な者に対する恐怖ではなく、自分達以上の存在に対する羨望と嫉妬だった。
 人でありながら、聖霊や精霊、妖魔に妖精、神や魔族、そしてなにより、竜族にさえ愛された彼に人間達は今まで以上に冷たくなっていた。
 彼は、もはや、人と生きることに疲れていた。
 それでも、彼は人の世界で生きていた。それは、人間への愛情ではなく自分自身へのけじめだった。
 だが、それが彼にとってどれほどの孤独と苦痛であった事だろう。
 彼の心の安らぎは彼の家族とも言える使い魔達だけであった。
 彼を排斥し拒絶した人間達は、自分達の手に負えぬ事態になったときだけ彼に泣きついた。彼を利用するだけ利用し、それがすんだら、後は知らん顔で無視する。
 彼は人を見捨て始めていた。人間に対する愛情が壊れていったのかも知れない・・・・
 それを見て、彼女は心を痛めた。
 彼の姿は、まさに自分の姿だった。
 強大すぎる力を持ったが故に同族から疎まれ、同族から隔離され孤独に生きる彼。
 自分の分身たる使い魔と共に生きる、その小さな世界にしか安らぎを持たない彼。
 同族を滅ぼす力を持って生まれたがために、結界に封じられ孤独の中にいる自分。
 夢の中にしか、安らぎのない自分。
 それは、まさしく自分自身。
 彼は鏡に映った自分の姿に他ならなかった。
 それ以来、彼女は常に彼の夢を見続けた。
 いつか、彼に救いの手がさしのべられる日を彼女は夢見ていた。
 彼女は彼の姿に自分の姿を重ねていたのだ。
 彼が救われることで自分自身の心を慰めようとしていたのかも知れない・・・・。

 ある時、彼は親友となった竜族からある話を聞かされた。
 古い伝説の中にある”バシリスク”。人が生まれる遥か前に滅び去ったと言われるその呪われた一族の末裔が、ただ一匹生き残っていることを。
 それは神をも滅ぼす忌まわしき生き物。それ故に竜王の力によって、封じられた時の封印の中で眠り続けていると。
 その話を聞く内に彼はその存在に興味を持った。彼もまた、”バシリスク”たる彼女に自身の姿を見たのかも知れない。
 そのことを詳しく聞いた彼は、彼女を救う方法はないかと彼に尋ねた。竜族とはいえ、彼にはその事に対して、なんら方法を知らなかった。唯、竜王ならばあるいはその方法を知っているかも知れぬと・・・・
 マスタードラゴン――竜の力を統べる者――と呼ばれる彼でも、流石に四竜王に会うのには遠慮があった。
 何しろ絶対無敵にして最強無比。あらゆる存在の頂点に立つ究極の存在。
 精霊や妖魔に対しても節度を持って対する彼にとって、神や魔王でさえ会うにはばかる存在である。ましてや、竜王となればそれは別格などと言う生やさしいものでは無い。
 だが、それでも彼は竜王に会うことを望んだ。それほどに、彼女の身を真剣に案じていたのである。
 それを夢の中で知った彼女。
 うれしかった。
 今まで、彼女にそれ程までに心を寄せてくれた者などいなかった。
 彼女は恐れらることはあっても、優しくされたことなど無かった。
 同類相哀れむと言う言葉がある。
 それが、似たもの同士の同情であったとしても、彼女は嬉しかった。
 例え、自分を救う術を彼が見つけられなかったとしても、その想いだけで、彼女は満たされたと思った。救われたと思った。
 彼が望んだ竜王との会見は意外なほどに早くかなった。
 彼の前に現れたのは黒竜王であった。何故なのかその理由は分からぬが、竜族の中でも特に黒竜王は彼に色々と力を貸してくれた。
 黒竜王は決まって、美しいが幼さの残る少女の姿で彼の前に現れた。
 竜王の本来の姿では彼が緊張するという配慮だったのかも知れない。
 最初に彼に親愛を約束したのも黒竜王であった。
 その親愛に答え、黒竜王は彼に語った。バシリスクの毒の力を封じるのは並大抵のことではないと。彼女の力は力の均衡を破壊するほどのいわば歪みであると。
 その歪みを矯正する方法は無いのかと尋ねる彼に黒竜王は語った。
 歪みには歪みの力を持って調和を与えることだけが唯一の方法であると。
 毒という力の振り子がプラスの方向に振れ切った存在が彼女なら、その力の振り子が反対の位置、マイナスの方向に振れ切った存在の力を使えば、あるいはその力を0にする事が出来るかも知れぬと。
 振り子が右から左に、左から右に揺れ動くように、力もまた、ある極限を極めればその対極の方向に動き、極限に達して再び戻ってくる。力にも調和を求める動きがある。
 ある方向に力を持つ者がいれば、その対極に位置する者が存在するのも、自然の摂理なのだ。
 そして、それが、彼の命の力にある事も黒竜王は教えてくれた。
 プラスに振れきった振り子が戻り、長い長い時を経て、マイナス方向に振れきったその因果の元に生まれたのがすなわち彼自身であると。
 それを知って、彼は納得した。何故、自分にあらゆる薬物がほとんど効かないのか。その謎がやっと分かった。
 ほとんど全ての命を滅ぼす毒の力を持つ究極の”バシリスク”その対極の者として自分がいるのだと言うことを。
 だが、黒竜王はさらに付け足した、それは、彼自身の命の力であると。故に、バシリスクの力を封じるには、あるいは命を賭けねばならぬかも知れぬと。
 彼は、それに答えた。
 彼女の毒を完全に消すならともかく、封じるだけならば命を賭ずとも何とか出来るかも知れないと。例え、命を賭けねばならぬとしても、今、この命を失うだけで自分という存在が消えて無くなるわけではない。それならば、賭けてみる価値はあると。
 そして彼は賭けることにした。
 彼の熱意と決心が変わらぬと知った黒竜王はその呪法を教えた。そして、それを使うことを彼は決心したのだ。
 その夢から覚めた時、自分が泣いていることを彼女は自覚した。
 夢の中で、心で泣いたのは自分でも分かっていた。だが、肉体が、自分の身体もが泣いていることを知ったとき。自分がどれほど、彼の言葉に、彼の行動に癒されたのかを彼女は知った。
 そして、彼女は気が付いた。
 自分の身体に変化が訪れていることを。

