[ 三妖神物語 外伝 裁きし者 ] 文:マスタードラゴン 絵:T-Joke

その壱、女神の慈悲

 彼女に会ったのは3日ほどまえの事。

 その日の昼過ぎ、ミューズとシリスは夕食の買い物を済ませ、家路を急いでいた。
 近代的なビル群の中に建設途中で打ち捨てられていたビルが道の反対方向にあった。
 バブルの時無計画に建てられたビルは、その後のバブルのつけとともに朽ちようとしている。
 その前で人間の耳には聞こえない”悲鳴”を彼女達は聞いた。
 切なく悲しい女性の悲鳴。心からにじみでてくる血を吐くような絶望。
”もう・・・・耐えられない・・・・いっそ死んでしまいたい・・・・”
 精霊の声はともかく、人間の心の”声”は普通なら彼女たちには届かない。
 この町には何十万、何百万という人間が住んでいる。それだけの人間の”声”が聞こえていたら、神経が持たない。
 そこで彼女達は心の声を遮断していた。彼女たちが人間の”声”を聞くとすれば、自分達の主人たる竜一の声か、あるいは極近くにいる”死に行く者”の声だけだ。
 その声の主は、年若い女性と思われた。
 シリスは立ち止まり、右に見えるすさんだビルに視線を送る。
「シリス、放っておきなさいよ。いちいち人の生死に私たちが関わる事なんて無いわ」
 買い物かごを右手に下げたミューズがあきれた。
「ですが・・・・ミューズ、あなたも御主人様が覚醒するときに犠牲となった人々を助けたのでしょう?」
 シリスの問いにミューズは一瞬硬直した。
「な・・・・何で知ってんのよ! 秘密にしてたのに!!
 誰に聞いたのよ、それ?」
 悲鳴を上げたミューズだが、シリスは優しく微笑むだけだった。
 かつて、彼らの主人である竜一をねらって魔術結社が200人もの男性を誘拐し、全てを殺したことがあった。その時、ミューズはこの世界の死を司る神、冥神”プルートー”とかなり強引な手段で取引し、その200人を再生させた経歴があった。
 しかし、それは秘密にされていた。
 マスタードラゴンの遺言により、不必要に世界に干渉してはならないと言う命令が、彼女たちには与えられていた。
 ミューズはこれを”必要なこと”と自身を納得させて行ったのだが、かなり乱暴な手段であることは変わらない。もしも、竜一に知られれば、こっぴどく怒られることだろう。たとえ、そのことに竜一自身が感謝しているにしても。
 そんなことを許してしまっては秩序を保てなくなるのだ。だからこそ、薄々気が付いていても、それを口にはしない。
 口に出してしまえば、ミューズを処罰せざるを得ないのだから。
「わたくしは、この声の主を助けるのは必要なことだと判断します。
 少なくとも、何かの意味があるとわたくしは思います。
 わたくし達二人が通りかかったとき、この悲鳴が聞こえた・・・・
 その縁を大切にしたいのです」
 そう笑顔で言うと、ミューズの答えも待たずに、さっさと道路をわたって、ビルへと走り出した。
「勝手にしなさい」
 その後ろ姿に溜息を投げつけて、ミューズは歩き出した。

 廃虚のようにすさんだビルの屋上で、少女は思い詰めた瞳で地上を見る。
 建設途中の為か、安全柵もろくに作られてはいなかった。
 勿論、立入禁止の札もあった。悪戯好きな子ども達を拒むために屋上の扉は鍵が掛かっていたはずだった。だが、長い間にそれ等も用をなさなくなっていた。
 長い間打ち捨てられ、忘れ去られたこのビルは、自分の名を思い出してもらうために少女を招き入れたのかもしれない。

 豆粒のように小さな人々。
 マッチ箱のような車の群。
 それらが歪んで見える。

 瞳にたまった涙。
 絶望と悲しみの数。
 苦痛と苦悩の日々。

 ここから飛べば、楽になれる。もう、悲しみも苦しみもなくなる。
”死”の甘いささやき。
 あこがれていた相手に裏切られ、体をもてあそばれ心を引き裂かれた少女にはその誘惑にあがらう事など不可能だった。

