項目名 | 三原順 |
読み | みはらじゅん |
分類 | 作家 |
作者 | |
公的データ | 1973年、「別冊マーガレット」に掲載された『ぼくらのお見合い』で漫画家デビュー。75年から6年間に渡り「花とゆめ」に連載された『はみだしっ子』シリーズが読者から熱烈な支持を受ける。その後も、少女コミックというジャンルにありながら、社会的なテーマに正面から取り組む作風が大きな話題を呼んだ。1995年、病気により42歳という若さで永眠。 主な作品は、『はみだしっ子』『ルーとソロモン』『ムーン・ライティング』『Sons』『Xday』など。(おっぺ) マッド・ベイビイ ぼくらのお見合い ひとりぽっちの君に〜ジェフの日記〜 このひとときを… 光と闇とをむすぶ糸 夢に消える子守唄 遥かなる祈り ようきなオバケ 赤い風船のささやき ラスト・ショー 祈りの鐘がひびくとも… 涙のクラウン オロロンふたりワルのり 待合室のロビン ざ・はっぴい・えんど はろぉ・あいらぶ・ゆぅ イン・ア・ボックス イン・ア・ボトル 君の好きな帰り道 26回目の小旅行 今夜は鳥肉 今は静かな ベンジャミンを追って 彼女に翼を 夢の中 悪夢の中 帽子物語 私のアベルへ はみだしっ子 ルーとソロモン セルフマーダーシリーズ ムーン・ライティング |
感想文等 | 正直に言ってしまえば、少年マンガなどというものは(ひどい言い方なのだけれど)薄汚くて、野卑で、乱暴で、下品なものだ──という認識をしていたんです。 これは、一方では決して的外れではないと思っています。今では仕事柄(?)子供モノというのに触れることが当然のようになり、案外「面白い」ものだと思うようにもなりましたが、やっぱり、「少年ナントカ」を読むと、「汚いな」と思うような「マンガ」はいっぱいあるようです。 にも関わらず、やはり対世間的に忸怩たるものを感じることなのですが、僕は中学時代、比較的「少女マンガ」については読んでいたんです。 というのは、僕は中1の頃から伯父伯母の家に厄介になったんですが、そこに従姉が2人いて、ちょうど中高生、「なかよし」とか「少女フレンド」とかを毎月買って、読んでいたんですね。 僕はといえば「本の虫」で、本でさえあればなんでも読む中学生だったので、家にある「本」である以上、それらの少女マンガ雑誌にも手を出したわけです。 時期的に、少女マンガが質の上でかなり上等な部類に進化・深化を遂げる時期にあたっていたらしく、「これは、下手な『小説』より面白いぞ」という気持ちを、正直なところ本気で持ったわけでした。 今の少女マンガについては、さすがに読んでいないので、全くといっていいほどわからなくなっています。むしろ、子供時代全く読まなかった少年マンガに親しむ機会が増えました。 今の少年マンガには、「汚い」もの以外に、面白いものもたくさんあると思います。毎週続きを楽しみにする、という程度のレベルの。 しかし、それはあくまで「マンガとして」「読み物として」面白い、レベルに留まり、「しょせんマンガ」の域を出るものでは決してありません。「そんなもの」の話を、わざわざこうして語ってみようとなど、するべくもありません。 こうして、マンガの話などを始めているのは、「しかし」──もし、もしも、たった1人──この世でたった1人、あるいはたった1つ、僕が「これは出会っていてよかった」「出会わないでいたくなかった」コミック作家、コミック作品、があるとすれば、それは「この人」であり、「この人の作品」なのだ……という、そんな「しょせんマンガ」の話をしてみたくなった、ということなのです。 そのコミック作家──いや、しょせんは「マンガ家」──の名は、「三原順」といいます。 白泉社という出版社から、「花とゆめ」とか「LaLa」とかいう雑誌が出ていたはずであり、それらのある意味看板作家だったはずの女性です。 その作品は──「たかがマンガ」「しょせんマンガ」の名は、たとえば、出世作の「はみだしっ子」。そして、「ムーン・ライティング」。 聞いたことが──読んだことが、おありでしょうか? この「はみだしっ子」や「ムーン。ライティング」等についてなら、僕は見栄も体裁も世間体も外聞もどこかへやってしまい、言い切ってしまうことができる。 もしも、──もしも、「小説」と「マンガ」というジャンルを取っ払って判断した場合、一体この作品たち以上に、「文学だ!」と言える小説が、どれほどこの世に存在するだろうか……と。 出世作の「はみだしっ子」について、少し話してみましょう。