[ 三妖神物語 第一話 女神降臨 ] 文:マスタードラゴン 絵:T-Joke
第一章 出会い
別にその日変わったことがあった訳ではない。
竜一は何時もの通り朝から大学の講座に出、何時もの通り昼過ぎに書店のバイトに行った。
そう、何時もと違いなどなかった。
あえて言えば、その日、バイトの帰りに子猫を一匹拾ったことくらいであった。
いや、正確に言えば無理やり彼の部屋に居候したのだ。
その子猫に会ったのは、日が暮れて暗くなり始めた頃だった。
木枯らしが吹く中を家路を急いでいた時、不意に足元に何かが触れる様な感触があった。
なんだろうと竜一が視線を足元に向けると、そこに黒い固まり、否、黒い子猫がじゃれついていたのである。
その子猫は、両の掌より少し小さい位で、生まれてからそれほどたっていないような幼い体を、真っ黒な美しい毛皮で包んでいた。
体は黒一色だが、額と胸に、銀色の毛の幾何学的な模様があった。
瞳は右が鮮やかな金色、左が微かに青味がかった銀色というかなり珍しい、否、美しい風体の子猫だった。
確かに珍しいし、愛敬もある、が、竜一はアパート暮しであった。
どんなに飼ってみたくとも、彼には飼うことは出来ない。
「みーみー」
竜一の足元にじゃれつきながら、いかにも保護欲をそそる、可愛い声で鳴いてくれる子猫に、彼は心を鬼にしてこう言った。
「あのね、お嬢ちゃん。俺のところはアパートで、人間以外の生き物は住めない所なの、良い子だから他の人捜してちょーだい。」
竜一がその子猫を”お嬢ちゃん”と言ったのは、別にその子猫の愛らしい風体から、彼がイメージした訳ではない。
犬や猫のような補乳類は、一目で雄雌の区別はつく。
この子猫は、まごう事無き雌であった。
しかし、その”お嬢ちゃん”は、竜一の言うことになど耳を貸さず(まあ、猫だから当然であろうが)、なおも竜一の足にじゃれつきながら、時々、その宝石のような瞳でじっと彼を見つめた。
(うう、頼むからそんな瞳で俺を見ないでくれえ。そんな目で見られたら、お、俺は、俺は・・・。)
竜一が心の中で苦悩すると、それを見透かしているように、その子猫は竜一を見上げた。
「みーみー」
駄目押しに、更に甘えた声でなく子猫を見た時、竜一は、その場を逃げ出していた。
「はーはーはー、ぜーぜーぜー。」
自分の部屋の前まで一気に走った竜一は、息を切らせてドアを開けようとノブに手をかけた。
その時。
「みーみー」
足もとに、何かが触るのと同時に聞き慣れた声がした。
ぴきいいん!
それと同時に、彼の体は、完全に硬直した。
恐る恐る、足元に視線を落としてみると・・・。
(あああああ・やっぱりいいい!)
おもわず頭の中で叫ぶ竜一。
彼の足元には、いつの間にやら、あの”お嬢ちゃん”がじゃれついていたのである!
いくら、猫科動物の瞬発力が人間のそれを凌駕しているとはいえ、まだ生まれてからそれほどたっていないと思われる子猫に、今年で19年も生きてきた、霊長類人科人目が遅れを取るとは!
竜一は、余りのことに頭の中が真っ白になり、自らの体力の無さを内心で罵った。
しかし、公平に見て竜一の足の速さは人並である。スタミナもほぼ平均的にあるはずであった。
と言うことは、彼が情けないのではなく、この”お嬢ちゃん”がたいした玉と言うことなのだろうか?
