[ 三妖神物語 第一話 女神降臨 ] 文:マスタードラゴン 絵:T-Joke

エピローグ

 あの事件から既に二週間が過ぎていたが、何事もおこらず、竜一は極めて平穏無事な生活を享受していたる。
 しかし、竜一自身はそのことに気が付いていなかった。
 自分が前にどんな事件に巻き込まれたのか。彼の同居人がいかなる存在なのか。
 何一つ覚えていなかった。
 ミューズがその記憶を消したのである。それがなにを意味するのかはミューズの胸の内であった。
 これまで通り、平凡なかわりばえのない日々を送る竜一。ただ一つの違いは、あの事件の後から、竜一が子猫の名前をミューズに変えたことだけだった。
「よお竜一、あの事件解決したらしいぞ」
 康夫はそう言って、キャンバスのベンチ、竜一の隣りに腰を下ろすと、右手に持っていたカツサンドにかじり付いた。
「事件?」
 何のことかわからない竜一が聞き返すと、カツサンドを飲み込んだ康夫が答えた。
「ほら、例の19歳の男だけが突然消えるってあの事件さ。なんでも、埠頭の貨物倉庫に閉じこめられているのが見つかったそうだ。俺の知り合いもそこにいたよ」
「へえ、そりゃよかった、で、犯人は?」
 竜一の当然の質問に返ってきた答えは、予想通りのものだった。
「皆目わからんとさ。身代金が要求されたわけでもないし、外傷もないから私怨の線も低い、ただの悪戯にしちゃ、二百人という大量の人間を誘拐する理由がわからない。おまけに保護された奴等、みんな、犯人の顔どころか行方不明になったときから記憶が全くないんだそうだ」
「記憶がない?」
 その一言に、何か引っかかるものを感じた竜一は、必死になって思い出そうとした。
 だが、なにも思い出せない。
 難しい顔をしてうなっている悪友を見て、康夫が訪ねる。
「何か悩んでいるようだな。いったいどうした?」
「いや、何か大切なことを忘れているような気がしてならないんだ。何かと聞かれてもわからないんだが、とても大切だったはずなんだ」
 さらに頭を抱て唸ってしまった竜一を見て苦笑した康夫は、そのままカツサンドをかじりながら、一言ぽつりと呟いた。
「ひょっとして、その大事な事って物理の論文じゃないか?」
 康夫の呟きはそれほど大きいものではなかったが、しかし、竜一の耳には妙に大きく聞こえた。
「論文・・・・? なんだそれ」
 竜一が心底不思議そうに尋ねると、康夫は異星人でも見るかのような目で竜一を見た。
「おいおい、冗談はよせよ。3週間前に物理の高瀬教授が言ってただろ。今世紀の物理学の中で、最も貴重な発見と思われる理論についてまとめてこいって。試験が終わったら集めるともいってただろ」
「そんなもんあったっけ?」
 本気で不思議がる竜一に康夫は驚いていた。
 論文・課題の類を一度も忘れたことがない竜一が、こんな事を言うなどと言うことは、康夫にしてみれば天変地異の前触れである。
「しっかりしろ!竜一!!冗談言ってる場合じゃ無いぞ、あの論文提出しないと、思いっきり減点するって教授が言ってただろ!
 あの期限、今日の5時限目だぞ!!」
 その康夫の剣幕は、竜一の心の奥にあった、掠れかけていた記憶を呼び起こした。
 そして・・・
「・・・・・・・しまったああああああああああ!!」

 竜一の絶望の絶叫が、キャンパス中に響きわたった。
 ベンチの隣りに生えていたイチョウの大木の枝の上で昼寝をしていたミューズは、その絶叫を聞きながら、ぺろりと舌を出した。
「あははは、あの時の記憶操作、ちょっとしくじっちゃったかな?」
 その小さな呟きは、悲鳴を上げる竜一の耳に届くことはなかった。

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