 それは小さな変化だった。
 右の二番目の足、その足のちょうど付け根の辺りに小さなシミがあることに。
 よくよく注意して見れば、それは、シミではなかった。灰色のはずの鱗。その鱗の内の数枚が白銀色に変色していたのである。
 それが、彼の呪法であることを彼女は理解していた。
 それが、自身にどんな影響があるのか彼女は知らなかった。
 黒竜王が教えた術であるが、その術を自分に、バシリスクに試した者など今までいなかったのだから、どのような結果になるか誰にも分からない。もしかしたら、全くの逆効果になるかも知れないし、自分の命も脅かされるかも知れなかった。
 だが、彼女はその変化を受け入れた。
 今まで、気が遠くなるほど長い時の中で、初めて起こった変化である。それが吉と出ようと凶と出ようと、それを受け入れる覚悟は出来ていた。
 このまま何も起こらなければ、自分は未来永劫この結界の中で生かさず殺さず封じられているだけだ。それならば、危険を覚悟でこの変化に賭けてみようと彼女も決意していたのである。

 彼が黒竜王から与えられた呪法。それは、彼自身の血に強力な術を上乗せしてかける術である。
 彼の命の一部である血の力、全ての毒物を無力化する彼の血の力に彼の神を越える力を与え、バシリスクの力を封じる術。
 バシリスクである彼女の力と彼の血の力は恐らくほとんど互角であろう。
 あとは、仕掛けられた彼の魔力が彼女の持つ魔力を越えられかどうかだ。
 バシリスクとして生まれ持っている毒の力とは別に、彼女にも強い魔力があった。
 その魔力は、おそらく中級神程度はあるはずだ。それを越えることが出来れば、彼の血は彼女の力を封じることが出来るはずだった。
 そして、呪法により力を与えられた血は黒竜王が開いてくれた道に注がれる。
 彼女を封じた結界を作ったのは黒竜王と白竜王である。その結界の一部をわずかに弛めてその血を彼女の元に届けることは、黒竜王には容易いことだった。
 その道に従って流れる血は、やがて、一つの球体に凝縮される。それは力の結晶体。
 その力ある結晶が彼女の元に届く。
 人の握り拳ほどの、彼女の身体に比べれば小さな赤い玉、だが、それがどれほど彼の命を削っているのか、彼女には分かっていた。
 紅玉が静かに彼女の元に降りてくる。灰色と漆黒の闇しかない色彩に乏しいこの世界にそれは、鮮やかすぎる輝きを持っていた。
 その紅玉が、彼女の身体に触れる。次の瞬間、その玉は、ぱあんと弾け儚く消える。そこに銀色の輝きを残して。

