Mari's Web Watching

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2000.11.1 Wed. 批判はしません
D I A R Y - D I R E C T O R Y に登録して以来、アクセス数が、激増しています。なんか、人気ランキングも上位に入っているし。正式公開前に「今登録すると目立つからオトクですよー」みたいなコメントが Diary Directory のトップページにあったのですが、これはほんとでした。とくに「日記読み日記」がいまだわたしのサイトひとつというのが、効果大なのでしょう。次のひとはいつ登録するのだろうかと、毎日楽しみに見ています。アクセス数増加を狙う日記読み日記書き(へんなの!)さんは、ぜひ登録しましょう。って、別にわたしは AI さんの回し者ではありませんが。

このページを、ゆうべ更新しようかと思ったのですが、内容的にちょっと迷うところがあったので、見送りました。というのは、どう書いても、批判的な内容になってしまったからです。とりあげたサイトは、わたしが大好きで前からずっと読んでいるところだったのですけど、たまたま、「これはちょっといただけないなぁ」と思う記述を見つけてしまいました。もちろん、好きなサイトでも意見がすべて一致することはありえないのですが、そういう個人の意見の違い、という問題ではなく、発言の姿勢というものが、まずいんじゃないかと感じたわけです。

わたしの書くものは、「日記読み日記」とはいっても、批評を目的にしているわけではないし、辛口なところはあまりないと思います。おもしろいサイトを紹介したい、自分の感想を書きたい、ということにすぎません。やはり、この当初のコンセプト(なんてたいそうなものではありませんが)を考えると、アップロードすることをためらってしまいました。単にもめごとを起こしたくないだけなのかもしれません。それとも、わたしのようなぺーぺーの言うことなど、無視されておわるだけかなぁ。

いろいろ考えたのですが、これからも批判はしない、ということに決めました。自分にそういうしばりをかけるのも、ひとつの方向性としておもしろいのではないかと思ったからです。だって、けなすのは簡単だけど、ほめるのはむずかしいんですよ。というか、「おもしろい」「すてき」と書くのは簡単なのですが、どうしておもしろいのか、というのを、読む人に伝えるというのは、なかなかたいへんです。また、書いている文章自体がまともなものでないと、そんな人間の「おすすめ」など、もちろん、とりあってもらえないでしょう。

というわけで、批評、批判なしの「感想」サイトであることを、これからも続けていきたいと思います。

2000.11.2 Thu. 饒舌系

ピンクにしてみました。なんか、女くさいというか、甘ったるい香りがしてきそうですねぇ。われながら、ちょっと暑苦しいです。

さて、しゃべる速度というのは、人それぞれです。早口で畳み掛けるようにしゃべる人、ゆっくり間を取ってしゃべる人。話す内容以外にも、そんなところにその人の「味」が出てきます。

文章では速度というのは、読む側が決めるのですが、それでもやはり、スピード感のある文章、まったりのんびりとした文章というのはあります。概して、スピード感を感じる文章は、分量も多い。わたしは、勝手に「饒舌系」と呼んでいます。きょうひさびさに復活したMen Plan, God Laughs.などは、この「饒舌系」の代表的なサイトでしょう。日常のこまごましたことを書いている日も多いのですが、繰り出される言葉のリズムにふしぎな爽快感があります。

そういえば、ちょっとよろしくって? も、登場した当初は、綾乃さん(当時ビリーさん)の作っていたもうひとつのサイト「ボージャック夫人」に口調が似ているということで、書いているのは実はビリーさんじゃないかというウワサも出ていました。こちらも「饒舌系」ですね。作りこんだ文体が芸を感じさせます。ネタと文章のバランスが取れているのが、人気の秘訣かもしれません。

このふたつは、押しも押されもせぬ人気サイトですから、いまさらとりあげるまでもないでしょうが、最近わたしが熱心に読んでいる日記も、「饒舌系」です。ネットワークうろうろ日記 というタイトルどおり、ネットのあれこれについて語っているサイトですが、まさにやめられないとまらない、一瀉千里という勢いで、言葉がほとばしっています。

言葉に勢いがあるだけでなく、内容的にもまっすぐな視線を感じさせます。

前も書いたけれど、猿人系の日記は否定的な言葉には文中リンクをしない傾向があるよね。上に書いてあることが当たり前の感覚なのだとしたら、そりゃネットの時代と環境の違いから来るものだから仕方ないなぁと思う。とある日記サイト、と形容されて、反論や会話や意思疎通のの場を与えてもらえなくて哀しい思いをしても。ああ、リンクして欲しいなぁ、アタシはちゃんと話し合う気持ちがあるし、間違っていたのならいくらでも頭を下げるのに……と思うのは、環境からくる当たり前の違いだからしょうがない。