 さあ、飛ぼう。そうすれば全てから逃れられる。もう苦しむことはない。

 ためらいながらも、踏み出された少女の足。
 そこに在るのは空。
 人の技では進むことも、とどまることも、そして、引き返すことさえかなわぬ、鳥達の聖域。
 風が少女の耳元で吠える。
 それは死神の歌。
 やがてそれは、彼女の死を歓喜で迎えることだろう。
 さようなら・・・・
 閉じられた瞼から流れ落ちる涙とともに、小さな呟きが唇からこぼれた。
 その少女の呟きを聞き届けた者は、死神と、風、そして・・・・
「命を粗末にするのは感心できませんね」
 え?
 それは魅惑的な、慈愛に満ちた声音だった。
 女神という存在が実在するならば、きっと、そんな声で語ってくれるに違いない。
 その心を虜にするような美しいささやきを、少女は確かに聞いた。
 それも、自分の耳 元で!
 そんな馬鹿な! 自分はビルから飛び降りたはずなのに!!
 その驚愕と同時に、気づく。
 死神の歌が消えていることに。そして、自分を包み込むような優しい温もり。
 そして、自分が誰かに抱き抱えられていることを知った。
 おそるおそる、閉じていた目を開く。
 そこに、自分を抱き抱える美しい女性の姿があった。
 銀色の柔らかい輝を放つ光の糸とも見える腰まで届く長い髪。
 あまりにも整いすぎた、人とは思えぬほどの美しい顔。そして、慈悲深い光を放つ月のかけら、銀の相貌。
 華奢で、小柄な体でありながら、人を圧倒する存在感、それ以上の温もり。
 なにもかもが、人とは次元の違う存在。そして、その背中には・・・・
「て・天使・・・・?」
 驚愕に見開かれた彼女の瞳は、自分を抱えている小柄な女性の背中にそれを見た。
 美しく淡い、そして、微細な色彩を描く銀色の翼を。
 そう、その女性には翼が生えていた。その美しい翼を微かに動かして、ビルの屋上へと彼女を連れ戻す。
 ふわりと人一人を抱えているとは思えない軽さで、銀色の”天使”は、屋上に舞い戻った。
 買い物帰りの主婦や土曜日ということもあって下校途中の学生達が大勢いるにも関わらず、その天使のことを気にする者は一人もいなかった。
 彼女自身が気づかれないように術を使ったのも勿論原因だが、人々が自分以外の者にさして関心を持っていないのも確かだった。
「そ・・・・そんな・・・・天使だなんて・・・・私は夢でも見ているのかしら?
それとも・・・・私はもう死んでいて、お迎えが来たのかも・・・・」
 少女は、混乱していた。
 そのためか、彼女の翼が普通の”天使”の物とは多少異なっていることに気が付かなかった。
 鳥の翼ではなく、むしろ、とかげのような、魔物のような翼であることに。
 もっとも、天使だろうと悪魔だろうと、この場合大差はないかもしれない。
 確実にいえることは、目の前に在る現実を信じる事がかなり難しいということだ。
 現実を受け入れるくらいなら、これが夢の中か死後の出来事と思った方がよほど納得できる。
 あまりのことに声も出せず自分を見つめている少女に、美しい天使は優しく微笑んだ。
「どうしたのですか?命を捨てようとするなんて」
 静かに語る彼女の声は、優しさと厳しさの両方を含んでいるようだった。
 その言葉で彼女は現実に立ち返った。自分はまだ死んでいない。そして、これは全て現実なのだと言うことを知った。
「・・・・う・・・・うわああああ!」
 泣き出した少女を銀色の天使は優しく抱きしめた。
 少女は彼女にすがって泣き続けた。
 やがて、少女が何とか落ちついたとき、銀色の天使は彼女にささやいた。
「わたくしは、あなたを助けるためにここにいるのです。
 心の中のあなたの傷をおしえてくれませんか?」
「ど・・・・どうして天使が・・・・天使なんていないのに。いる訳無いのに・・・・」
 天使と間違われるのは彼女にとっては、はなはだ不名誉なことだった。しかし今は彼女の心をときほぐしてやるのが先決である。シリスにとっては、命の重さに比べれば、多少の不名誉など問題ではなかった。
 シリスらしい行動だろう、もしも他の神ならば、天使ごときに間違われればへそを曲げてしまうかもしれない。
 神々の中には、命より名や名誉を重んじるものも多い。
 人間が神を”下等な”存在に間違えたりすれば、たいてい、その場で見捨てられるか、酷いときには名誉を傷つけたとして、神の手で葬り去らる事にもなりかねない。
 全ての神がそうではないが、そう言った神が少なくないことも確かだ。
 幸いなことに、シリスにはそう言う悪癖がなかった。