「みーみーみー」
またしても、愛らしい鳴き声を出しながら、”お嬢ちゃん”は竜一を見つめていた。
それがいかにも、「お願い! あたしを見捨てないで」と懇願しているように思えた竜一は、思わず頭を抱えた。
この”お嬢ちゃん”は、竜一に見捨てられたら、多分、他の人間が見付けてくれるまでこの寒空の中に放っておかれるは確実である。
これが夏や春ならば、知らんぷりすることも出来るのだが、今は、晩秋である。
これから、寒く厳しい冬がやってくる。
こんな小さな体で、獲物を満足にとる事も出来ないこの子に、果たしてこの時期を乗り切ることが出来るのだろうか?
お嬢ちゃんに泣き付かれること十数分、ついに竜一は根負けした。
しかし、竜一はふと疑問に思った。
これだけ可愛く、綺麗な猫なら他にも拾ってくれる人間はいたはずだ。何故、他の人間に拾われなかったのか?
寒さに振えるのが嫌ならば、もっと明るい、暖かい時間に歩きまわれば、他の人間に拾って貰えた可能性はかなり高い。
それとも他の人はこの子の美しさを知る機会がなかったのかもしれない。
十分にあり得ることだ、捨て猫などいくらでもいるのだから。いちいち、それを見て歩く暇人などいるはずはない。
竜一自身、このお嬢ちゃんが自分からすり寄ってこなければ気づかなかっただろう。
すると、このお嬢ちゃんは、竜一をわざわざ選んだのだろうか?
そんなことがあり得るだろうか?
何の理由があってこの寒空に彼を選ぶ必要があるのか?
しかし、竜一の疑問は長くは続かなかった、彼自身、寒さが身に染みてきたのだ。
とにかく、レディーをこのまま寒空の下に置いておく訳にもいかなかったので、竜一はさっさと部屋のドアを開けた。
「お嬢ちゃんの勝ちだ、入ってもいいよ。」
そう言って竜一がドアを開けてやると、その子猫は彼に顔を向け、実に嬉しそうに一言「みー」と鳴いた。
なかなか礼儀正しい子猫であった。
さて、子供の頃ならばともかく、中学を卒業してからこの方、竜一はペットなど全然飼ったことが無かった。
ましてやここは、ペット禁制のアパートである。
当然、彼女のお口に会うような高級なペットフード等有るはずもない。竜一は、彼女を両手に抱えて見つめた。
彼女も、何事かと竜一を見つめる。
(うーむ、可愛い)
思わずしげしげと見つめる竜一。
くるくると光を放つ宝石のごとき二つの瞳、滑らかで光沢のある美しい黒い毛皮、額と胸にはおしゃれな銀のアクセサリー、両手の上に楽にのってしまう小さな体。
見れば見るほど、愛らしい。
やはりまだ幼いように見える。
この位の子猫には、やはり、ミルクと離乳食当りが適当であろうが、ミルクはともかく、猫の離乳食など竜一は作ったことなど無かった。
どうすれば良いのか悩んでいたが、それも長くは続かなかった。竜一は元々悩みが持続しないタイプなのだ。
とにかく考えていてもらちがあかない、ミルクだけでも飲ませてやろう。
飼うと決めたからには、飼い主の義務であるな、うむ。
そう自分で納得しながら、竜一は冷蔵庫を覗く、確かまだ牛乳がパックの半分ほど残っていたはず。そう考えて冷蔵庫の中を物色しながら竜一は子猫に言った。
「ちょーっと待っててね、お嬢ちゃん。今ミルクあげっからね。」
ところが、この”お嬢ちゃん”は、大人しくしてはくれなかったのだ。
いつの間にやら、冷蔵庫の前に来て、「みーみー」鳴いたかと思うと、冷蔵庫からハムを持ち出したのである。
これには竜一も、さすがに驚いた。
いくら猫が肉食獣の一種とは言え、自分の倍以上はあるハムの固まりを楽々持ち上げて、あっと言う間に
「あ! こら!」
竜一は、思わず怒鳴ってしまった。
実は、あのハムは結構、高級な物だった
友人からの貰い物だが、値段ぐらいは竜一にも判っている。貧乏性の竜一自身ならば、絶対に買ったりしない、それ位高いハムであった。
せこいと笑われるかも知れないが、とにかく、おいそれと手のでない貴重なハムであった。
(それをあのお嬢ちゃんわあ!)