これは、4人の少年たちが主人公となった、長い長いお話です。最初はノベルズ版で出版され、十数冊にまとめられたと思います。現在では、分厚い文庫版で6冊にまとめられていますが、大事な番外編が1つ未収録であり、点睛を欠いています。 舞台は、おそらくはアメリカ、もしくはイギリス。物語は、4人の主人公が「いかにして親を失い」「社会からの『はみだしっ子』となり」「そして……」という形で進んでいきます。大のオトナの男が、大まじめに、少女マンガについてこんなふうに語るのは、それを商売とするマンガ評論家でもない限り嘲笑されてしまいそうですが、この作品たちについてなら、僕は「嘲笑う方が恥ずかしいのだ」と公言してしまうものです。 なぜなら他のマンガ(=コミック)のことはよく知らないので、何一つ断言できないのですが、少なくともこの三原順の作品たちだけは、確実に作者が「本気で」──つまり、「面白い話」「感動的な話」を「作って」いるのではなくて、作者自身の徹底的な「人が生きること」への懐疑・憧憬・懊悩……がこもっている──「魂がある」と言い切れてしまうからです。 第1話の「われらはみだしっ子」から「奴らの消えた夜」あたりまでは、いかにも昔風の少女マンガという絵柄であり、読みづらさもかなりありそうですが、次の「裏切者」以降、特に最終パート「つれていって」の後半から、三原順の絵柄も大きく変わっていきます。 それはさながら、旧来の「少女マンガ」の絵柄では、とてもその内包するテーマ(人が生きる)を語り尽くすことができない、とでも悟ったかのようです。後年の「ムーン・ライティング」の半ばからは、もうとても「マンガ」という軽いイメージの名称では言えそうにない(といって、決して「劇画」などというものでもない)画風にまで変わっていきます。 小説ではなく「マンガ」というものであるため、この場にその一部を引用する、ということは不可能です。ただ、印象的な場面の一つを書いてみることにしましょう。 「はみだしっ子」や「ムーン・ライティング」ではなく、もっとマンガマンガした話の一つに、「ルーとソロモン」という作品があります。 短編の連作シリーズであり、3冊にまとめられていますが、これの主人公「ソロモン」は「犬」です。マンガであるが故に、非常にディフォルメされ、単に漱石の猫のように人語を解するというのみに留まらず、作中の人間たちも、彼に対し、言葉こそ喋れないものの、十分コミュニケーションの交わせる、知性を持った相手として見ているように描かれています。 彼は、ピア、ルーという2人の子供がいるウォーター家で飼われています。タイトルの「ルーとソロモン」からすると、子供の一人ルーと、飼い犬ソロモンとの友情ストーリーかのようですが、実際にはルーは物語全体の要となる役目として存在し、いくつかのエピソードを除いては、大きく目立った「活躍」をするわけではありません。むしろ、姉のピアとソロモンとの愛憎関係、駆け引き等からくるストーリーの面白さが骨子となっている観があります。 さて、そんな「ルーとソロモン」のエピソードの一つに、次のようなものがあります。 ソロモンがその前のエピソードで知り合った少女がいるのですが、その少女のおじ、エドという男からソロモンは熱気球でのイベントへの参加を頼まれて(!)お手伝いしている(!)というところから始まるお話です。 町で開かれるイベント大会があり、それに手作りの熱気球で参加する、というのです。ソロモンが熱気球に乗り込み、以前から仲良しになっていたミミズクの「ズク」にも協力してもらって、「熱気球に乗った犬が、野鳥狩りをする」というアイデアで、注目を浴びて優勝しよう……ということです。 なかなかさすがに練習はうまくいかず、さまざまな困難にぶつかりながらそれを乗り越え、ついに大会の当日を迎えます……が、いざ、というときに、大会の主催者が詐欺の容疑で逮捕されてしまうのです。 実はすでにそのことを町のほとんどの人は知っており、頑固に自分の行動を貫こうとするあまり、周りから反感をかっていたエドとソロモンだけが聾桟敷に置かれていたのでした…… ここまでなら、凡百のマンガやエンタテイメント小説でもみることができるストーリー展開かもしれません。三原順の書きたいことは、しかし、実はここから始まります。 詐欺師の逮捕に沸き立つ人々の中で、エドとソロモンは呆然と立ち尽くし、ソロモンは言葉を発せない心の中でエドに叫びます。 (嘘だよね?! こんなの、嘘だよね!? なんとか言ってよ、エド! ……エド!) ──熱気球をこしらえ、練習してきた2人(いや、1人と1匹)だけになり、エドはソロモンを相手に独り言のようにつぶやきます。「いつも……そうさ、俺はいつだって、最後には何かしらつまずくようにできてるんだ……ごめんな、今度のこと、巻き込んだみたいだ……おやすみ、ソロモン……」 そしてエドは失意のまま去り──、1匹残されたソロモンは──。 (……どうしていつも!? 今度こそ大丈夫だって思ったのに!) そう泣き叫びながら、自分だけで熱気球を膨らませ、それに乗り込んで町の上空に飛んでいきます。 夜の空高く舞い上がった熱気球の中で、自分たちの町を見下ろしながら、ソロモンは泣き叫び続けます。 (……本当に……好きってだけで、ずうっと一生懸命でいられる人も、いるんだろうか?) (……一生懸命にやらなくても、わけのわからない不安におびえたりしないですむ人達がいる……) (あそこには、せめて一生懸命にやらなきゃみじめだなんて、思わずにいられる人達がいる) (思っても……もうやめた人達がいる) (いくらやったってムダなんだと思ってる人達がいる!) そして、ついには自らに向かって叫び始めます。 (もうやめるんだ! もうやめるんだ!) 熱気球はどこかの塔にロープがからまり、動けなくなります。 ところが、ソロモンは気球に自分だけでなく、イベントのとき以来そのまま残っていたミミズクのズクも乗り込んでいたことを知ります。 「お兄ちゃん、僕、いいから!」 と言うズクを無視するようにして、ソロモンは必死にロープを食いちぎろうとしています。 もうやめるんだ! もうやめるんだ! ……と、心では叫びながら。 少しでも、僕の受けた印象を伝えられているでしょうか? この、「どうしていつも? 今度こそ大丈夫だと思ったのに!」は、「はみだしっ子」や「ムーン・ライティング」にも度々出てくる叫びです。また、「もうやめるんだ!」と叫びつつも、何かを為そうとし続けてしまう主人公たちもまた。 これは、僕たちの姿です。少なくとも、前者については、間違いなくそうではないでしょうか? そしてやがて、「思っても、もうやめた人達」になり、「いくらやったってムダなんだと思ってる人達」になっていく──それはとても辛いことだし、そうはなりたくないことです。 「もうやめるんだ!」と自分に向かって泣き叫びながらも、やめずにやり続けようとしかできない、そんなソロモンの姿に、同情でも感動でもなく、紛れもなくせつない自己同一化を感じてしまうのは、自分もそうありたいと願いながら、それをできずにいる、そんな自分を知っており、しかし、やはりやめたくはない……からです。(おっぺ) そんなにも、三原順で私は身も骨も考え方も喋り方も出来上がってしまった。。。 これは、誰かが望んだことではなく、自分が勝手にそうしてしまったことなのだけど。。。 誰かに責任を負わせることのできるものではないのだけれど。。。 けれど、勝手に思っていた。。。 三原順はずっと、新しい何かを作り続けて、見せ続けてくれるんだろうと。。。 そうして、僕は、甘ったれて、いつでもひける、どこに座っていても、そう思って心地よく坐っていた場所を無くしてしまった。。。 もう、グレアムやアンジーやサーニンは、大人になった姿を見せてくれることはしないし。。。。 狼男の係累になっちまったD・D達がそれからどうしたのかも想像することしかできない。。。。 だからせめて、きっと! ソロモンは幸せに天寿を全うしたんだろう! ピアもルーも他のみんなも楽しく幸せに暮らしたんだろう! ソロモン達にだけは、きっとあのあと運命の急変なんか起きなかったに違いない。 どうかこの夢を覚まさずに。。。 大好きだよ。。。 お前の緑色が。。。 大好きだよ。。。って。。。 。・゜゜・(>_<)・゜゜・(おっぺ) そうサーニンが言ったときのグレアムの表情の意味を考え続けているのですが……。 今、三原順を「青臭い」という人たちは、なんでみんな、ああも「今読むと……」と強調するんだろう(笑)。ホントかなあ(笑)。 いや、確かに技術的な面というか、絵柄というかは、あえて悪口めいたことを言えば、「奴らが消えた夜」まではかなり安定していなくて、「泥臭い」かもしれない。 ときどき、「ド少女漫画(ソロモン談)」の絵が出てきて、僕なんかは、やめて許してと思ったりとするときも……(汗)。 たとえば? 初め、エイダがグレアムを責めてて、「人殺し」と追いつめていた頃のこと。アンジーの、「うるせえ! 本当の人殺しを教えてやろうか!」