 少女は泣きながら話し始めた。
 一度死を覚悟し、天使に助けられたという非現実的な状況。
 この”奇跡”に少女はすがりつきたかったのだろう。
 ぽつりぽつりと語る彼女。それは、ある意味ではたわいのないことなのかもしれない。
 ・・・・・ドラマや漫画の中ではよくある事件。
 しかし、女性の身に現実に起これば、それは、極めて重い物だ。
 強姦。そして、それをネタにした強請。
 何度と無く体をもてあそばれ、時には金の無心をされる。
 断ろうにも、暴力とビデオの恐怖に成す術もなく、ついに彼女は命を絶つ決心をしたのだった。
 彼女にそのようなことをした男達にしてみれば軽い遊びだっただろう。それが、少女にとっては命を捨てなければならないほどに重い事実だということに気づくこともなく・・・・。
 あるいは気が付いていたのかもしれない、それでも、彼らにしてみれば他人事という事か。
 そのことに罪の意識など無かったに違いない。
 だが、そのつけを清算するときが訪れたようである・・・・

 全てを話し終えた少女に、シリスは優しく微笑んだ。
「もう、心配することはありません。全てわたくしにまかせて下さい。
 あなたは、幸せな夢を見ていればいいのです」
 そう言うと、彼女の瞳が一瞬きらめく。
 その光を受けて少女は眠りに落ちていった。
「さて、これで良いですね」
 シリスは静かに眠る少女を優しい眼差しで見つめながら頷いた。
 少女を眠らせた後、彼女の心の傷を消し、その体につけられた男達の爪痕を消し去った。
 心と、体の両方の傷をいやした”薬神”は、さらに、守護の法を彼女に施す。
 これで、男達は彼女に近づくことは出来ない。
 それは因果を操る術。
 男達が、彼女に連絡しようとしても、あらゆる偶然がそれを阻止する。
 たとえ彼女の家に押し掛けようと、全ての出来事がそれを阻む。
 その術が彼女を守っている間に、シリスはその男達に”罰”を与えるつもりだった。

 ・・・・罪にふさわしい罰を、女神が行おうとしている。
 おそらく、この世で一番厳しい罰が男達の身に降りかかることになるだろう。
 人の技では無し得ぬ裁きを・・・・
 人はその裁きを遥かな昔より知っていた。
 神の裁き、人はそれを太古より畏怖を込めて呼んでいた、”天罰”と言う名で・・・・・

 ・・・・・・目を開いたとき、そこにはいつもの見慣れた光景があった。
 小さいながらも美しい装飾を施されたシャンデリア。
 出窓に小さな鉢植え。
 ぬいぐるみも、好きなタレントのポスターも、彼女の記憶に有る通りだ。
 浅い眠りから覚めた少女は、自分がどこにいるのか理解できずに首を傾げた。
「あれ? 私・・・・何でこんな所にいるの?
 どこ・・・・ここ・・・・?」
 視線を動かして周りを確認する。その景色がいつも目覚めるときに見る物であることを彼女は確認して安心したように瞼を閉じる。
 自分の部屋で寝ていたのだ。そう気が付く。
 閉じた瞼の裏側から、穏やかな眠気が彼女の元に訪れた。
 眠りの精の誘いに、再びまどろみの中に落ちかけて・・・・
 !!!
 ガバ!
 彼女はあわてて、ベッドから飛び起きる。
 もう一度周りを見回す。
 間違いなく自分の部屋だった・・・・
「どういうこと・・・・これって・・・・」
 呆然と呟く彼女。
 自分は確かに下校中だったはずだ。電車を降り、通学途中にあった廃虚のビルの前で・・・・
 それから自分はどうしたのか? そこから先が思い出せない。