「悪意のあるリンク」からのごたごたは枚挙にいとまがありませんが、上に引用したようなリンクをコミュニケーションのとっかかりととらえる考え方を持っていれば、感情的な行き違いから、もうひとつ踏み込んだ話し合いができるのかもしれません。もちろん、相手のあることでもあり、みなみさんの一方通行では話になりませんが。

わたしにとっても、リンクはラブコールです。もちろん、リンクされたことが気に入らない人もいるでしょう。でも、こうして読んでいるよ、わたしの文章もリンクしてほしい、読んでほしい、という叫びは、茫漠としたネットの中で、ほっとするような温かみを感じさせます。

当分このサイトからは目が離せません。

2000.11.3 Fri. リンクをするときのポリシー
うわわ。Diary Directory の人気ランキングでトップ(いまんとこ)で、さらにおすすめサイトに選ばれています。カウンタもいやにぐるぐる回っているし、なんだか、バブリーなきょうこのごろです。

★日記読みだけにとどまらず、ネットやサイトを経営することについても読み応えのある文章が満載です。だそうです。すごくほめられてますね。どうもありがとうございます。しかし、ここに書いてあるような「読み応えのある」内容って、いったいなに書いたっけ? と思わず自分の過去ログをのぞいてしまいました。「日記読みだけでなく」というより、日記読み自体より、ネットについていろいろ思うことを書いてあるほうが多いかもしれません。看板に偽りありかも。

さて、きのう引用したネットワークうろうろ日記 からひろがった波紋のひとつが、Jumping Honey さんのしょっくみーメモガキで読めます。

わたしはこの日記を読んで、相手がだれでどういう内容のトラブルだったかわかったのですが、彼女はこれを対象を特定できないように書いたということなんでしょうか。そうじゃないと、対象を特定できるような反論だとか悪口(笑)だとか、ネガティヴっていうかそういう書き方をするくらいならリンク貼るべきだと考えてる。という記述と思い切り矛盾してしまいます。それとも、これは、反論するほどじゃないけどちょっとモノ申したい。でもトラブルのは避けたい という例にあたるということかなぁ。一番きつい考え方をとると、ここで書いた以前のトラブルの相手とは、コミュニケーションとかディスカッションの意志や希望、衝動 がまったくない、ということですよね。ここでわたしが、彼女の意図をいろいろと忖度してもはじまらないのですが。

自分のサイトがリンクされることに関しては、リンクフリーです、とか、事前または事後でもいいから教えてください、などのなんらかの方針をトップページなどに書いておくのがわりに一般的だと思いますが、自分がリンクするときの方針というのは、案外書いてあるページが少ないような気がします。かくいうわたしも、まったくどこにも触れておりませんが、リンクはすべて無断です。(^^; というか、毎日こうリンクはりまくりでは、いちいちメールなどでご報告するのがたいへんだからという、いちばんどうしようもない理由なんですが。

もっとも、メールなり掲示板なりで「リンクしました」と相手に告げるのは、日記猿人でよく言われるところの「営業活動」みたいで、ちょっとこっぱずかしい、という理由もあります。あちこちの読み物系のサーチエンジンに登録しているのだから、多くの人に見てもらいたいのは確かなわけで、ここで急に恥ずかしがり屋になるというのも矛盾した話なんですけどね。

話を戻して、自分がリンクする際のポリシーを記述したものとしては、こういうページもあります。わたし自身も日記読み日記なんて名乗っている以上、自分の方針をきちんと決めて、こういうコンテンツを作ることも必要かなぁ、と思いました。トップページに書いておいてもいいかな。

* リンクについてのわたしの考え方 のページを作りました。よかったらご一読ください。(20001105)

2000.11.3 Fri. なにかを大事にすること
Diary Directoryのおすすめサイトの正しいコメントは、★日記読みもさることながら、この方の日常も非常に気になるところです。思うところを素直に記していて非常に好感が持てます だそうです。これなら、たしかに自分のことを言われたんだという感じがしますね。日常に関しては Pillow Talk のほうに書きましたが、要するに書くほどのこともない日常です。登録数の多い「女性の日記」の、それも「社会人」というサブカテゴリーにあるせいか、こちらのほうは、Diary Directory 登録の影響は少ないようで、相変わらず日記猿人経由のお客様が大半です。

Joy さん猫実 さんにリンクしていただいたのですが、お二方ともきちんと「リンクしました」というメールをくださり、いつも無断でリンクしていて報告もしないわたしは、だいぶあせりました。きょうはふしぎなほどいろいろある日です。重なるときには重なるもんだなぁ、という感じですね。

