項目名 | 俺たちの旅 十年目の再会 |
読み | おれたちのたびじゅうねんめのさいかい |
分類 | 青春ドラマ |
作者 | |
公的データ | そんな折、オメダが蒸発したとの知らせが入った。グズ六はカースケに連絡を取り、共に鳥取に向かう。そこでカースケは洋子と出会い…。 |
感想文等 | 「俺たちの旅」は、たとえば三原順作品のように、『ああ、また盗作してしまった。グレアムのセリフで独白している。アンジーの想いで考え込んでいる。サーニンの叫びで心を慰めている……』といった、『なんだか私の細胞は三原順で出来ているみたいだ』などと感じるほどの入れ込みはなかったはずだ。 けれど、20代の頃だったと思うのだが、知り合いと話をしていてたまたまテレビドラマの話になり、そして「俺たちの旅」の話題に触れた時、その知り合いはかの番組を観たことがないのが判った。 その瞬間、私はなんだか口にしていたのだ。 「あんた、損してるよ」 などと……。 短い人生、誰が何を観ようが読もうが耽ろうが、その人の自由に違いない。私だって、特に興味もない本やドラマや映画を無理強いされれば嬉しくはない。だから、基本的に誰かに何かを強力に薦めることはあまりない(はずです。被害を被った覚えのある人、ごめんなさい(^^;)) それが、反射的に、という感じに口にしていたのだ。 あんた、損してるよ…… そう、カースケ達の生き方や行き方が、直接的に影響を与えて来たことはなかったかもしれないし、考えたり行動したりの基盤になったこともなかったかもしれない。 けれど、自分が実際には体験できなかった「別の人生」の仮想体験として、この「俺たちの旅」が途方もなく魅力的だった――それは確かだったはずだ。 だから、「あれから十年」の物語は、本当に…… ただ、リアルタイムでこの「十年目」を観たときに感じたのは、いわば寂寥が強いものだったと思う。 「昔とは違うからな」 これは、その「昔」にもグズ六が言っていた言葉だ。そしてやはりグズ六はそう言い続けている。 「行こう、オメダ。昔みたいにな」 昔のようにはいかなくても、だけど、昔のようにやってみてもいいじゃないか――。この「十年目」には、そんな「若さ」がまだちゃんと在った……さらに十年以上が過ぎ、自分がやっと彼らの年齢に追いつき、そして彼らはすでに「二十年目」を(そして「三十年目」を)迎えた時に、やっと少し、この「十年目」にあるのは寂寥ではなく、やはり「青春」だったのだと思った――。 グズ六はだんだんしょぼくれてきているが、ちゃんと「なんとかする会社」の社長で頑張っていて、紀子さんとはまだまだ幸せそうだった。オメダは随分変わらずオメダだった。カースケはまるで裏切者のように成功していた(リアルタイムでは本当に「そんな旨いことがあるか」と裏切りを感じた(笑))が、やっぱり「何が変わったんだよ、玉!」のカースケだった。 そして、「常識派」だった真弓はすでに離婚しており、一番堅実で颯爽としていた、そんなはずだった洋子は…… 海辺で、浩介の手から逃げ出して走り去る――「私、津村くんに同情されるなんていや! 津村くんに同情されるなんていやよ!」――すっぽ抜けた靴を拾いながら、みじめな様子で走る姿は、ぶざまさを強調されていた。 堅実に人生設計をし、能力があって容姿にも恵まれた「かっこよい」成功者だったはずの洋子と、その日その日を楽しく生きればいいというスタンスで気儘にやっていた「フリーター(こんな言葉はなかったが)」の浩介が、十年後に互いをどのように見ることになったのか――。 まさか、さらに「二十年目」「三十年目」を観ることができるとは思わなかった。この「十年目」は、また新しいスタートラインだったのだ。 だから、生きるすべてが青春なのだと、やはり言ってしまっていいのだろう……(おっぺ) |