 どういう理由かは分からない。確かなことは、自分の記憶がそこで途切れていると言うこと・・・・
 必死に思い出そうとする。だが、心の奥底に閉じられた扉は、ぴくりとも動かなかった。
 いったい何が有ったのだろう。もしかしたら、記憶を失わなくてはならないほど恐ろしい目にあったのかもしれない・・・・
 ”人間は正気を保てないほどの強いショックを受けると、自らの人格を守るために脳がその記憶を封印する。”という話を聞いたことがあった彼女は一瞬青ざめた。
 しかし、そうだろうか?
 確かに思い出せない。それは確かなのだが、不快な感じはしない。
 むしろ、大切なことというか、無くしてしまうのがもったいないようなそんな気がする。
 彼女は首を傾げるた。
 何かとてもすばらしい物を見たような、美しい物を見たような気がするのだ。
 忘れてしまうのがものすごくもったいない。それを忘れることが、とても惜しい。
 そんな気分・・・・
「・・・・夢でも見たのかなあ?」
 再び首を傾げながら彼女は呟いた。
 しばらく悩んでいたが、いつまでも悩んでいても仕方がなかった。
 トントン・・・・
 外から優しい音が聞こえる。扉を誰かがノックしているのだ。それが誰なのかは分かっていた。

「お嬢様お目覚めですか? お茶が入りましたよ」
 その声に、彼女が答える。
「うん、すぐに行くわ」
 返事をしながら、彼女はあることを思いついた。
「そうだわ、洋子さんに聞いてみよう。私がどうやって帰ってきたのか」
 パジャマを脱ぎ捨て、普段着に着替える。
 パジャマは寝るときいつも来ているお気に入りの物だった。
 時計はPM2:50を示している。
 学校を出たのが、PM12:10。いつも通り何事もなく帰ってきたのならば、ほぼ2時間ほど寝ていたことになる。
 その下校中にいったい何が起きたのか? いくら考えても分からないことだった。
 彼女はすぐに着替えを終えて階段を下りた。
 目の前に柔らかな湯気を立てるレモンティー。その左に小振りのショートケーキ。
 お気に入りのカップになみなみと湛えられた琥珀色の液体の芳香を楽しみながら、彼女は正面に座っているメイドに尋ねる。
「ねえ、洋子さん。私どうやって帰ってきたのかしら?」
 その言葉を聞いて洋子は不思議そうに首を傾げた。
 洋子はメイドで有ると同時に、彼女の親友でもあった。
 小さい頃から一緒にいて、姉同様に慕っている。一人でお茶をするのが寂しいかった彼女は、いつも一緒にお茶をすることを洋子に望んでいたのだ。
「どうやってと言われても・・・・いつも通りに帰っていらして、そのままお部屋へ・・・・」
「いつも通り?」
「ええ、”疲れたから少し眠ります。お茶の時間に起こして下さい。”
 そうおっしゃいましたよ?」
 ・・・・・・・・
 彼女は必死に思い出そうとした、だが全く思い出せない。こんな事があるだろうか?
 たかが数時間前のことが思い出せないなどと言うことが・・・・
「何か、変わったこと無かった? いつもと少し違うとか?」
「これといって・・・・」
 彼女の執拗な追求に、洋子は困った顔で”変わったこと”を思いだそうとした。そして、一つだけいつもと違うことを見つけだし、それを、彼女に話した。
「そういえば・・・・いつもより少しおかえりが遅かったような・・・・」
「帰りが遅かった?」
 洋子の言葉に、彼女は異常に敏感に反応した。
「はい、いつもより40分ほど遅かったようです。
 書店にでも立ち寄られたのかと思っておりましたが?」
 それを聞いて、彼女はおかしいと直感する。