と ナイフを投げて見せようとしたシーンの後の、サーニンの「おまえなんかのために、アンジーを人殺しにしたくなかったんだ!」と言う、あの時の一コマ。 あれ、サーニンの顔だけ描いてあればそれで十分なのに(と、僕は思ふ……汗)、バックに強調線がビカーッと放射されてるでしょ。あれは、なんかちと恥ずかしいかもしれない(汗)。 でも、ドラマとか、語られる言葉を、青臭いとは思わない──「青臭いと思ったら、成長したってこと」みたいな意味の発言を聞いたことがあるけど、本当にそうかな? 確かに、四人組の「視野」は今読んでいて必ずしも広いとは言えない。けれども、四人それぞれが別の「視野」を持っていて、それは、1つ1つはもしかしたら「青臭い」かもしれないけれど、全体としては決してそうではない。いや、十分に成熟して「赤い」という意味ではもちろんないのであって、というのは、だって、「あれ」はまだなにしろ「途中」の話なんだもの。 「結論」が予め在って、それを提示しているタイプの小説やマンガなら、なにしろ「結論」なんだから、それが「青」くっちゃあ、とんでもないことなわけです。でも、「はみだしっ子」、というより三原順の作品世界は、決して「結論」を提示するマンガじゃないでしょう?(いや、これは無論、僕の個人的な思い方ですけど) 模索の過程の発露であり、表出であるのだから、それの1つ1つをとって「青い」と言っても始まらないわけです。──また、それが本当に「青い」のかどうかも、僕には疑問なのですが。 「だからといってそれに傷つき尻込みしてみせるために勤めてるわけじゃない!」 というわけで、「現実はそううまく運ばないんだ」とか「世間を知らない幼稚な人間の甘えた理想だ」とか言われても、だからといってそれに尻込みしてみせる義務があるのかい、と言い返したくもなる(笑)。 四人組の思索や論理の視野が狭く、「片手落ち」であることは、「ロングアゴー」まで読んでいくと、わりとこちら側にもわかってきます。グレアムやアンジーたちが誰かを──例えばジャックやロナルドを──『判断』したとしても、それは決して必ずしも『正確』な判断とは限らないこと。 それは、実際問題、第1話で出ていたジャックのことをあの時のアンジーたちがどう思っていたかで既にわかっていたことでもあるのですが、さらに話が深まって、グレアムやアンジーの目に映るジャックやロナルドの背景、バックボーンに、実は「ロングアゴー」のような物語がある……でも、そんなバックボーンは知りようもないことだから、四人組は四人組の感じ方だけでジャックもロナルドもパムも見るしかない。 これは実は、相当「思索」としては深いものを蔵する構造で、四人組それぞれが別口の「視野」を持っていてお互いにその思い込みや弱さを補完しあい、なおかつ、「ロングアゴー」のようなパートで、そこからさらに1つ離れたスタンスで「はみだしっ子」全体を止揚する。 (「ルーとソロモン」は一応別のお話なのでおいておくとして)こんな止揚構造を持ったお話を「青臭い」の一言で片づけると、それじゃあ、山本周五郎も宮沢賢治もその一言で片づけてしまうんだろうな、と思ってしまう。それは、青臭くはないのかもしれないが、よっぽど心が貧しいと思うぞ。 ああっ、なんか、噛みつくような文章になってしまいました(笑)。頭を冷やしてから出直してきましょう。 また、異論は多々あるとは思うんですが(笑)、少なくとも僕自身にとっては「ストーリー」なんかはあえて言えば「どうでもよかった」。つまり、ドラマティックな「事件」という意味での、「ストーリー」ということですが。 だから、これまたあえて言えば、なんにも「事件」など起きなくて、ただグレアムなりアンジーなりの心象風景が延々と描かれてるだけでも十分だった。これがつまり、別に「ストーリーなどなくてもよかった」という意味であります。決して三原順のストーリーがつまらんと言ってるのではない(笑)。(おっぺ) 『もうなにも……』みたいな作品を、普通は「ストーリーがある作品」とは言わないらしいのです(^^;。『私の好みはライトグリーン』みたいなのもね。 「ストーリーがない」なら「ない」で別にいいや、というのが僕の感じ方で(^^;。 もし、三原順の作品が「ストーリーのない」ものなんだったら、それはつまり、ストーリーなんてあんまり値打ちのないものだということでしょう(^^;。三原順の作品には、そんなものよりもっともっとすばらしいものがあるということで。(おっぺ) どんなに……読みたかったことでしょう。 