しかし、竜一が怒りを顕にして炬燵まで行ってみると、”お嬢ちゃん”は、彼の予想に反して、ハムに手を出してはいなかった。
ハムの前に”ちょこん”と座って、彼をじっと待っていたのである。
「何、お嬢ちゃん、それ食べたいの?」
「みみゅう」
まるで竜一の問いに答えるように、元気に鳴いてくれる彼女。
「まだ乳離れもろくに出来てないんだろ、無理すると、おなか壊すぞ」
「みみいー」
まるで「へいきだもん!」と言っているように聞こえるのは、竜一の思い込みだろうか?
「平気なのか?」
「みみゅう」
どうやら、ちゃんと返事しているようである。
動物でも人間の言葉をある程度理解出来ると言う話を竜一は聞いたことがあった。
人間の言葉をある程度理解、と言うより、聞き分ける事が出来るから、犬は人の命令を聞くし、猫にも仕付けが出来ると言うのが、その話しの大まかな内容だったような気がする・・・。
しかし、それも長い時間、人間と一緒にいて初めて出来ると言われているのだが・・・。
「本当ーに、おなか壊さないんだな?」
竜一は念を押してみる。
「みいいー」
「しつこいわよ」と言われているよーに思うのは、彼の気のせいであろうか?
(まあ良い。そこまで言うなら食べさせてみるか、おなか壊しても死ぬことはないだろう)
少し開き直りながらも、竜一はハムをナイフで切り始める。
しかし彼女は、じっとそれを見つめているだけで手を出そうとはしない、なかなかに礼儀正しい娘であった。
ハムを、薄めに二枚程切って小皿に盛る、ついでに、ミルクを底の深い小皿に入れて、並べて子猫の前に置いた。だが、どうしたことか、お嬢ちゃんはすぐには手を出さなかった。
しばらく待つが、やはり食べようとはしない。先ほどの様子から見てもおなかを空かせているのはずなのだが・・・。
(・・・まだ手を出さない、まさか俺が許可するまで食べないつもりだろうか?)
そう思い、竜一はしばらく様子を見ることにした。
更に5分待つ。やはり、お嬢ちゃんは、ハムとミルクを見つめながら手を出さない。
(まさか腹が減ってない訳ではないだろうし・・・)
そう思いながらも、竜一は、お嬢ちゃんに向かって声をかけた。
「良いよ、お嬢ちゃん。食べな。」
と言い終わらぬうちに、猛然と食べ出す彼女。
(うううむ、とても信じられんが、このお嬢ちゃん、まじで人の言葉がわかるらしい。)
竜一はそうおもわざるを得なかった。
しかも今時、人間でも珍しいほどに、礼儀正しいのである。
半分あっけにとられながらも竜一は、どうしようか考えた。
これは普通ではない、絶対に普通ではない。
人間の言葉を理解し、人間のようなしぐさをする子猫。
ひょっとして、どこぞの研究所から逃げ出した、人造猫だとか何とか。
しょうもない妄想をしていた竜一を、彼女は、その宝石のように美しい瞳で見つめていた。
その瞬間、竜一は悩むのを辞めた。
(かわいーからいーや)
相変わらず、安易な男である。
さて結論が出た以上、何時までもうじうじ悩んでいても仕方がない、竜一は次にやるべきことを捜した。
それは直ぐに見付かり、再び頭を悩ませる羽目になった。
それは名付けであった。
何時までも”お嬢ちゃん”ではどうしよーもないと、名前を考えようと思い、竜一は、はたと気付いた。
(このお嬢ちゃん、人の言葉がわかるなら、もしかしたら自分の好みの名前があるかも知れん。)
そう思った竜一は、”お嬢ちゃん”に目を向けた。
”お嬢ちゃん”は満足したのか、炬燵の上で目を細めて丸くなっていた。
「お嬢ちゃん、寝た?」
竜一がそう言うと、可愛らしい耳がピクンと動いて、目が開いた。
どうやらまだ寝ていなかったらしい。
「お嬢ちゃんに名前を付けようと思ったんだけど、なんか、お望みの名前ある?」
この時竜一は、まだ冗談半分だったのである、しかし・・・。
”お嬢ちゃん”は、目を細めて、”にゃー”と鳴いた。
それがいかにも、笑顔で「うん」と言っているように思えたのは・・・。
いや、もうしつこく言うことではないだろう。
それは竜一の気のせいだったかも知れない、しかし、彼はそう思ったのだから仕方がない。
とにかくおもしろ半分に、平仮名と片仮名の50音表を作って、”お嬢ちゃん”の前に出してみたのである。
いくら何でも、そんなことはないだろうと思っていた。
人の言葉を聞き取るだけでも異常なのに、そこまでするなんて、竜一は考えてもいなかったのだ、だが!