 今日は彼女が楽しみにしている本は発売されていないはずだ。書店に立ち寄る理由はない。勿論気まぐれを起こしたという可能性もないことはないが、何より、書店はビルよりも駅の近く・・・・つまり、彼女には書店を通った記憶がある!
 そこに立ち寄った覚えはない、そして、あのビルから家までの行程の中で、40分もの時間を浪費するような場所は無い。

 空白の40分。
 この間、自分はどこで、何をしていたのか。

 それが、自分が思い出したくても思い出せない、美しい出来事と関係があるような気がするのだが・・・・やはり思い出せない。
「分からないなあ・・・・とってもいいことがあったような気がするのに・・・・」

 残念そうに深い溜と共に、彼女は言葉をもらした。

 プルルルル・・・・・・・・・プルルルル・・・・
 柔らかな電子音が鳴り響いたのは彼女がお茶を飲み干した頃だった。
「はい、西脇でござい・・・・旦那様。はい、いらっしゃいます」
 受話器を取って洋子はおじぎをする。話の内容から自分宛だと察した少女は、すぐに洋子の側に来た。
 洋子から受話器を受け取る。
「パパね、どうしたのこんな時間に・・・・」
 いつもなら仕事でこんな時間に連絡などする暇もないはずの父から来た電話に、彼女は少々、疑問を持っていた。もしかしたら何かが起こったのかもしれない。不吉な予感が胸の奥にわき上がった。
『いや、実はな、珍しく時間が空いたんだ。それで、今から明日の日曜までカリブに一泊旅行にでもいかないか?
 勿論、かあさんも一緒だぞ』
「え? え?」
 意外な話に一瞬、彼女はパニックに陥る。
 自分の誕生日にさえ仕事が忙しくパーティに出ることもできない両親。
 平日も仕事が忙しく滅多に家にいない両親。
 事実、この1年の間両親の顔を見たのはわずか1時間にも満たない。
 その両親が暇とはどう言うことか?
 あまりのことに呆然としていたが、久しぶりに両親と一緒に過ごせるのは彼女にとっても喜ばしいことだった。幸いに今日も明日も特に予定はなかった。二つ返事である。
「うん、今暇だし、いいわ」
『よし決まった、すぐに迎えをよこすから、仕度をしておきなさい』
「え? い・今すぐ?」
『善は急げというだろう? じゃ、30分後に迎えが行くからな』
「ちょ、ちょっと!」
 プツ・・・・ツーツーツーツ・・・・・
 余りの気の早さに呆然としていたが、後30分しかない事を思い出し、すぐに正気に戻る。
「洋子さん、すぐに旅行に出かけないとならなくなっちゃったの」
「分かりました。それで、いつどれくらいの期間ですか?」
「30分後・・・・カリブで家族一泊旅行だって・・・・」
 笑いながらそう言うと、洋子も笑って頷いた。
「ご両親と水入らずなんてずいぶんと久しぶりですものね・・・・、
 分かりました、私が荷物を用意しますから、お金や貴重品の用意はお願いしますね」
 あわただしく、家の中を動き回る二人。
 やがて、30分が過ぎ時間通りに迎えが来た。
「それじゃ、行って来ます」
「はい、気をつけて、楽しんでいらして下さい」
 洋子の言葉に本当にうれしそうに彼女は微笑んだ。