それから、前回書いたしょっくみーメモガキに関してですが、確かに、当時の事情を知らない人が読んで、相手を特定できるような書き方ではありませんでした。その点に関しては、つい「知っている」自分の視線で見てしまい、ほかの方の見かたにまで考えが及ばなかったわたしの落ち度です。申し訳ありませんでした。

また、自分でわざとぼかして書いたことをあれこれ想像されて書かれるのは、あまり気分のいいことではないかもしれません。ただ、「わかる人にだけわかるように書く」というのは、「わからない人に誤解されたり、想像でものを言われる」可能性もまた含んだ書き方だということはいえると思います。もちろん、それがいいとか悪いとか言っているわけではないし、実際、悪いとも思っていませんが。

えーと、それにもともとこの話が出発したところのリンクするかしないか、ということなんですが、わたしはなんにせよ、ネット上のほかのサイトに言及するときはリンクしたほうがいいとは思っていますが、リンクしないのが格別悪いとも思っていません。自分はこういうやり方が好き、とか、こういうやり方をしている人をほめる、というのは、別にそれ以外のやり方をしている人を否定することとは違うと思うのですが。

その点で、まったく別の文脈で書かれたものではありますが、きょうのやさぐれ日記の次の記述はとても興味深く読みました。

そして何かを大事にすることと、それ以外を否定することは決してイコールではない。しばしば「私にとってはコレが大事だ。だからコレ以外のモノはダメだ」とか「私はコレ以外のモノを認めないから、コレを大事にする」なんて意見を目にするが、そうやって他のものをケナすことで「大事!」を主張したり解説するのも妙な話だ。何かを大事にするために、他を否定せねばならない義理なんてないのにさ。

ここで言われているような例もよく目にしますが、逆にひとつのものを選んだとき、選ばなかったほかのものを否定しているようにとられる、というのも、またよくあることです。「これはあくまでも個人的な意見です」「わたしの場合に限っては」のような、蛇足ともいえる注釈も必要なときが多々あるようですね。
2000.11.5 Sun. ハンサムウーマン
JumpingHoney さんから、しょっくみーメモガキのほうで、わたしが11月3日の日記で書いたことに関するお返事をいただきました。いろいろ、気を遣っていただいて、ありがとうございます。JumpingHoney さんの文章のこの勢いのよってたつところがわかるような内容でした。ハンサムウーマンって、こういう人のことを言うのかなぁ、なんて思いました。

リンクについてのわたしの考え方のページを作ったのですが、われながら、けっきょくなんなのか、どうも判然としない文章です。ケースバイケース、と言ってしまうと身もふたもないんですが、そのときの気分という面は確かに大きいですね。また、リンクする相手がどういう人かというのも、もちろん大きく関わってきますし。

2000.11.5 Sun. 事実と真実

別の方向から、Web 日記の嘘について語った日記が二つあります。11月4日付のMement Moriと、同じく11月4日付のちはるの多次元尺度構成法です。

日記がその人にその日起きた出来事を正直に述べたものであるとするなら、春餅の具よりはそっちのほうがずっと述べるべき内容なのである。だが、もちろんそんなことは書かない。プライバシーに関わるから、というのも少しはあるが、それより何より、そんなことを他人の目につくところに書く動機がない。 という CAKE さんの述懐は、まことにうなづけるものがあります。

人の生活というのはさまざまな面があるものですが、日記には生活のどの面を強く打ち出すか、というところで傾向が分かれます。会社では熱心に仕事をし、家では子どもの面倒もよく見ていて、読書が趣味だという数人の男性がいても、Aさんは子どもの成長を主に描き、Bさんは読書日記、Cさんは職場でのあれこれが日記の記述に多い、というのはままあることです。しかし、実際の生活の比重として、日記に書いていることがその人の生活の中心を占めているかどうかということは、わかりません。生活の重要なことを日記に書くのではなく、Web 上で他人に見せてもいいこと、見せられる程度にまとまった話ができることを日記に書くのです。

新聞は事実を伝えるもの、という勘違いは広く世に流布していますが、事実の中のどの部分をどのくらいのスペースをとって紙面に載せるか決定する時点で、すでにそれは編集された事実の一部分、その新聞の側からすれば、伝えたい「真実」ということになるのでしょう。それと同じことも Web 日記に言えると思います。

エッセイの書き方についてのある本の記述について、ちはるさんは次のように語っています。

日記は事実だけを並べればいいというものでもない。その先にある真実をどう伝えるかということだ。それはWeb日記が「読まれるもの」である限り考慮しなくてはいけない。

それが事実かどうかに関わりなく、その人にとっての真実というものがあります。きょうはなにを食べました、という、いっけんささいな生活の記述の中にも。

2000.11.6 Mon. 来たれ「日記読み日記」

DiaryDirectory をのぞいたら、登録日記数が一気に増えています。とうとう、100日記を突破したそうで、おめでとうございます。これでそろそろ、わたし以外に「日記読み日記」の登録もあるだろう、と思ったら、相変わらずさみしそうな(1)の数字が。

