感想文等 | 「幻魔大戦」を中断し、ウルフガイ・ストーリーを再開し、そしてそこに続いて降臨したのが、「消えたX」の再話になろうとは。 もともとの平井和正中学生時代の習作「消えたX」については、その目次部分しか目にする機会はなかった。その少年の冒険物語が、新しく「ラスト・ハルマゲドン・ストーリー」として転生したのだ。
この長編は、そして、平井和正が次のステージ、「呪術」に進行するものともなった。 復活ウルフガイ「黄金の少女」は、犬神明を欠きながら、確かに「幻魔大戦」とは違う、ウルフガイの文体と物語を備えていたと思う。 「地球樹の女神」は、「ハルマゲドン」のキーワードを伴うが故に、「幻魔大戦」コンセプトの継承かと思われたのだが、フィロデンドロンの“教授”や超絶ヒロインとなるはずだった後藤由紀子をいつしか後衛以降に捨象し、呪術ステージに入り込んでいったのだ。
故に、この「地球樹の女神」は、そのまま「世界を“移す”」物語となる。「ボヘミアンガラス・ストリート」のように1つの物語の中で“神様”円くんが移すのでもなく、「アブダクション」のように、世界ごとの物語を紡ぎ直しながら、全体を大きく覆うのでもなく、「地球樹の女神」は「クリスタル・チャイルド」「コア・ストーリー」と別々の世界をこれでもかと語り続ける。
「幻魔大戦」「新幻魔大戦」「新幻魔大戦」「ハルマゲドンの少女」らのつながりと似ながら違うのは、相互補完では全く無いという点なのだ。「幻魔」各編は明らかに相互補完であり、特に「幻魔大戦」と「真幻魔大戦」は同時進行であり、時系列的には「新幻魔」→「幻魔」→「真幻魔」と思わせながらも、どこか「幻魔」「真幻魔」の両世界が同時に重なりあって進行している夢幻感覚を感じさせていた。
今となっては、その方が正しいのではないかという気もする。
だが、「地球樹の女神」各編はそうではない。各編は独立しており、相互補完でも鑑賞でもなく存在する。 そこが「ボヘミアンガラス・ストリート」とも「アブダクション」とも異なるところだ
「地球樹の女神」は呪術小説の始まりとなり、「ウルフガイ」「幻魔大戦」の在りようも変容させた。「ウルフガイシリーズ・犬神明編」や「月光魔術團」、「幻魔大戦deep」は呪術小説となって再生された。
だから、往時の面白さは存在しない。――立ち位置が異なるのだ。これを今理性的に(或いは感情的に)評価しても意味はない。なぜなら、平井和正初期短編をこよなく愛する人にとっては「狼の紋章」や「人狼戦線」にしても失望するだけの期待はずれな作品だったのだろうから。
享受するだけの側に何を言えるだろう。
かつての作品群は焚書されたわけでも修正されたわけでもなく、何度でも読み返すことができる。だから、平井和正にはこれからもまた、いくらでも変容していってもらえばいいことなのだ。
平井和正は、現在のみを書く。平井和正にとっての現在をそのままぶつける。それは何一つ変わっていない。 だから、それでいいのだ。正否善悪等の評価をする必要も理由も資格も意義も、どこにある?(おっぺ)
|