やってしまったのである、その”お嬢ちゃん”は。
彼の作った50音表を、右手で(ここまで人間臭いと、とても右前足だなんて言えない!)、しっかりと何文字かを押さえて見せたのである!
さすがに、我が目を疑った竜一は、何度も試した。
勿論、文字の順番をでたらめに変えたり、平仮名と片仮名を二つの紙に分けてみたり、絶対偶然で、同じ文字を差せない様にして、何回もやってみた。
しかし、
この”お嬢ちゃん”は、しっかりと同じ文字を正確に示して見せたのである!
「ミ・ー」
竜一は思わず、お嬢ちゃんの指した片仮名を読み上げた。
「ミー、って、安直じゃないか?」
彼は、お嬢ちゃん、否、ミーを見つめて、改めて聞いた。
その言葉に、ミーは、少しうつ向いた。
その姿に、竜一は、何かを感じたような気がした。
しかし、感じただけで、それが何かは、彼には判らなかった。
しかし、どうやら彼は、そーとーとんでもない物を拾ってしまったようである。
だが今更捨てるなどということは、当然出来ない。
すでに情が移ってしまっていたのだ。
ミーは満足したのか、再び目を細めて丸くなった。
(ま、なるよーになるか・・・。な・・・?)
神崎竜一、どこまでも、どこまでも、安直な男であった・・・
ピピピピピピピピ
心地好い(?)電子音が、竜一の耳に飛び込んできた。
確かめるまでもない。勤勉な目覚まし時計が、主人をたたき起こすために、毎日の勤めを果たそうと努力しているのである。
どうやら朝になったようである。
(うう、もう少し寝ていたいのになあ。)
蒲団の温もりと、眠りの館の誘惑に、しかし、竜一は必死で抵抗した。
起きねばならないのだ。
遅刻しては、わざわざ大学生になった意味がないのだから。
そんな竜一を、随分珍しい奴だと笑う者は多い。しかし彼に言わせれば、高い授業料を払ってまで大学に来ているのに、何もしないで時間を潰している連中の方が、理解に苦しむのであった。
(そんなに金が余っているなら、少し俺によこせ!)
そう叫びたいのをじっと我慢する竜一であった。
目を覚ますと、ミーが竜一の顔を覗き込んでいた。
「みー」
どうやら、朝の挨拶らしい。
全く礼儀正しい娘である。
「ああ、おはよう」
挨拶を交わすと、竜一はさっさと着替え、朝食を作った。
電子ジャーで炊きあがった米の飯と、インスタント味噌汁。
後は、出来合いの焼き魚と大根おろしである。
昨日ハムを食べたミーは、どうやら体調に変化は無いようだ。
頭の出来同様、消化器官も普通では無いらしい。
という訳で、今朝のミーのメニューは、竜一のご飯と同じである。
消化器は頑丈だが、さすがに体の大きさに見合った量しか食べないらしく、彼の取り分はそれほど減らないので、一安心であった。
何しろ彼は貧乏とは言わないが、それほど贅沢が出来る訳でもない、
路頭に迷うとか、毎日の食事に困るとか、そういう事はさすがに無いが、他の大学生のように、冬にはスキーや、ハワイ旅行、夏は、海にツーリング、等という贅沢は、全く出来ないのだ。
もっとも、これは、単に財力だけではなく、彼の”貧乏性”というもって生まれた性格の問題もあるが・・・
とにかくそんな訳で、ミーの食欲が常識外れだった日には、今すぐ荷物をまとめて逃げ出すしか無いのである。
さて食事も終わり、かたずけも終わって大学へ行くことになったのだが、この新しい居候をどうするかで彼は少々悩んでしまった。
ミーは、頭が良いから、よくいって聞かせれば、一人で留守番するくらいどうと言うことはないだろう。
しかし、部屋のストーブをつけたままにする訳にもいかないし、火も無い、この寒い部屋に置くのは忍びない。
(炬燵だけでも付けたままにしておこうか?)