ほそぼそとやっていくのに満足していたサイトなのですが、なにげなく「日記読み日記」に登録したのがいけなかったようです。まさか、いつまでもわたしのサイトひとつで、目立ちまくりとは。100かそこいらのアクセスでこんなことを言ってうろたえているのですから、我ながら気が小さいですね。でも、実力以上に注目を集めているなぁ、という気がしてなりません。

上山達郎さんテキスト撰 へのご推薦ありがとうございました。「しなやか」ってなんかうれしい誉め言葉ですね。でも、康夫ちゃんが連発しているので、この言葉にもなにか妙な色がつかないか心配です。

2000.11.7 Tue. ほっとする

「なごみ」とか「いやし」という言葉は、すでに流行語になった感がありますが、流行ろうと流行るまいと、やはりほっとするページというのはあります。Web 上にはエキセントリックな人や物事はあふれていますから、落ち着いたまなざしが、かえって新鮮にうつるのかもしれません。

最近見つけた撮り流し というこのページも、毎日のちょっとした楽しみになりそうです。写真もステキだし、添えられているのは短い文章ですが、背後にきちんとした思考力を感じます。

2000.11.9 Thu. 爽快なシモネタ

女性の日記の中のセックスに関する記述と言うのは、どうも評判が悪いようです。即物的すぎる、とか、「セックスの話ができるさばけたワタシ」という自分の姿に酔っている、などという意見をいままで目にしたことがあります。でも、そんなことはわたしに言わせれば当たり前で、自分を語る一環としてセックスへの言及があるのであって、別にだれかを興奮させようと思って書いているのではないからでしょう。セックスについて語ることと、エロチックな文章とは、似て非なるものだと思います。というか、勝手に期待して勝手にがっかりしてるだけじゃん、というのが、この件に関する偽らざる感想です。

まあ、そんな理屈はどうでもいいよね、と思うくらいおもしろいのが、ニガシオ です。セックスに関してどうのこうの、というより、完全に「シモネタ」という感じです。しかし、これくらい突き抜けてると、いっそ爽快です。幼い子どもが目をきらきらさせて「ウンコシッコ!」と連呼し、自分自身でけたけた笑っている姿を思わず連想しました。でも、決して子どもっぽくもないし、自己満足に陥っているわけではありません。というより、サービス精神ありすぎかも。

確かに、セックスとかオナニーほど、冷静な人間が見てこっけいなものってないかもしれません。はあはあ息を荒げて、へんな声を出して、腰をへこへこ動かして。そして、それにとりつかれて、あれこれもがく姿もぶざまといえば、ぶざまです。笑い飛ばしながらも、そんな自分が、というか人間がおもしろくっていいよね、と言っているような印象が、おゲレツ話満載のこのサイトの読後感をすっきりしたものにしているのでしょう。


2000.11.12 Sun. いっしょにされたくない

ここのところ、わたしのリンクページに入っているだけでも、3つのサイトが、日記猿人の登録をを相次いで削除しました。それにしても、リンク集の登録をやめることが、「撤退」とか「脱退」と表現されることって、あらためて考えてみれば、ふしぎな話です。言い古されていることですが、そういう表現をする人と言うのは、日記猿人をひとつのコミュニティーとして考えているということなのでしょう。

登録を削除するというのは、要するに、ほかの日記猿人のメンバーといっしょにされたくない、という気持ちからのように見えます。それはそれで、日記猿人というものに対する参加意識が高い、ということの現れでしょう。

かくいうわたしも猿人に登録しているわけですが、何千とある日記猿人の登録サイトの中で、自分の気に入らない行動をする人たちがいても、同じリンク集に登録しているというだけで、彼らの仲間と見られるとは思わないし、もし見られたとしても、それは単純すぎる見方だと思うだけで、とくに気になりません。

「日記才人」という名称がいいとは思わないけれど、「日記猿人」という名前だって、慣れているからなんとも思わないものの、これはこれでサムいセンスだと言えなくもないでしょう。実際、最初に見たときは、「へんな名前だなあ」と思いましたから。どっちにしても、リンク集の名前は、とくに下品なものや良識を疑わせるようなものでない限り、わたしにとって、登録するかどうかの決め手にはなりません。

日記猿人に登録するということで、現実に毎日何十というアクセスが得られるわけですから、わたしにとっては利益こそあれ、損なことはなにもない、という感じです。これは、わたしが日記猿人のメンバーの中にほとんど人間関係を持っていないから、そう思うのかもしれませんけど。


