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diary - archive - no.111




2003.12.11.Thu

ヒィィィィ〜。

仕事早く上がれたので、今日最終日だった『蒸発旅日記』を”みなみ会館”まで見に行ってきました。

”みなみ会館”に行くのは学生の時以来だと思うので、3、4年振りくらいか。
イスがキレイになってた。
上映中の「カタカタ」いう音は以前と変わらぬまま。
あれはたぶん映写機の音ですな。

で、『蒸発旅日記』ですが、
あー、
あきませんわあ。
自分にはあいませんわあ。
えらいキッチュ。グロテスク。
いや、上記の言葉は思いきり自分のテリトリーなのですが。
どっちかっていうと好物!。
でも、”つげ作品”はやはり思い入れが強いわけで。
そういうのはちょっと。と、心の中で高校生の自分が言っています。

うーん。

以前石井輝男監督が『ねじ式』を撮ったけど、あれも同じ印象だった。
んがー、あの作品は石井輝男テイストという意味でとりあえず許容範囲なんです。
『ねじ式』だし。不条理の極みだと思うので。

けども、今回も同じテイストというのはどうなのか。
撮ってる監督違うし。
たしか『蒸発旅日記』はあくまで日常の上で展開してたはず。
つうか、そんなタイトルだっけ?
まあいいや。

自分の中で”つげ義春”の実写のイメージは、竹中直人監督の『無能の人』が一番近い。『蒸発〜』とはタイプは違うけど。
でも、一番作品のフインキに忠実であったと思う。
みんなそれに感動してたし。
だから、みなそういうイメージで作品を読んでるんとばっかり思ってた。
あれかね、年代で”つげ作品”そのものの解釈の仕方が違うのかねえ。
ジェネレーション・ギャップですか。

うーん。

日常の延長線上にある風景。草臥れた風景。
そういうのが”つげ作品”の中には確実に存在するはずよねえ?
それは『無能の人』でも『海辺の情景』でも、『蒸発旅日記』でも。
『ねじ式』ですら。
だから、ほんとは、”孤独”やら”嫌悪”やら”逃避”やら”倦怠感”やらを伴って旅に出て、そうやって明らかに「非日常」の中にある”蒸発した男”を表現しようとするのであれば、それこそ”旅先”は男が逃げて来た場所と同じ「日常」が展開されていないとウソになるよねえ。
と、高校生の自分が言っています。

うーん。

思うままに書いてたら、何書いてんだか分からんくなってきた。
ちょっとね、熱くなってるのです。

とりあえず、『リアリズムの宿』も映画化してるから、これも見てみようと思う。
こっちは期待に応えてくれそうであります。


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画像は『蒸発旅日記』公式サイトからの転載。
誰か、つげ作品好きな人で映画見た人いたら感想聞かせてください。
リアルで。



2003.12.11.Thu