彼が悩んでいると、再び”みー”という声が聞こえた。
どうしたのかなとそちらを見ると、しきりにドアに両手(やはり、前足とはとても言えない)をついて押す格好をしている。
「どうした?」
竜一が問いかけると、ミーは彼を見つめて、”みいいー”と鳴いた。
「ひょっとして、お前、俺についてくるつもりか?」
「みゃん」
どうやらそのようである。
(まあ、こいつ位頭が良ければ、誤魔化すのは訳無いだろう。)
竜一はそう思った。
何しろ、講義は、真面目に受ける気の無いやつらで、ただでさえくそ喧しい。
騒ぐ位なら来るなと言ってやりたい竜一だが、彼等は単位を取るために、出席日数を稼ぎに来ているのだ。
それが竜一には腹だたしい。
それでいて、テストになると、学校一真面目で、上位の成績をキープしている彼のノートを当てにしてすがりついてくるのだから、竜一にはたまったものではないだろう。
しかし、相手もそれは心得ているらしく、時々お歳暮ならぬテスト返しとばかり、お礼を返してくれる。
その内容は食料品が多かった。
夕食にミーが食べたハムも、そう言った戦利品の一つであった。
相手もなかなかに心得ているらしく、おかげで竜一は未だに彼らにノートを貸しているのであった。
まあ、ここでそのことを愚痴っていても始まらないし、これ以上悩んでいては、本当に遅刻してしまう。
我に返った竜一は、ミーを見た。
ミーは、じっと彼を見つめている。
「よし、一緒に行くか!」
「みゃうん!」
元気良くミーが一声鳴いた。
竜一は、ミーをジャンパーの胸のところに、首だけ出る様にして中に入れると、足早に駅へと急いだ。
「きゃー、かわいい!」
黄色い声が耳に痛い。
遅刻しないように出てきたとは言え、講義は10時からであり、当然ラッシュアワーは過ぎていた。
今この時間に乗っているのは、竜一と同じ大学生か、暇を持て余したプータロー達、後は買い物に出かける主婦ぐらいのものである。
十分に余裕のある車内で座席に座っていると、向かいにいる大学生と思しき女性達が、ミーに気付いて歓声を上げる。
その騒ぎを聞き付けて、好奇心旺盛な子供達が、買い物へ行こうとしている母親をわざわざ引っ張って、何があるのかと覗きに来る。
そして、彼の右肩に乗っているミーをもの珍しげに眺めて喜ぶ。
竜一がミーをジャンパーに入れていたのは、寒さから守るためである。当然、暖かい車内ではミーを胸元に入れておく必要はない。
そんな事をしたら、ミーよりも竜一が暑くてたまらないのだ。
ミーは揺れる車内で、器用にバランスをとって竜一の肩にしっかりと座っている。
その様子に子供達ははしゃぎ、女学生達は黄色い歓声を上げる。
何しろ、竜一の肩に乗っている仕種だけでも愛らしいのに、その瞳の色は宝石を思わせるほどの鮮やかな黄金の輝きと、淡い青さを秘めた銀の輝きという、神秘的な色なのだから騒ぐなという方が無理かも知れない。
さらに、そのかわいらしい子猫とそれなりにハンサムな男の組み合わせはかなり人目を引いた。
この時竜一は、ミーを連れて来たことをおもいっ切り後悔していた。
黄色い歓声を耳のおくに響かせて、竜一は電車から降りた。
大学に着いた竜一がまずしたことは、ミーに絶対に目立たないように念を押すことだった。