2000.11.14 Tue. サイト閉鎖は自殺か

JumpingHoney さん、リンクありがとうございました。「おおげさ」っていうのは、わたしもほんとうにそう思います。Web 上では、水面に小石をぽんと投げただけで、びっくりするぐらい大きな波紋が広がって、投げた石の大きさまで、実際より大きなもののように受け取られる、ということがあるような気がします。

うーん、あんまりいいたとえじゃないですね。

Web でのできごとというのは、いままでわたしたちの生活の中になかった新しい概念をたくさん要求してきます。それを自分の中で消化するために、どうしても、比喩的な表現にたよりたくなります。でも、比喩はしょせん比喩なのです。あざやかな比喩は、確かにもともとの話の本質をとらえたものかもしれませんが、それはまた本質の一部分だけを強調し、別の一部分を切り捨て、本来の意味をゆがめて伝えるという結果になることも往々にしてあります。

議論しているときに、だれかが持ち出したたとえ話から、話がだんだんねじれていくということはよくあります。相手の意見をわざとマイナスのイメージをもったたとえ話で置き換え、「言いがかりだ」と非難されると「単なるたとえ話ですよ」と逃げる、などというのも、何度も見た場面です。フレーミングには、たとえ話は強力な武器となります。

すでになくなったサイトですが、他の日記サイトに対する誹謗中傷を繰り返していた「日記読み日記」の中で、サイト閉鎖を自殺にたとえ、閉鎖する人たちの行動を激しく非難している文章を見ました。確かにインパクトのある文章でしたが、それにしても、ずいぶんおおげさな、と思わず苦笑を誘われました。注目を集めたい一心から、過激な文章を売りにしているような人に対して、人の生死に関わることを簡単に口にするものではない、などと言っても、あまり意味がないかもしれませんが。

サイト閉鎖を自殺にたとえるのは、対象となる人の作品と人格をわざと混同して、文章への批判を人格攻撃にすりかえる手口です。サイトを閉鎖することは、ただ単にサーバ上にあったファイルを削除することにすぎません。取り返しのつかない結果をもたらす自殺とは、まったくレベルの違う話です。

書き手の提示するイメージにのるかのらないか。読み手と書き手との勝負、なんて言ったら、これもまたおおげさすぎるでしょうか。


2000.11.15 Wed. 表現のインフレ
きのうの日記に関して「サイト閉鎖が自殺だと言うのは、以前から言われています」という内容のひとことメールをいただきました。たしかに、きのうわたしが書いた文章だと、まるでその「日記読み日記」の作者さんが書いた特異な表現のように読み取れますよね。でも、実際は、ゴリ さんも11月13日の日記でそう書いているし、あとはここ、というのは思い出せませんが、もちろんほかでも見たことがあります。そういえば、わたしがとりあげたそのサイトは、異様に口汚いということを別にすれば、それほどのオリジナリティのある内容ではなかったように思います。

件の「日記読み日記」さんはサイト閉鎖を自殺にたとえた上で、最後の弁がサーバに残されていることを指して「死に顔をいつまでもさらしておくな」というようなことを言っていたのですが、サーバ上に残っているデータが腐敗するはずもなく、日々更新されていくものと、見た目上、とくにかわりがあるわけでもありません。人によっては、気のきいたことを言っている、と思った方もいたかもしれませんが、わたしにはかなり違和感のある内容でした。

つまり、わたし自身もそれまで「自殺」という比喩をそれほどなんとも思っていなかったのに、彼がそこまで話をすすめたことで、かなり無理のあるたとえだということが、わかったわけです。逆に、ネットのちまたで広く使われているいいまわしも、よく考えてみると案外みょうなことを言っているものが多いんじゃないか、ということを気づかせてくれたとも言えるかもしれません。

生死にかかわることを簡単に口にしないほうがよい、などというのは、古臭くばかばかしい考え方かもしれません。しかし、自分にとっては重要なことかもしれないけど、部外者から見たらどうだろう、という視点をまったく持たず、重要さをアピールしたいばかりに、どんどん表現がおおげさになっていくのが、どうも気になるのです。そういう表現のインフレがいきつく果てはなんなのか。いまでも、言葉の価値はずいぶんお安くなっているとは、思うのですが。


2000.11.18 Sat. ネカマ疑惑

わたしがニフティでチャットに入り浸っていた5年ほど前は、ニフティ内の男女比がおよそ10対1とか、言われていました。女性であるというだけで注目を集めてしまうので、チャットでのネカマくんも後をたちませんでした。