 夢の世界にしか生き甲斐を持たなかった彼女に新しい楽しみが生まれた。
 夢から覚めたとき、自分の身体の鱗の色を確認すること。それが彼女の新しい生き甲斐となった。
 灰色の鱗が銀色の鱗に変わる変化に彼女はすぐになれた。鱗の色が変わる瞬間にわずかにむず痒さを感じる。が、変化と言えばそれ位だった。
「一枚・・・・二枚・・・・」
 目が覚める度、彼女は自分の色の変わった鱗を数えた。白銀の鱗の数が増えることに喜びを感じたとき。初めて、自分が生きていることを実感できた。
 初めて生きる喜びと言うものを彼女は知ったのだ。
「九十七枚・・・・九十八枚・・・・七枚も増えたのですね」
 自分の身体の変化を確認して、微笑みを浮かべる。
 人間を見続けていた彼女は、感情という物を夢の中の人間達から学んでいた。
 夢の中で人間を見るまで、彼女は感情という物を知らなかったのだ。
 精霊や妖魔という物は余り感情という物を表現しない。神や魔族もその点では同様だった。
 彼等は物事に動じると言うことはほとんど無く、悲しむことも怒ることもなく、唯、静かに見守る存在だった。
 だが、神々や魔族達も、人という存在を見て感情を表現する楽しさを知り始めていた。
 神々にとっては長い時を生きる間の暇つぶしの様な物だった。勿論、感情などに興味を持たない神や精霊も多くいたが・・・・。
 欠点の多すぎる存在であったが、感情の面白さという物を神々や魔族に、そして、彼女に教えた事が人間の唯一の美点であったかも知れない。
 勿論、感情という物が時として悲劇を生み出すことも彼女は学んだ。あまりにも深い不幸を招くことも彼女は見た。それでも、彼女は感情を持った。

 人をより深く理解するために、彼をなお強く愛するために・・・・

 強い力を秘めた紅玉は一日に一度彼女の元を訪れた。
 彼女はその小さな訪問者(?)が訪れることをとても楽しみにしていた。
 そして、それは、彼女の身体に触れて弾け、鮮やかな輝きを残していく。
 初めはわずか数枚を変化させるだけだったが、変化が進むごとに、彼女の”毒の力”が弱まってきているのだろう、一度に変化する鱗の枚数が次第に増えてきていた。今では、一度弾ける度に、十数枚の鱗を白銀色に染め上げるほどになっていたのだ。

 紅玉が彼女の元に訪れるようになってから既に数十年の年月が過ぎた。
 一日も欠かさずに紅玉は彼女の元を訪れ、その身体に銀色の足跡を残していった。
 そして、紅玉が真紅の滴をきらめかせて弾けた時。
 最後の一枚が、彼女に残された灰色の鱗の最後の一枚が白銀色に輝いた。と、同時に!

 パキーーン!

 澄んだ音を立てて、彼女を封じていた時の結界、竜王の力によって紡がれていた結界が砕けて消えた。
 彼女はそれを信じられない思いで見つめていた。
 確かにこの結界を作ったとき竜王は彼女に語った。この結界は彼女の力を封じるための物だと。故に彼女の力が失われた時、その役目を自ら終えると。
 だが、そんな時が来るなど誰一人信じてはいなかった。彼女自身、単なる気休めだと思っていたのだ。それが、その時が本当に来るなどと、この目で見ても信じられない。
 夢を見ているようで、彼女は自分の目の前に開けた世界を見つめていた。
 長い間、彼女は惚けていた。そして、ようやくこれが現実だと認識できた時、狂おしいほどの喜びが彼女の心を満たした。
 涙があふれて止まらなかった。
 ・・・・かつて、竜王に封じられたとき、彼女はあまりにも幼かった。
 悲しみも切なさも、憎しみも恨みもなかった。だが、長い年月を夢の中で過ごしていた間に彼女も成長していた。感情を知り、心を持っていた。
 そして、泣いた。
 今の彼女は、喜びを知っていた。涙を知っていた。あまりにも大きな喜びに泣くことを知っていた。
 しばらくして、やっと心の中の嵐が収まったとき、自分が何をすべきか彼女は考えた。
 本当は今すぐに、彼に会いたかった。会って礼を言いたかった。だが、自分にはやるべき事があった。それをしてからでなくては彼に会うことは出来ない。
 何より、彼女の力は完全に封じられたわけではないのだ。
 確かに結界は彼女を解放した。それは、彼女の力がある程度安全な物になった事を意味するが、それは、神や魔族から見てのこと。
 現界の弱い生き者達に対しても安全かと言われれば、彼女には自信がない。
 彼に会うためには自分の力を完全に封じることが必要だった。自分の意志で自分の力を制御することが出来なくては現界に行くことは出来ない、彼に会うことは許されなかった。
 彼女は心の中で彼に感謝した。どんなに感謝してもし足りなかったが。
 そして、心の中で必ず彼に会いに行く事を決意していた。
 力の使い方を知らない彼女は、彼に自分の思いを、感謝の言葉を届けることも、彼と約束を交わすこともできなかったのだ。それがどれほど歯がゆかったことか。
 はやる心を何とかなだめ落ちつかせると、彼女は黎明界に赴いた。神々と魔王に会うために。

