感想文等 | 「スキップ」よりこちらの方が胸に迫ってくるのはどうしてか解らないけれど。。。 〈真希、しっかり〉の言葉を、お母さんに伝言ゲームで伝え、お母さんが涙をこぼしたシーンで泣けてきたのは、やはり「つながっているのだ」ということへの感情移入のせいなんだろう。。。とは思う。。。
「不毛なのは〈毎日〉ではなく〈わたし〉だった。そういう人間が、どうして生きている世界に戻れよう。」
私は今唐突に不毛なんじゃない。。。きっと、今までずっと不毛だったのだ。。。そのツケを払っているだけなのだ。。。と思う。。。(おっぺ)
「ターン」は、とにかく「余分」な登場人物がいないので(「スキップ」の登場人物たちが「余分」という意味ではもちろん無いですが)、主人公に完璧に感情移入できるんですよねー。そして、二人称が一気にその正体を現す瞬間、「ああ。。。!」という感じに、感動しちゃいます(*^^*)。←単純?(笑)(おっぺ)
もう2、3度読んだつもりだったのだけど、違ったのだろうか。今回読んでいて、驚いてばかり。。。 まず、なんだか、一人称のような気がしていた。「スキップ」は確かに一人称。けれど、「ターン」は二人称で始まっていた。「リセット」は三人称だったのかな? 「時」の三部作は、人称も三部作だったのかもしれない。(「リセット」を読み返してみたら、違いました(笑)) そして、「彼女へ」の二人称から、「彼」の一人称へ、そして、「彼女へ」の二人称がそのまま移り変わって「彼女」の一人称へ。そんな変遷があることも、全く記憶には残っていなかった。。。
だから、「スキップ」よりも重層で、そして、きついところもあった。 ただ、「ああ」と思ったのは、闖入者たる若者を、主人公はとうとうとうとう「君」付けで言うことをやめなかった。
先だって、映画版を観たのだけれど、ヒロインの造形は案外原作とそうは違っていなかった気もした。ただ、相手役のほうが、映画だとかなり弱かった。愛する。。。そうなる理由に欠けていたと。
「ターン」物語の『核』は、きっとそこにもあったはずだ。(おっぺ)
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