項目名 | 七人の侍 |
読み | しちにんのさむらい |
分類 | 時代劇映画 |
作者 | |
公的データ | 主演三船敏郎、加東大介、宮口精二、木村功、志村喬 刈り入れが終わる頃、毎年野武士に襲われる小さな村。長老は見かねて、侍を雇い戦うことを決意する。報酬は飯を腹一杯食べさせることのみ。快諾してくれる武士を探すのにてこずりながらも、歴戦の古豪、勘兵衛への必死の懇願によって勘兵衛はそれを引き受け、彼の人柄で5人が集まる。最後に野人のような男、菊千代も加わり七人の侍となった彼らは、まず堀を掘らせ、竹槍を持たせた訓練を行った。そして刈り入れ後の、壮絶な戦いへと突入していく。。。(tato) |
感想文等 | 正直言って、ここまで楽しめるとは思ってもいなくて、よい映画にまたひとつ出逢えたコトで、なんだか嬉しくなってくる。 50年前の作品なのに古臭さは感じず、モノクロであることと音声の悪さを除けば、現代でも通用する時代劇のアクション映画だ。登場人物・展開・心理描写も私的には魅力に溢れたものといえるし、何より侍たちがリアルにカッコいい!この時代に生きる侍の戦いぶりや、武器の刀が、あまりこのジャンルを知らないものにっとっては妙に新鮮で見とれてしまう。ピストルで‘ズドン’とあっさり殺されるのとはわけが違う。接近しないと殺すことは出来ないし、頭を使って攻めるその戦い方が、とにかくハラハラとして面白いのだ。(決して時代劇を観た事がない訳じゃなく、水戸黄門なんかは幼い頃から観てましたが…最近はさっぱり観てませんでした) 外国の人が、黒澤監督を認める気持ちが分かった気がした。アメリカなら西部劇のようなもので、それを私たちが楽しむのと同じく、彼らも見慣れない刀を使った戦いや侍魂に魅せられていたのかな…なんて思ったり。。。 「切腹」と合わせて、堂々と勧められる映画です。(tato) この映画では、何しろ七人なので、サイボーグ009の9人ほどではないが、さすがに印象の濃淡は出てしまう。一番割を食ったのは、「前からの知り合い」で参入してしまった加東大介だろう。キャラクター的にも、最初に現れた「ご冗談を(笑)」の侍や薪割り流の侍と、いずれも「ニコニコ型」なので、特に差別化がなかったようだ。やはり一本の映画で七人は多かったかな。 それでも、だんだん「揃ってくる」わくわく感は、のちのちにも各必殺シリーズの第1話達にも受け継がれているところだ。集まってくる面々のプロフィールをナレーションで紹介してしまった「江戸の激斗」第1話が今一つ緊迫感を欠いたのも当然のことか。 ただ、この映画では、元々は反目し合っていたり、極端な場合には「敵」であったものが仲間となっていく、そういうところはなかった。その点に於いて、いささかは足りないと思ってしまうところはある。これは例えば「必殺仕置屋稼業」などでのスリリングな「集まり方」を知ってしまっているからかもしれない。 「百姓がただ弱く、しかし心正しい連中だとでも思ったか!」という、単純な視点の勧善懲悪ものではあり得ないことを示す叫びが、この映画をちゃんとした「大人のもの」にしている。この辺りを受け継いだ時代劇は当然ながらテレビの中にはない。いや、やはりお茶の間のものになる前の「必殺」には、たとえば「新必殺仕置人」の第3話「暴徒無用」などがあるのだが…… そして、集結編の前半が終わり、激闘編の後半が始まる。前半後半にたっぷり、通常の映画一本分の時間を取ってあるからこその充実感だろう。 早々に薪割り流が命を失うことで、決して七人の侍が不死身の無敵ではないということが示され、それによって緊迫感が生まれている。この辺りは寧ろ、「江戸の激斗」第1話に踏襲されていることだ。 1人、また1人と倒れていく作劇の悲壮感は、「必殺からくり人」やコミックの「ワイルド7」に受け継がれているとおりだ。別に「死」というものに対してヒロイックに感動などする必要はない。けれど、「死」がゲームや遊びや暇潰しではないということを、逆にこういう物語は語っていてくれるものなのだ。 さて、そして最後に生き残るのは。。。 これは、最後のセリフ達、やり取り達のためにセレクトされたものだろう。生きる死ぬはこんな小さなこと、テーマという名のもとに決められていく。テーマというのが小さなことかどうかは言い切らないが。 それにしても。 木村功が、あまりにも若いのでずっと判らなかったのだった(笑)。(おっぺ) |