落ち着いて書けるサイトの文章を読んだだけでは、その人が女性かどうかというのは、案外見分けにくいようですが、チャットではわりと簡単です。というのは、チャットにあらわれるネカマくんたちは、たいがい過剰に女言葉だったからです。あなたの周りの女性たちの言葉遣いをちょっと思い出してみてください。「○○よ」「○○だわ」なんて、実際に口にする人って、案外少ないのではないでしょうか。瞬時に反応が求められる話し言葉の世界では、どうしても、その人の中にある女性なるもののステロタイプがあらわになってしまうんですね。まあ、まだまだネットというものが珍しかったあのころに、チャットにはまるような若い男性は、女性と実際につきあった経験があまりない人が多くて、よけいに観念的な女性を演じてしまったのかもしれません。

わたしの場合、日記サイトを読んでいて、女性性を感じるポイントは、言葉遣いではなく、生活のディテイルが書き込まれているかどうかという点にあるようです。小さいお子さんのいるお母さんの日記などは、やはり同じお子さんがいる方でも、お父さんの視点とは微妙に違うような気がします。いや、そんなことは、単なる感触に過ぎないのですが。でも、決して想像では書けない、というか、想像でここまで書けたら、筆一本で生活していけるよ、という地点はやはりあると思います。

で、過剰に女性的といえば、このページのグラフィック。ピンクのお花なんて、まるでネカマですね。ちょっと考えたほうがいいかもしれません。別にネカマ疑惑はかけられていませんが。


2000.11.20 Mon. あなたのここが好き
いくつもリンクしてもらっているので、とてもうれしいです。調子に乗って、ヘーイ・テリアとラブラドール みたいに、反応リンク集なんぞ作ってみようかしら、と思ったものの、そういうページを作ったとたんに、どこからもリンクされなくて、更新しないままさびしく月日が過ぎる、なんてことになりそうな気がします。いや、実はめんどうなだけだったりしますが。

名古屋弁の「〜だわ」というのは、確かに男女関係ない、ニュートラルな言葉遣いですよね。でも、みなみ さん がそういう語尾を使っているのは、気づきませんでした。最初から女性だと思って読んでいたので、ネカマ疑惑はまったく抱きませんでしたし。男性は、ふつう、チョゴリって着ないですし。いや、男性用の民族衣装というのも当然あるはずなんですが、あれもチョゴリというのでしょうか。

猫実さんも、Book まーく を使ってリンクページを作ってるのを発見。彼の分類方法も、とてもユニークです。こういうのを見ると、やはり分類するというのは、ひとつの評価なのだとはっきりわかります。もちろん、それはめちゃくちゃに放り込んであった自分のリンクページを整理して、5つのジャンルに分けたときにも感じていたことでした。

「あなたのサイトのここが優れている」と読めば、これはかなり失礼な話かもしれません。なんの注釈もないのですから、そう解釈することも可能だし、ご本人の自己評価とはかけ離れている場合も多々あるでしょう。ご本人だけじゃなく、この5つの分類って、ほかの人に分けてもらったら、別の場所に入るサイトもけっこうあるんじゃないかと思います。おもしろいテキストほど、いろいろな側面を持っているものだし。でも、エゴグラムのように、どこが突出してわたしの目に写っているか、ということなのですよね、結局。

そう考えると、わたしと読んでいる日記の多くが重なっている志野さんが、ご自分のサイトが入っている場所にそんなに違和感を感じないというのは、なんとなくわかるような気もします。きっと、好みが似ている部分があるのでしょう。

わたしの張るリンクは、サイト作者さんたちへのラブコール、というのは、何度も書いたことですが、このリンクページは「あなたのここが好き」という表明にほかなりません。あ、いえ、正確に言えば「あなたのサイトのここが好き」ですね。これだけの人数すべてに愛を語ったら、なかなか壮絶なことになりそうですが、好みのサイトは何十でも何百でも、いっこうにカドがたちません。

照れるってことは、そう言われるとうれしいってことだと受け止めていいのでしょうか。>blatz さん。告白したら、相手が照れ笑いしてる場合って、こちらもやはりにへらーとしちゃいますね。うーんと、そうじゃなくて。わたしの愛してるのは彼ひとりです。なんて、いまさらわかりきったことを。すみません。


2000.11.23 Thu. 子どものころの苦労

偉愚庵亭日乗11月19日分から、少し長い引用ですが。

 くだらないことをくだらないと思うのは至極まっとうなことだ。くだらないものをくだらないと言うことも同様だ。でも、きっとこういう公的なことをくだらないと思う子供はあらゆる場面で苦労することになるのだ。
 だって、この国で言われている「協調性」とか「常識ある判断」は、結局のところくだらなさに対する不感症のことなんだから。
 くだらないことだ。
 くだらないことをくだらないと言うと「ひねくれてる」と言われるわけだよ。オレがずっとガキの頃から言われ続けてきたみたいに。
 教育現場において、教育を受ける側の人間は
「何の意味があるんだ」
 という疑問を、持っちゃいけないのだね。
 け。