 さて、少女が家に帰り着いてからしばらく後のこと。
 少女に術をかけ、無事に家に送り届けた後、シリスは、両手に荷物を持ってアパートに帰ってきた。
「遅いわよシリス、今日は久しぶりにあなたが料理を作る番でしょう」
 先に帰っていたミューズが、戻ってきたシリスの顔を見るなりそう言った。
「すみません。少し話し込んでしまいました」
 ミューズに謝りながら、台所に足を運ぶシリス。
「やっぱり、食べなきゃだめかあ?」
 うれしいような、困ったような、何とも複雑な顔でそう言ったのは、この部屋の主。
 神崎竜一。
 絶世の美女達に囲まれながら暮らしている、この世の全ての男の敵である。
「ひさびさなんだ、あきらめて食え」
 竜一の正面に座って、笑いかけたのはもう一人の同居人、メイル。
 金髪のショートカット、黄金の瞳を持った2mを越える大柄な美女。
「それとも、盟主。あたいらの料理は盟主の口に合わないとでも」
 分かり切った質問を、メイルはした。
「そんなわけないだろう。お前達の料理は絶品だからな」
 おせじではなく、本気で竜一はそう思っている。にもかかわらず、竜一は彼女達が料理を作るのを月2回と定めていた。
 その理由は、「うますぎる」というものだった
 信じられないほどばかばかしい話だが、これは完全な事実である。
 彼女たちの料理の腕は人間のコックなど、完全に問題外だった。
 彼女達にかかれば、市販のインスタントラーメンでさえ最高級の中華料理となる。
 ましてや、材料から吟味して作ったりすれば、それこそ天界の珍味と化す。
 だが、それゆえに、彼女達の料理になれ、舌が肥えることを竜一は危惧した。
 実際、はじめの一週間は、彼女達の料理を食べていたのだが、その味になれてしまい、アルバイトで夜食を食べようとしたとき、思わず吐いてしまったことがあるのだ。
 しかも、それが自分がバイトしていたレストランの料理だったため、コックが機嫌を損ねないように、いいわけを取り繕うのにずいぶん苦労したことがあった。
 その後、文字通り死ぬような思いをして、味覚を普通のレベルにまで落とした。その苦労は並大抵のことではなかった。
 それに懲りて以来、彼女達に料理を作ることを原則的に禁じていた。
 うますぎるが故に禁じられるのも間の抜けた話ではあったが、彼としては死活問題だったのだ。
 いつも、彼女達の料理を食べた後、もっと食べたいという欲求が起きる。
 だが、それをしてしまえば、彼女達の料理しか食べられない体になってしまうのだ。
 そうなれば、買い食いをする楽しみさえ失ってしまう。
 必死に自分の欲望を抑える竜一。これはもはや、麻薬中毒の禁断症状並の拷問である。
 食べなければいいのだろうが、やはりおいしい物を食べたいという欲求には勝てない。
 どこで線を引くか、これが竜一の現在最大の悩みであった。

 やがて、シリスの料理がテーブルに並ぶ。
 至福の時であると同時に地獄の時でもある。
 うまい物を食べるという幸福感と、もっと食べたいという誘惑。果たしてそれは、幸せなことなのか、あるいは拷問なのか・・・・