「良いな、ミー。鳴き声を上げたら駄目だぞ。いくらうるさくても、人間の声と猫の声は別ものだ、直ぐに気付かれちまうからな。」
「みゃうん」
ミーは、囁くように小さい声で返事をした。
全くもって、物分かりの良い猫であった。
そして、一時間目が始まる頃、彼はいつもより3段ほど教壇から離れたところに着席した。
いつもなら騒音を避けるため一番前の列に座るのだが、いくら足元で大人しくしているとは言え、猫がいるのにそんな近くで講義を聞くほどの度胸は竜一にはなかった。
そのせいで、何時もより聞き取り難くなるのは仕方の無いことであろう。などとやっているうちに、教授が入ってきて授業が始まった。
とにかく何時もの通り、くそ喧しいお陰でミーの存在はばれずにすんだようだ。
何事もなく、無事に講義は終わった。
しかし、いつもより後ろの席だったせいで、教授の話が半分しか聞き取れなかったため竜一はさすがに後悔した。
(うーむ、やはりミーを大学に連れてきたのは無謀であったか・・・。)
極めて当たり前の結論であった・・・。
しかし、どうして自分は、大学にミーを連れてきてしまったのであろう?
今更ながら、何故この子を連れてきてしまったのか、竜一には納得がいかなかったのだ。
竜一は自問自答した。
(部屋が寒くて可愛そうだから?それなら、炬燵を付けておけば良い。
餌の心配?こいつ程頭の良い猫に餌の心配がいる?
まさか!餌を出しておけば、勝手に食べるだろうに。
管理人に見付かるとまずい?こいつが鳴かない限りばれっこない。
おかしい、なぜだ?
まーったく理由がないぞ! なぜ俺はこいつを連れてきてしまったんだああ!!)
とにかく、あの時、ミーの目を見た時、自然にこの子を連れてこようと思ってしまった。
何故なのか?
(ううむ、まさかこ奴、催眠術でも使えるのだろうか?)
竜一は、一瞬本気でそう疑った。しかし、直ぐに否定した。
万が一にミーが催眠術を使えたとしても(そう思うこと自体、無茶苦茶なことであるが)、竜一が理解出来る言葉で話さない限り、ミーが何を望んでいるのか、彼にはわからないはずなのだから。
(うんうん、気のせいに違いない、そーに決まった。今決めた!)
竜一は、自分でそう納得する。
まあ、きわめて常識的な結論であろう。しかし、常識的な結論が必ずしも正しい訳ではない、時として非常識なひらめきが真実を貫くこともあるのだ。
しかし、この時、竜一がそれに気付かなくとも、それは彼の責任ではない。
竜一は、胸元でじっと彼を見つめているミーを見ながら、一人でうんうんと納得した。
とにかく、午前中に彼の出るべき講義は総て終えた。と言う訳で、昼食をとるために教室を出た。
さすがにミーを連れて食堂へ行くほど竜一は常識外れではない。
購買部でパンと牛乳、紙コップを買ってキャンパスの人気の無いところで、ミーと二人(すでに竜一は心の中で、ミーを人間と同格に扱っている)っきりの食事を始める。
「なー、ミー、お前どこからきたんだ?」
竜一はパンをかじりながら、傍らで、ミルクを嘗めているミーに尋ねた。
今ミーが嘗めているミルクは、先程買った紙コップをカッターで切って作った簡易小皿に入れているのだ。
”みゅ?”