自他ともに認める「ひねくれもの」だったわたしにとっては、うんうんうんうん、と、首をぶんぶんタテに振りつづけたくなるような文章です。いえ、ひねくれものは、過去形じゃなくて、いまもなんですが、人前では「くだらない」と言わずに協調性のある人間を装っているだけなんですけど。

しかしながら、「何の意味があるんだ」と思うようなことは、わたしにとっては確かに意味がないけれども、だれか、そこに意味を見出す人がいるわけですよね。それも、力のある人が。

いまのわたしは、ひとりで生活する能力もあるし、いまの職場がいやならば、やめて別のところに行けるスキルも持っているから、自分にとって意味のないことにはなるべく近づかないでいることができるけど、そういう選択権のない子どもの間は、ほんとうにたいへんでした。鬱屈してました。なげやりでした。

子どものころから「協調性」を叩き込まれ、すっかりそれが習い性になってしまうと、おとなになって自分の意見ひとつ持てない人間になってしまい、そういう人は、便利に使われるだけで、実際のところ力のある人にはなれないのではないかと思います。他人に何かを押しつけるような力を持つ必要はないけれど、自分がくだらないと思うことに、はっきりいやだと言えるようになるためには、小田嶋さんも書かれているように子どものころの苦労はつきものです。

若いころの苦労は買ってでもしろ、なんて、わたしはぜんぜん思いません。苦労なんてしないですめば、それに越したことはありません。でも、残念ながら、素直にのほほんと生きていると、いろんなものにからめとられてしまうのです。からめとられていることにさえ、気づかないでいれば、それはそれで幸せなのかもしれませんが。


2000.11.23 Thu. 隠せば隠すほど

日記才人の公開ベータテストが始まったので、早速参加してみました。地域別、所属(というより、内容的には「職業」でしょうね)別、内容別の新作リストがあるのが、一番の変更点です。「地域」と、「所属」は、登録者情報のところで選ぶようになっているので、一度登録すれば終わりですが、「内容」というのは、更新報告するたびに選ばないといけません。まだ慣れてないせいか、これがけっこうめんどうでした。

前からいろいろ話題になっていた「日記読み日記」が新作リストに表示されないというのも、ちゃんと確認しました。「日記読み日記」の冷遇は、これだけではなくて、通常、「内容」は用意されているジャンルからふたつまで選べるようになっているのが日記才人ネタ・日記読み というカテゴリを選ぶと、ほかのカテゴリは重ねて選べないようになっています。このことに関する注意書きはとくになかったので、ふたつのカテゴリにチェックを入れて更新報告したら、エラー画面が出て、「日記読みを選んだら、ふたつめはなしよ」と教えてくれるようになっていました。さらに、「内容別新作リスト」のサブカテゴリは、トップページにも表示されているのですが、このリストには「日記才人ネタ」ははずされている、という念の入れようです。

ただ、「日記ネタ」というジャンルを選ぶのも自己申告になっているので、ここで選ばなければ通常の扱いになるんですよね。でも、こういうのって、必ず「ジャンルと違います」とご注進する人がいるだろうし、内容をごまかしてまで露出するリストを増やそうとまでは思っていません。

以前書いたように、日記才人サポートスタッフのみなさまの方針には、とくに口をはさもうとは思いません。画面の表示とか、使い勝手などはベータテストに協力する意味で、要望を出すのもいいと思うし、現に掲示板に要望を書き込んできましたが、日記読み日記を排除する方向性は、まあしかたのないことでしょう。めんどうならば、更新報告をしなければいいのだし、さらには、日記才人の登録削除すればいいだけです。いまのところ、めんどうさよりも自分のメリット、つまり日記猿人経由のアクセスがたくさんあるので、とくに削除することはないでしょう。

でも、こうやってシステムとして隠せば隠すほど、わざわざ「日記読み」として更新報告する意味があるのではないか、と個人的には思っているのですが。今度の日記才人には日記才人経由のアクセス数を見られるしくみがありますから、結果はじきに出ることでしょう。


2000.11.26 Sun. 親近感

更新せずに遊びに行っていたのに、ずいぶんアクセスがあるなあ、と思ったら、冬眠日記にリンクされていました。秀真さんには、日記読み というジャンルでも、リンクしてもらってます。ありがたいです。といいながら、掲示板で注文をつけてしまったわたしってば。「花津マリ」というふざけたハンドルは、ほかで見たことないんですが、「マリ」さんは、たぶんいっぱいいますよね。と、いいわけ。