 三人の料理は、それぞれ個性があった。
 料理の腕が人間以上と言うのは三人共通なのだが、それらにはそれぞれの個性が自ずと出てくる。
 三人の料理の腕をあえて比べるとしたら(もっとも、人間の舌で区別できるレベルではないのだが)上からメイル・シリス・ミューズの順になるだろう。
 メイルは料理の腕は三人の中で一番上なのだが、その性格のためかあまり手間暇のかける物は作らない。
 高級料理店の豪華料理よりも、家庭料理、そう言うのがぴったりなお袋の味と言う感じの料理を好んで作る。
 ミューズはメイルとは正反対で、高級料理店のフルコースさえ見劣りするほどに懲りまくった料理をテーブルからあふれるほどに並べる。
 そして、今テーブルに並べられているシリスの料理は、一見、質素な料理という感じの物だが、その実体は完璧な薬膳料理。
 最高の味付けをされた、この世でもっとも栄養バランスのとれた究極の薬膳料理といえる。
 ただそれだけに、どんなにおいしくてもお代わりすることは出来ない。
 完璧に栄養価と薬効を計算された料理は、たとえ、漬け物の一切れ、お茶の一杯と言えどもよけいな物を飲食することは許されない。そんなことをすればあっと言う間に栄養過多となってしまうのだから。
 料理を平らげ、一家団欒を楽しんでいた彼女達だが、後片づけを終えたシリスがTVを見ている竜一の隣りに座り話しかけてきた。
「ご主人様、ご相談したいことがあるのですが・・・・」
 竜一はTVからシリスに視線を移し、話を続けるように促した。
「実は・・・・」
 シリスは、廃虚のビルの出来事を語った。
 高校生くらいの少女が自殺を図ったこと。
 その理由が強姦であったこと。
 さらに、その時のことをビデオに撮られ脅されていることなどを。
 勿論、彼女の素性などは口には出さない。出していいものではないし、竜一も詮索しなかった。
 一通り聞き終えて竜一はシリスに質問した。
「その彼女はどうした?」
「その記憶を消しておきましたわ。
 勿論、体の方も完全に乱暴される前の状態に戻してありますし」
 竜一が頷き、ミューズが訪ねる。
「やっぱり、守護法呪かけているの?」
「ええ、本人の記憶を消しても、相手がその記憶を持っている以上、又脅しにくることも考えられますから。
 連絡も接触もできないように術を施しましたわ。
 今のままでも、充分彼女を守ることは出来ると思いますが・・・・」
 そう言ってシリスは竜一を見る。
 メイルとミューズも竜一の決断を待っていた。
 竜一がもし、それでいいと言えば、この問題はこれで終わりである。だが、少女を強姦し、それをネタに強請を働くような男達を見逃していいのだろうか?
 確かに他人事ではある。
 人の運命にいちいち干渉していてはきりがない。
 出来る限り関わらず、何もせずに時を過ごす。それが本来の彼女たちのあり方だ。
 それは、冷たいのではなく、竜一と彼女たちの人間界で生きる為の知恵であり、鉄則である。
 普通の人間なら他人に対して出来ることなどたかが知れている。僅かな金と労働力の提供、そして、情、その程度のことだ。だが、彼女たちの力はあまりに大きすぎる。
 一人の少女に対する同情だけで、世界を作り替えてしまえるほどに巨大な力を彼女達は持っていた。それゆえに気安く”人助け”ができない。女神の力は安売りできるような代物ではないのだ。
 だからこそ、彼女たちの主たる竜一の決定が全てを決める。
”人間”の竜一が、”女神”たる彼女たちの行動を決定する。人の世界は人の意志によって成り立つ物なのだから。
 もっとも、彼女達は竜一が下す結論を既に知っていた。彼の口から”命令”として出されることを待っていたにすぎない。
「女性を玩具扱いするような馬鹿をこのまま野放しにしていい理由はないな・・・・
 罪には罰をもって当たるべきだ」
 竜一はミューズに視線を向ける。その瞳は強姦魔にたいしての怒りと嫌悪感に煮えたぎっていた。
 竜一には二歳違いの妹がいる。
 自分の妹がそんな目にあったりしたら・・・・
 そう考えると少女の身に起こった事はとても他人事ではない。もっとも、竜一の妹を知る者がそれを聞けば、彼女に手を出す身の程を知らない男などいるはずがないと口をそろえて反論しただろう。
「ミューズ、”マスタードラゴン”の名において命ずる。
 その強姦魔の馬鹿どもを、お前の魔力・策術の全てを駆使して懲罰しろ!
 手段はまかせる」
「全ては、マスターの御意志のままに」
 ミューズは深々と頭を下げる。
 ミューズ自身、女を食い物にするような奴等は好きではない。
 ただ、関わりにならずに済むならそうしていたい所だったが、既に竜一に命じられた以上は反対することは出来ない。
 そして、一度受けた命令はどのような物であろうと完璧にこなすのが彼女の主義だ。
 マスタードラゴンの命令を得た今、彼女を止めることは何人にもできない。
 そう、それがたとえ神や魔王であろうとも。
「そうだわ、メイルも手伝って」
「それはかまわないが・・・・なにをすればいい?」
「これから作戦会議をしましょう」
 ミューズとメイルが盛り上がっているところに竜一が思いだしたように言葉をかけた。
「あ、殺すのだけはダメだよ」
 さすがに、死人を出すのは寝覚めが悪いと言う理由で竜一がそう言うと、ミューズはにっこりと笑った。
「はい、殺人だけはしません。殺人”だけ”は、ね・・・・」
 背筋が凍り付くような凄惨な笑みだった・・・・

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