語る「万華鏡」

(「涙流れるままに」に書き足す)

涙流れるままに(なみだながれるままに)

項目名涙流れるままに
読みなみだながれるままに
分類ミステリ小説

作者
  • 島田荘司(おっぺ)
  • 公的データ
  • 吉敷竹史の元妻・加納通子は、「首なし男」に追われる幻影に悩まされていた。その原因は、数奇な運命に翻弄されてきた自らの半生にあるのではないかと思い至る。過って級友を死なせた事件。婚礼の日に自殺した麻衣子と、直後の母の変死。そして柿の木の根本に埋めたあるものの忌まわしい記憶!?通子は少女時代に体験した数々の悲劇の真相を探る決心をしたが…。(おっぺ)
  • 感想文等
  • また長い物を(笑)。

     これ、雑誌連載時に、1度何かの機会で目にしたことがあって、その時は、「ミステリーとしても、小説としても面白味が全然感じられないなあ。。。」などと傲慢なことを思いもしたし公言もしたのだけど、こうして本にまとまったのを読んでいると、とんでもない、とても読み応えがある。。。
     とはいえ、まだ上巻を読んでいる最中なので、読み終わったとき果たしてどう感じているかはまた別の話。読んでいる最中さえよければいいなら、清涼院流水だってもっと評価は高いのだ(笑)。
     けれど、今回こういう形で通子の全体像を総ざらえしようというのは、評価がどうあれ、頭が下がってくる。やるべきことをとことんやろうとしている姿勢が見えるようにも思えてくる。ただ、ノンフィクションをやっちゃったせいか、時々感情移入を邪魔する報告書調が入ってくるのは困ってしまうけど(^^;。

     通子の「性」のくだりは、生々しい迫力がある。。。
     田中雅美のコバルト文庫作品の1部を読んだときにも鋭く圧倒されたことがあるけれども、「自慰」というのは、場合によっては性行為そのものと同等かあるいはそれ以上に人格的に重要なことがあるようにも思える。。。 ポルノ的に淫らに取り上げているだけでは収まらない部分があるのではないか?
     さらけ出して声高に言うにはためらわれてしまう部分ではあるけれども。(おっぺ)
  • それにつけても、このタイトルはちょっとセンスないような気はする(^^;。
     まあ、読み終わった段階でどう思うかまだわかんないけど(^^;。(おっぺ)
  • 読み終わった。。。

     一気に読んでしまった。力業だった。

     とにかく。。。
     これで、加納通子の物語にはいったん「清算」は為されたわけだ。。。 そして、同時に吉敷竹史の物語にもまとめが為された。このあと、どのように吉敷や通子の物語が書き継がれるのか判らないが。。。 あるいは、龍臥亭のからみで、いよいよ御手洗たちとの邂逅も為されるのかもしれない。 が、とにかくそれもあとのことだ。

     この「涙流れるままに」は、やはり「占星術殺人事件」の島田荘司的作品、ではない。もはやこれは、ハードボイルドだ。きちんと読んでいないので他のハードボイルド作家の作品群と比較することはできないが、山本周五郎的なハードボイルドとしての文学作品だ。そう思う。。。

     ミステリとして。。。読んだとき、ここにはある1つのミスディレクションがある。が、やろうと思えばもっともっと効果的に為し得ただろうそれが、全く「脇」に放り出された形になってしまっている。島田荘司は、そういった「小細工」を投げ捨て、しかし、やはり「吉敷もの」としてのミステリの枠内で、堂々と「小説」を描ききったのだと思う。

     思えば、「占星術殺人事件」のトリックのもの凄さに感動して、読み出した。そして、「の構図」辺りから、なんとなく失望し始めた。もう、「占星術殺人事件」のようなモノにはお目にかかれないのかと思った。が、それはこちら側の読者としての無い物ねだりだった。作者の選んだものがこれならば、そして、それに対して十分面白いと思って読ませてもらったのだから、もう、言うまい。

     もし、今後、御手洗ものをおそらくは基本として、またあの驚くべきロジックやトリックを味わわせてもらえたならば、そのときはまた、それに対して拍手しよう。

     そして、吉敷ものをおそらくは基本として、またこのような「小説」を読ませてもらえたのならば、そのときもまた。

     それにしても、吉敷竹史の、この「青臭さ」はなんだろう。吉敷は、最初からこんな「見事」な男だっただろうか。それとも、通子とのことや、数々の事件の中で、こうした男になって行ったのだろうか。

     私は。。吉敷に与する。

     「こんなことは言いたくないが、あなたにも奥さんにも大きな勘違いがある。私が青臭い正義感に衝き動かされてこんなことをしていると思っているようだが、もうそんな時期はとうに過ぎた。そんな動機で動く人は、一年二年の人です。あなただって、そういう時期はすぐに終わって、しっかり心を入れ替えたでしょう。人生は金だ、他人虐めにも多少は加しなくてはならない。多少は威張らないと人に舐められる、怒鳴らないと人はついてこない、ああ、俺もやっと人生に目覚めたとね。かくしてこういう目覚めたおとなたちで日本列島は一杯となり、このざまだ」

     私は全然「心を入れ替え」ることができていない、「人生に目覚め」ることができていないバカモノだ。
     しかし、こう言うと、まるで私が正義感の強い吉敷のタイプの人間のようだ。そうではない。まるでそうではないのだ。私は決してそうではないのだ。けれども、だからといって、吉敷に与してはならないとは。。。それだけは、言われるわけにはいかない。。。