いま、大人になって「しまい」、思うのは、──それは、たぶん、ロナルドが思ったことに似ていて……。 ジャックはいつまでこんな生き方を続けていけるんだろう……と。 そして──ジャックは、ああして続けていた……。 僕は思っている。 僕はいまこうして「こんなふうに」ここにいる。 彼らは? あの彼らは……「大人になってしまった」あと……どう、どうして、どんなふうに、生きていっているんだろう? 彼らはどこまであのままで、そしてどこまであんなふうで、この「世の中」に生きていっているんだろう。 おそらく……おそらくは、「はみだしっ子」たちがあのように生きていられたのは、彼らが「子ども」だったからであり。 けれど、ただそれだけだと、それだけのことだからだと、そんなふうに冷笑的に受けとめることは絶対にいやだ! 「大人」になって「しまい」、そしてあのように生き続けるならば、彼らに「僕の座っている場所」はない……かもしれない。 けれども、それは、彼らの子供時代を否定するものなんかじゃない! そして! ……どうしても、僕は考える。彼らならどう生きていっているだろう、彼らなら、どうこの「今の世の中」に? D・Dのように? ウイリアムのように? ジャックとロナルドのように? ……大人になった彼らが、どんなふうにこの「今の世の中」で生きて行っていこうとするのか──僕はどうしても知りたかった。 それを考えることで、自分の生きる助けにしていたんだ。 僕はずっと知りたかった…… 今でもずっと……(おっぺ) でも、だからこその三原順だとも思うんですけどね。読者が期待する通り、予想する通りのことしか書かないのであれば……。 考えてみれば、「つれていって」だって、グレアムとアンジーのあの壮絶な「心理バトル」は、最初から順を追って読んでいた人には辛いものがあったのかもしれませんね。(おっぺ) だから、「はみだしっ子2」は書かれ始めようとしなければならなかったのかな……と思っているところです。 つくづく、無念ですね(T_T)。(おっぺ) ドに降りかかってきていたものが、大人になった彼らの上にもそのまま引き続き降りかかってきていたように。 けれども、おそらく、連中はそれに対して目をそむけることなく、逃げをうつことなく、まっすぐ、生きていってくれたんじゃないだろうかな……と。そんな姿を見せてくれたんじゃないだろうかな……と。 そんな連中の姿を、やはり見ていたかった……と思ってしまったりするわけなのでした。ま……自分の心の支えにしたいだけなんだけど(笑)。(おっぺ) 自分が今、やっぱり自分の生き方とか人生の行き方とか考え込んでますのでね。 あの彼らは、一体、どうやって、あの先、どんなふうに生きていこうとし、また生きていったのか、生きていっているのか……知りたいと、とても思います。 やっぱり、野垂れ死にしたいウィリアムは、グレアムの長じた姿なのかなあ。(おっぺ) 「品行方正なイメージを崩しとけばね、あとが楽なんだよ!」(笑)。建前だけでそれなりに付き合っていればいい関係の人相手なら、品行方正を貫いたり、あるいはわざと自堕落に振る舞ったりもできるけれど(^^;。 だから、アンジーがジャックたちに「あ・ふーる、あ・ほー」で臨んだのは、アンジーが「永住」の覚悟を決めたからだっただろうと思ったんですが。。。 「フー姉さま、オレは養子の話、受けるつもりだよ」 だからつまり、それはフーちゃんとの「約束」でもあったので。。。(おっぺ) 突き詰めていけば突き詰めて行くほど、そうなっていったと思います。けれど、真の作家というものは、別に×村京太郎とか(^^;のことを悪く言うわけでは、いや、あるんですが(^^;(^^;、それはともかく、「大勢の人に読んでもらいたい、けれどそれにも増して書きたいものを書きたい」がために、場合によってはそれまでの読者に「ああ、変わってしまった」「前は面白かったのに」と言われたとしても(「こんな哀しい『はみだしっ子』は読みたくなかった!」)それでも書かずにはいられない、そうしないわけにはいかない……のだろうと、思います。 それにしても、日本の出版文化は作家たちの充実に比べて基盤そのものが貧しい。(おっぺ) ・私が生きるためには、この人が必要だった。 ・この人のために道を誤るのなら、それはそれでしかたがないのかもしれない。 ・最後の最後まで叫び続け考え続けた人なんだとか思います。 ・叫び続けるだろう。 ・いつまでも読み続けることになりそうです。 ・サーニンがいちばん好きなのかも。 ・ディーディーの叫びは最高だ。 |