感想文等 | この作品が書かれたのは1990年。にもかかわらず、作品内の時間は76年。これには一体どういう意図が、あるいは構成上の必然があるのだろう?
少なくとも、シリーズ第1作のこの作品を読み終えてみて、その理由はまだ今のところ私には不明だ。或いは、シリーズが進むにつれて、「現在」に追いついて来るというコンセプトが仕掛けられているのかもしれない。しかし、そうすると、シリーズが進むごとに主人公ニール・ケアリーはどんどん年をとってくるのか? それならそれで面白いと思う。エラリー・クイーンだって、エルキュール・ポアロだって、実はだんだん年をとった。そしてだんだん面白くなっていった。しかし、サザエさん式の「事件が終わったら、それで一段落。次のお話では前の事件の影はどこにもなく、登場人物たちに何か変化があったりはしない」的シリーズは個人的にはあまり楽しめない。そして、クイーンやポアロでは、まだまだサザエさん方式に近かった。だから、作品を成立順でなく読んでしまうことも可能だったし、前の事件の影響で探偵の性格が変化してしまっている、第1作と第5作目くらいとを読み比べると、まるで違う人間のように見えるなんてことはあまり無い。
個人的には、人間は変わっていくものだし、それは或る個人自身もそうだし、他者との関係というものもそうだし、だから、ミステリのシリーズ物であっても、主人公たちが変化していっているような物の方が、どちらかといえば、好きかもしれない。
このニール・ケアリーもの第1作の特徴は、第1作だからなのか、現在の物語の途中途中で、ニールが父親代わりとなった探偵グレアムにどのように出逢ったか、そしてどのように探偵術を仕込まれたかが、カットバックのように挿入される。第2作目以降ではこういう形の挿入はあまり考えられないから、これは今作限りの特徴だろう。この作品では、ニールの若さ、危うさ、ストレートさが際だっている。それがこれからどうなっていくのかは不明だ。しかし、父親代わりのグレアム自体がストレートなタイプなので、変に老成してしまうことはないだろうとは予想される。
悟りきったニール・ケアリーというのは、あまり面白いものではないかもしれない。
さて、基本的に私はハードボイルドタイプの小説に点がからい。本格ミステリに点がからいのとは別な意味でからい。というのは、本格ミステリには、そのスタイルやら仕掛けやら様々な点で新しい試みがされているかどうかについてからいのだが、ハードボイルドというのはすでにしてスタイルには「ハードボイルド」という制約そのものが存在している。ビル・プロンジーニ「名無しのオプ」シリーズのような例外もあるようだが、ハードボイルドというのがスタイル自体を差す以上、そこからはみだすと仮に傑作にはなってもすでにハードボイルドではなくなってしまうという結果になる。ハードボイルドの枠内にありながら、しかし傑作、というのはなかなかに難しい。スタイル自体は遵守し、はみださないながら、しかし新しくなければならないというのだから、点がからいというよりは、無い物ねだりというか不可能トリックを求めているようなものだ。
私がハードボイルドにからいのは、すでにしてこれ以上は無いというものを子供の頃に植えつけられてしまったからだ。どんな「ハードボイルドの傑作」というものを読んでも、それ以上のものにはお目にかかったことがない。刷り込みとかインプリンティングとかいうもので、これを覆すのはほとんど不可能ではないかと思うくらいだ。
そんな私に対する最大の武器は、三原順「ロングアゴー」の少年時代のロナルド・グレンマイヤーや、同じく三原順「ムーン・ライティング」シリーズのダドリー・トレヴァーのような、少年の持つストレートな感情だ。もったいぶった体裁やかっこつけた紋切り型のお題目では、なんの感動も感傷も呼び起こせない。少年たちが「馬鹿野郎」と叫ぶとき、それに対しては私は全面降伏する他はない。シニカルに取り澄ましていられなくなる。
ハードボイルドの探偵たちが、タフで、クールで、ある限り、私も同じようにシニカルに読み流してしまえる。逆に、おセンチで、情に流され、激流に溺れてしまうと、私もついつい土下座してしまうのだ。
惜しいなあと思うのは、このニール・ケアリーの物語が、一人称で語られていない点だ。一人称でないからこその特長は山ほどあることは百も承知で、これこそ無い物ねだりなのだが、三人称で語られてしまったがために、私には今一つニールの感傷に到達しきれないもどかしさがあった。
三人称だから、アリーの内心も、グレアムの焦燥も、共に得ることができるのだが、それらを犠牲にしてさえも、ニール・ケアリーの物語をニール自身の奔流のような言葉でたどってみたかったと思う。
なぜなら、子供の頃刷り込まれた作品も、そしてそういえば思い返せば、ロナルドの物語もダドリーの物語も、漫画表現であるがゆえの一種の一人称で語られたものだったからだ。
私は、一人称に弱い(笑)。
一人称「ぼく」で語られた、ニールの物語を読んでみたいものだ、と思った。
それはともかく、前に石田衣良「池袋ウエストゲートパーク」を読んだときも思ったのだけど、昔読んでいたミステリたちにはあまり無かったというか、わざと遠ざけられていて、それが今やむしろ大胆に堂々と出されているなあと思うのは、SEXの問題で、「池袋。。。」では、アナル・セックスとか堂々と書かれていたし、この「ストリート・キッズ」では物語の枝の1つには、幼女姦がある。女性読者も多いだろうに、現実に在るものは在るものとして書いているというのは、子供の頃からのミステリ読みとしては戸惑いもあるけれど、悪いことだとは思わない。でも、小学生の頃からハヤカワや創元の大人向けミステリを読んできた身としては、当時のハードボイルドはおとなしかったなぁと思わないでもない(笑)。ベッドシーンは婉曲で、ドギマギするような直截的な科白もなく、大人のそばで読んでいてもコソコソした気分にはならずに済んだ(笑)。当時これらの作品を読んでいたら、たぶんこっそり隠れて読んでいたろうな(^^;)。
ついでに。 なんだか、ダイアンはすっかり影が薄くなって終わってしまったようだ。アリーはワン・エピソードの出演なんだろうから、そうでないのかもしれないダイアンにはもっとがんばってもらわないと困る。逆に言えば、ニール・ケアリーよ、1人に絞りなさい(泣)。
さて、2作目、3作目と、ニール・ケアリーはどういう感情を見せてくれるだろうか。(おっぺ)
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