 彼女の姿を見た神々は恐慌状態に陥った。
 何しろ、遥か太古に神々を恐怖のどん底に突き落とした存在が目の前に現れたのである。
 黎明界で神界の門番をしていた守護闘神や魔界の番人たる魔戦将達が慌ててその侵入者を処分しようとしたが、様子がおかしいことに気が付いた。
 パニックに陥っている者達はほとんどが下級神なのだが、誰一人、病にも犯されず、石にもなっていない。何よりも黎明界に現れた彼女の姿、正確にはその体色が変わっていることを冷静に判断していた。
 こういう非常事態に対しては戦い慣れしている守護闘神や魔戦将の方が冷静に対処できるようである。
 そして、神々と魔王は彼女がその力を封じていることを知った。
 何より、竜王から結界の事を聞いている上級神達は彼女の強大な毒の力が封じられているからこそ、ここに来れたことを理解していた。
「ここを訪れた理由は何ですか?」
 メセルリュースが神々や魔王を代表して彼女に問うた。
「わたくしは、わたくしの力をより正しく使う術を学びに参りました。
 そして、わたくしの力によって病に苦しむ方々を癒したいと思い、ここに参上した次第です」
 それは、自分の力のために病に落ち、時の封印の中で眠り続けている神々や魔族のことをも意味していたに違いなかった。
「あなたは、自分の力を良い方向に使いたいというのね?」
 メセルリュースは優しく微笑んだ。
「はい。わたくしは、今まで自分が生きる理由を持っていませんでした。
 ですが、今、わたくしは自分の生きる道を初めて知ったのです」
 彼女は強い意志を持っていた。そして、それをメセルリュースは正しく理解していた。
「あなたは、これからどうしたいのですか?」
「自分の力を完全に自分の意志で制御できるようになりたいと思います。
 自分の力を制御できなければ、これから先、わたくしに未来はありませんから」
 それを聞いて、メセルリュースは頷いた。
「よろしいでしょう。どこまで出来るか、試してごらんなさい」
「有り難うございます」
 メセルリュースの言葉に彼女は深く、深く頭を垂れた。

 彼女の修行は長い年月を費やした。
 それは、神や魔族から見ればわずかな時間であったが、人にとってはあまりにも長い時間であった。
 到底、人の寿命がつきる前にその修行が終わることはなかった。
 だが、彼女は知っていた。あの夢の中で、彼が必ず新しい命として転生することを。
 残念ながら、自分に新しい命を与えてくれた彼の人生には間に合わなかった、だからこそ、次の転生までには必ず自分の力を完全な物にしたかった。
 彼女は必死に修行を続けていた。
 その様子を見て、今まで彼女を恐れ敬遠していた神々や魔族も、少しづつ彼女を受け入れ始めていた。

 そして、その修行がついに実を結ぶときが来た。
 彼女は自らの力を完全に己の物とした。
 そして、遥かな昔、自らの力によって病に侵され、あるいは石と化した神や魔族を蘇生させたのである。