どうやらミーも知らないらしい。「さあ?」と言いながら首を傾げている。
その仕草が、何とも言えず、とーっても可愛い。
などとミーと戯れていると、後ろから声をかけてくる男がいた。
「おーい、竜一、なにやってんだ?」
声の主は、竜一の悪友Aこと
童顔で、どう見ても、中学生位にしか見えない顔で、縦に長く、横にやや細目の体つきの優男という風体であるが、これがどうして、なかなかの格闘技の達人というのだから、人は外見で判断してはいけないという生きた見本である。
それを知らずに喧嘩を売ってきたものも何十人といたが、全て返り討ちになって病院のベットと親睦を深める事になった。
今では、道を歩くとサングラスをかけたパンチパーマの体格の良い”いかにもその筋”とわかる男達が、こそこそと裏道に逃げ込む有様である。
竜一同様、真面目に講義を受けている今時珍しい大学生であり、動物好きな男であった。
「おー、我が悪友どのか。いやなに、ただ今デートなんだなこれが」
竜一がそういうと、康夫は目を丸くした。
「おお! ついに彼女いない暦に終止符を打ったという訳か。いや、めでたい!で、お前に惚れた奇特な彼女って、どこ?」
口の悪い男であるが、根性は悪くない。
それは知っている竜一だが、少し不機嫌になった。
(俺に惚れると奇特なのか?その言い種はあんまりだとおもうぞ・・・。)
「ここにいる」
彼は、傍らでミルクを嘗めているミーを指差した。
「ほほう」
康夫は、小馬鹿にしたような声を上げて、ミーを見た。
「おじょーちゃん、こっち向いて」
正に、軟派丸出しの軽薄な台詞をミーにかけたのは、勿論康夫である。
「みゃ?」
「なあに?」といわんばかりに、ミーは振り向いて、康夫を見た。
これには康夫も少々驚いた様である。
それはそうだろう、まさか冗談半分に出した台詞に、人間の女性さながらの反応を子猫が返したのだから。
しかし、そこはさすがに竜一の悪友どのであった。
あっさりと体制を立直し、まじまじとミーを見つめて言うには。
「ううむ、美人だ。こんな美人が、こんなつまらん男に付き合うとは信じられん。お嬢さん、今からでも俺に乗り換えない?」
・・・・・・沢田康夫、竜一に負けず劣らずの奇特な男であった・・・・・・。
彼等を良く知る者達は、二人を指さしてこう呼ぶ。
”類は友を呼ぶ”、”似た者同士”と。
客観的に見て、それらの批評はかなり正鵠を射ていた、しかし竜一は、頑としてそれを認めようとはしない。
”類は友を呼ぶ”と呼ばれる度に竜一は、心の中で叫んでいた。
(俺はまともだ!誰が何といおーと、ぜーったいにまともだ!まともなんだからなあ!)
勿論、康夫も竜一と同じ心境であることは、説明するまでもないであろう。
どこまで行っても、似た者同士の二人であった・・・・・・・。
さて竜一が康夫の台詞に呆れて何かを言おうとした時、それより早くミーは、プイっと顔をそらし、再びミルクを嘗め始めた。
「嫌われてしまったらしい。」
苦笑しつつ、悪友どのは肩をすくめた。
「で、このおじょーさん、本当に猫なのか?」
意味ありげな康夫のいきなりの質問に、竜一は驚いた。
(いきなり何をいーだすんだこいつは?)
しかし康夫の顔は真剣そのものである、とても、からかっている様には見えない。
「見ての通りだ、猫にしか見えん。」
竜一は、努めてぶっきら棒に答えた。
「しかし、それにしては、あのリアクションはふつーじゃない。」
確かに普通の反応でないことは認めるが、たったあれだけのことで、そういう結論に達するものか?