秀真伝の日記読みリンクに入っている日記は、格好のアンテナですので当然すべてチェックしていますが、あとひとつはずせないのが、猫実さんおくらいりです。これはおもしろいです。「こんなの、しょせんたいしたことじゃないじゃない」というちょっとだるい雰囲気の裏から、隠し切れない好奇心がちらちらとのぞくところが、たまりません。わたしも以前大塚日記プロジェクトでこのページを書いていたし、リンクページも、同じ無料ブックマークを使っているし、勝手に親近感を抱いているんですけど。ご迷惑でしょうが。


2000.11.27 Mon. ゴシップにうとい

きょうのちょっとよろしくって? を読んだら、首をひねりつづけで、一回転しそうなくらいでした。(←それじゃエクソシストです) 一文ごとに「え? なんで? どーして?」と疑問符が頭の中に渦巻きます。わからないのはわたしだけなんでしょうか。わたしの頭のほうがどうかしてるのかしら。

JOY さんにメールを送った方が、どういうことを言ったのか、ちょっとわかりませんが、ふつうに日本語を読める人ならば、JOY さんの日記に「個性がない」と言うなんてことは、ちょっと考えられません。JOY さんだけでなく、わたしがふだん読んでいる「主婦日記」(←こうくくってしまっていいものかどうかわかりませんが)は、みなとても個性的で、内容的にも質の高いものだと思います。md しかり、主婦日常を振り返る。 しかり、E's Diary しかり。

日常のこまごましたことを書くより、日記読みのほうが JOY さんの個性にあっている、という話ならまだわかります。それを称して「個性がなくなった」という表現になったのじゃないかしら、というのが、わたしの推測です。

推測と言えば、一番わからないのが、下の段落です。「かもしれません」「のでしょう」「思いますわ」「気がいたします」など、推測を表す語尾が満載なのですが、なぜそう思うのかという説明が少なくて、なにやら、迷路の中に入り込んだような気分になりました。

男性であれ女性であれ、「生活日記がつまらない」とお感じになる方は、刺激的な情報がたくさんある日記などのほうが「面白い」とお感じになるのかもしれませんわね。たぶんそういう情報を自分で探したり考えたりするのが面倒でいらっしゃるのでしょう。それで誰かが自分の代わりに探してくれて、自分の代わりに考えて評価したり怒ったり文句を言ったりしてくれるような物を読みたいのだと思いますわ。日記読みなどをしてヒネリがあるような事を書いてちょろっと毒を入れれば「個性的だ!」なんて勘違いしてくださるのですからお手軽ですわね。こういう方はどこかで調べたことをさも自分で考えたことのように書いたりしている日記などもお好きでいらっしゃるかもしれません。「この日記は鋭い!」なんてコロっと騙されておしまいになりますのよ。そういう日記を読みますとなんだか自分がちょっと物知りになって賢くなったような気分がいたしますものね。読んでいる側は何も考えなくていいわけですから楽ちんでございますし。でもそれだとあまり「自分」がないという事になるような気がいたします。日記の「個性」が読み取れないのは実は御自身のほうにこれといった個性がないという事なのかもしれません。

「そうですね」と思ったのは、最初の一文だけで、あとの文章は、なぜ JOY さんがそう思われるのか、さっぱりわかりません。「刺激的な情報がたくさんある日記」を好きな人、というのは、情報を自分で探していて、それについて考えるのが好きなのじゃないか、とわたしは思うのですが。他人の文章でお手軽に疑似体験をするのが好きな人は当然いると思いますが、それが、ヒネリや毒のある日記の好きな人と重なっているのかどうかは、疑問です。

とくに日記読みなどをしてヒネリがあるような事を書いてちょろっと毒を入れれば とか、どこかで調べたことをさも自分で考えたことのように書いたりしている日記 って、どこのことなのか、とても気になります。それにしても、出典を明示せずに、調べたことを自分の考えのようにして書いたら、「ぱくり」というそしりは免れないでしょう。単なる一般論ならいいのですが、どこかのサイトをあてこすっているとなると、かなり重大な疑惑です。

きっと、わたしが知らないサイト作者さん同士の人間関係が裏にあるのではないか、という気がしますが、そういうことにうといわたしとしては、こういうとき、もどかしい思いがするばかりです。芸能界の人間関係をテレビのワイドショーで知るように、そういうことをわかりやすく解説したサイトってないでしょうか。そういえば「週間日記猿人」というのはありましたが、別にゴシップやスキャンダルを載せていたわけではないですよね。あ、そうか、2ちゃんねる が、ネットのワイドショーなのか。

はぁ。

やっぱり、ゴシップにはうといままでいいです。



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花津マリ

Akiary v.0.42