 神々や魔族はこの時にいたり、完全に彼女を受け入れた。
 もはや、彼女を恐れる者も蔑む者もいなかった。
 それどころか、修行が完成し、彼女がその力を使えるようになってから、多くの者が彼女の力によって癒されていた。
 異界からこの世界を侵しに来る邪神との戦いで傷を受けた者達を癒すことに彼女の力はめざましい効果を発揮した。
 医術の主神、ディラフィレスさえ一目置くほどの、それは芸術とさえ言える技であった。
 そして、彼女が自分の贖罪を果たし終わった後、創造神にして神の王ガルディエルが彼女を呼びだした。
「どうやら、かつての罪を清算できたようだな」
「はい、おかげさまを持ちまして」
 静かに答えて頭を垂れる。
 威厳を持った神の王。その御前に控えている彼女は既に毒蜥蜴の姿ではない。
 長い年月の修行の成果により、姿を変えることも既に学んでいた。
 今、創造神ガルディエルの前に膝を屈しているのは、長い銀髪と銀の相貌を持つ輝くような美貌を持った年若い女神であった。
「今まで、汝は正式な名も地位も与えられていなかったな、白銀のヴェヴルよ」
「はい」
 ヴェヴルとは”名を持たぬ者”と言う意味を示す言葉。
 正しい名を与えられない者、存在を認められない者を意味する言葉。
 彼女は未だその処遇が決定しておらず、名も与えられていなかった。
 それは、彼女がそう望んだからである。
 確かに名を与えられれば、この神界に生きることを許される。神の一員として存在を認められることになる。
 神々の有力者の中には彼女を欲している者も多くいた。
 ディラフィレスが彼女を腹心として向かえるために、自分の右の席を空席にしていることは多くの神々が認めるところであり、大母神としてメセルリュースも彼女の存在を貴重と考えているのも広く知られていた。
 実は、ディラフィレスの話にはおまけがある。
 彼が彼女を欲するのは、その力以上に彼女自身に興味があるのだろうと言うのがその噂であった。
 それがどういう意味かは、語るまでもないだろう・・・・
 それほどに多くの神々や魔族がその存在を認め、この神界に地位を持つことを望まれていた彼女だが、彼女はそれを望まなかった。
 彼女はこの神界に生きる場所を求めてはいなかったのだ。
「どうだ、白銀のヴェヴルよ。
 我にそなたの名を付けさせてはくれぬか?
 そして、正式に薬神の名を持つ気はないか?」
 創造神がそう提案する。それは破格の事だった。
 何しろ、彼女は神々を恐怖のどん底に突き落とし、竜王によって封印された存在。
 この世界の全てに拒絶されたはずの彼女に、創造神自らが、神の一員としての席を提示したのだから!
「魔獣に過ぎぬわたくしごときにそれほどのご厚意。まことに感謝に絶えませぬ。
 しかし、わたくしはあるお方に大恩ある身。
 その恩義を忘れてこの地にとどまることは許されることではありません。
 なにとぞ、わたくしの我侭をお許し下さい」
「そうか・・・・」
 彼女の決心の固さはガルディエルも良く知っていた。
 たった一人の、ある人間のために彼女はまさしく血を吐くような苦しい修行を続けてきたのだから・・・・。
「・・・・しかし、惜しい。
 そなたほどの者を人間の手に渡さねばならぬとは・・・・まことに惜しいのう・・・・」
 心底、残念そうに嘆息するガルディエルに彼女は静かな微笑みを返す。
「誠に申し訳ございません。
 ですが、わたしくしのこの身もこの心も、そしてこの命もあの方の物と心に決めているのです」
 それを聞いて再び深く嘆息し、ガルディエルは頷いた。
「分かった。
 既にこの地にそなたを引き留めておく理由はない。
 そなたの好きなようにせよ」
「有り難うございます」
 そして、彼女はガルディエルの御前から退出した。その時の笑顔はとても幸福そうなものだった。それを思い出して、ガルディエルは三度嘆息する。
「全く、少しは儂の気持ちを察して欲しいものよ・・・・
 ああも嬉しそうにされては・・・・寂しいではないか・・・・」
 もう少し遠慮してくれと、心の中でグチる創造神様であった・・・・

 そして、ついに彼女の待ち望んでいた時が来た。
 現界に、彼の命の波動を彼女は感じたのだ。そう、彼が転生したのだ。その事を知った時、もはや彼女を神界にとどめておける者はいなかった。
「それでは、短い間でしたが、お世話になりました」
 礼を言う彼女に多くの神や魔族が口々に別れを惜しんだ。
「本当に行くの?」
「もう一度、考え直さんか?」
 そう引き留める者も多かったが、彼女は静かに頭を振った。
「わたくしは、あのお方にお仕えするために今まで生きてきたのです。
 それが、わたくしの運命だと」
 そう言う彼女の笑顔に誰もが言葉を失った。
 今まで見てきた中で、最も美しく満ち足りた微笑みに、誰もが何も言えなくなってしまっていた。
「白銀のヴェヴル。あなたがいかなる名を与えられようとも、私達は、あなたに”薬神”の席を空けていることを覚えておいて下さい。
 もしも、あなたが必要と考えたなら、遠慮せずにその名を名乗りなさい。
 私達はそれを望んでいるのですから」
 メセルリュースがそう言って、彼女の手を握りしめる。
 そして、彼女は神界から黎明界へと、現界へと舞い降りた。
 自分の生きる場所へと。新しい世界へと・・・・。

 ・・・・この時、彼女は後々自分が”薬神”の地位を正式に与えられるなどとは、夢にも思っていなかったのである。

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