竜一はそう思い、反論した。
「しかし、ただの偶然だろう?」
「ほほう、ただの偶然ね。」
康夫の目が、すうっと細くなった。
普段は童顔で愛敬のある顔立ちだが、こういう目をされると、とたんに康夫は凄まじい迫力をもつようになる。
その目はまさに武道家、いや、古代の戦士そのものであった。
何時もの康夫なら、武道の達人だといわれてもピンと来るものはほとんどいない。
しかしこの目になると、誰もが彼が唯者で無いことを思い知らされる。
実際、康夫に喧嘩を売った相手は、この目で戦意の大半を失うとさえ言われている。
「じゃあ聞くが、この娘お前の家で飼っているんだろう?」
「まあね」
これは事実であるから竜一も隠さない。
「その飼猫をなんで、大学まで連れてくるんだ?教授にばれたら大目玉だろうし、この学内で迷子になる可能性だってあるだろうに」
言われてみれば、確かにその通りである。
「それなのに連れて来たのは、こいつにはその危険が無いと確信したからだろう?」
「ま、まあ・・・そういうことになるか・・・な」
我ながら、随分と弱気になっていると思いながら竜一は答えた。
「と言うことは、こいつは、普通の猫じゃない。幾らしつけたからって、猫がそうそう大人しく人の言うことを聞くはずが無い。さあ、どうだ、何とか言うてみい」
康夫の追求に竜一は内心で頭を抱えた。
(うう、どうしよう、素直に話すべきだろうか?しかし、信じてもらえるとも思えんが・・・)
「みみいー」
竜一が悩んでいると、ミーが、いつの間にやら彼の傍に寄ってきて、しきりに声をかけてくる。
「ん、どーした、ミー」
竜一の問いに、ミーは顔をそむけて”みゅうー”と小さく、実に恥ずかしそうに声を上げた。
「ああ、トイレか。ちょっと待ってね」
竜一がそう言うと、康夫は彼をしげしげと見つめて、あきれた口調で問いかけた。
「お、お前、猫の言葉がわかるのか?」
「へ?」
何とも、我ながら間の抜けた声だと竜一は思った。
とにかくその場を取り繕わなければならない、慌てて説明をする。
「い、いや、判るって言う訳じゃなくて、何となくそんな気がするんだ。変かな?」
「おもいっきり変だ!」
身も蓋も無く、康夫はきっぱりと断言した。
(うう、余計なお世話だ!)
心の中で叫びながら、竜一はとにかくミーを人目に付かないところに連れて行く。とたんに彼女は、はじかれるように木の裏側に隠れてしまった。
竜一に見られるのが恥ずかしいらしい。
どこまでも、人間臭い仕草をする子猫であった。
「やっぱり普通じゃないな、あの娘は」
そう呟いたのは、竜一についてきた康夫の台詞である。
確かに、これだけ人間臭いところを見ては、そう思うのも当然であろう・・・。
「どこぞの研究所から逃げた人造猫だとか、遺伝子操作で知能を高めた天才猫だとかだったりして」
これは竜一の台詞では無かった、彼の悪友の台詞である。
だが、その台詞に、竜一はおもいっ切り焦ってしまった。実際、彼もそう思っていたのだ。
竜一は、自分自身の狼狽を押し殺し、軽蔑した目で康夫を見た。
「本気でそー思っている訳?」
しかし、悪友は、彼の白い視線を平然と受け流して、きっぱりと断言した。
「他にどういう説明が出来る?」
(このあたりの神経の太さを、俺も見習いたいもんだ)
竜一は本気でそう思った。
「しかしそうすると大変だぞ」
にやにやと嫌な笑いで、竜一を見つめる悪友Aこと康夫。
「もしこの仮説が正しいならば、おそらくあの娘は、トップシークレット。それと一緒に暮らしているお前は口封じのために・・・・」
そう言いつつ、右手を首のところへもってきて、水平に動かす。
勿論、ギロチンの物真似である。
「消されるって言うのか、はっ、馬鹿馬鹿しい。小説やドラマじゃあるまいし」
笑い飛ばした竜一を、康夫は、更に悪趣味な笑いで答えた。
「事実は小説よりも奇なり」
「よせよなあ!」
竜一の叫びは、康夫の耳には届いた。しかし天には届かなかったのである・・・・。