     開き直るわけにだけは、いかないのだ。。。

     吉敷を嘲笑う人たちは、「世間」の人たちからは「とてもよさそうな人でした」と言われる。吉敷はうなずき、苦笑する。「ああいう人たちを、世間は感じのよい人たちと呼ぶのだ」と。それは、真実だ。

     佐々木丸美罪・万華鏡」に描かれた正子たちのこと、魔作子たちのことを、忘れるわけにはいかない。「罪灯」のことも。

     ずっと前。「北の夕鶴2/3の殺人」で吉敷のハードボイルドぶりに「感動」を覚えた。あれは、愛する女性に対する熱愛から来るものだった。今度のこの作品でも、久しぶりに、吉敷竹史自身の事件として、吉敷のハードボイルドぶりを見た。これは、愛する女のためのものではない。自分のためだ。もちろん、それは、前回の「女性のため」と実は同じことでもあるのだ。
     「吉敷は何かを信じてきた」。
     「歩き続ければ、いつかはそこにたどり着けると」。
     「これは何なのか。いったいこの馬鹿馬鹿しさは何なのだ。自分はここからどんな教訓を得ればいいのか。これが天の回答なら、自分にどうしろと言っているのか。自分の生き方を、どう変えろと、神は迫っているのか。くだらない、なんとくだらない。いったい何なんだ、これは!」

     。。。私は、、、知っている、と、思う。。。
     たぶん。。。
     それは、とても、傲慢なことかもしれないが。。。

     そして、吉敷は最後まで自分を裏切らなかったが、私はそうではなかったのだから、誰を恨むこともできないわけだ。

     そしてそれが、私が吉敷竹史に与する理由だ。
     自分がそれをできなかったからと、それをあくまで為そうとする人間を嘲笑し、罵声を投げかけるわけにはいかないからだ。まして、それを為すことの価値を、実はまだ信じてしまっている分際では。

     「いったい何に向かってか。自分では解らない。何のために自分は起きるのか。もう自分には何もないのに、何故だ」
     それは、卑近にそのモデルを見つけてしまえば、ちばてつや「あしたのジョー」の姿だ。金竜飛に痛めつけられながら、何故か立ち続けてしまう矢吹丈の姿だ。そしてフィリップ・マーロウの、ダイレンジャーの、そういった「ヒーロー」たちの姿だ。
     私たちはどうして、こうした「ヒーロー」たちに感動しなければならないのか。「スーパーマン」たちに感動することはない。。。狂喜し、感心はしても、それはたぶん感動ではないのだ。私たちがどうしようもなく胸を締めつけられてしまうのは、超能力と不屈の精神力でコトを為し遂げ続けていく「スーパーマン」たちではなく、並の力と弱々しい精神力でコトを為し遂げようとし続けていく「ヒーロー」たちに対してだ。
     それは、「スーパーマン」のやることたちは、そもそも自身にできうべくもないことであるから、ただそれに感心し、「すごいなあ」と言っていればすむのに対して、「ヒーロー」のやろうとすることたちは、実は自身も覚悟と勇気を振り絞ればなし得ることであり、けれどもそれをできずに、せずに、いてしまっている自分たちであることを知っているから。。。 それを悲しまざるを得ないからでもあるのだ。。。
     「やらない」ことを選択する勇気と覚悟のあることも、知っている。
     「ヒーロー」にならないことを選択する生き方もまた、十分に覚悟の要ることなのだ。

     私は、覚悟も、勇気もないままに、自ら、単に資格を喪失したに過ぎない。実際にはどんなに渇望していたか。。。けれど、自ら放棄した以上、せめて決して、邪魔し、嘲笑う側にだけは回るわけにはいかないのだ。。。

     タイトルは。。。
     ずいぶんセンスのないタイトルを付けたもんだ。。。と思っていた。
     それは、、、「涙」の「主語」を勘違いしていたからだ。
     そうだったのか。。。
     それなら。。。
     それなら、これは。。。このタイトルでいいのだ。。。!
     十分に。
     また、このタイトルでなければならない作者の気持ちもわかると。。。思える気がする。。。

     「そうだ、だから会えた、今日ほど会いたい日はなかったよ……」

     十分だ。。。

     私は。。。

     どんなに、島田荘司が「あざとい」テクニックを駆使していたにしても。。。

     肯定する。

     私は吉敷に与する。

     それでいいのだし、そうするほか選択肢はないのだ。(おっぺ)
  • 吉敷がどんどん初期の「颯爽とした」から変わっていったのだけど。。。
     私なぞ、初期の吉敷より、その後のどんどん「不様に生き続けて」の吉敷が好きなのだけど。。。
     「最初の頃はかっこよかったのに、だんだんグチっぽいおじさんになっちゃって」という女性読者の評を読んで、女性はそう感じる人の方が多いのかなー、とか思ったのであった。。。(おっぺ)
  • しかし、ここまで完全に総括しちゃうと、さながら「新必殺仕置人」の最終回「解散無用」のごとくで(笑)、「ここまで完璧な終わり方をして、必殺はこの先どうやって続けられるのか」と囁かれたみたいな、そういうことがこの吉敷シリーズにも。。。(笑)
     これ以上、彼女の話では引っ張れないし、吉敷が××にならず▽▽になっちゃったというのは、この先どういう話の組み立てかたになっていくんだろう?
     それにしても。。。吉敷ものって、シリーズじゃなくて、大河ものだったのね(^^;

     ところで、牛越は今どうしているのだろう?(^^;(おっぺ)
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