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EVENT - Talk about Young Comic Extra (2012.5.19) report

entrance
米沢嘉博記念図書館入り口

『「増刊ヤングコミック」と青年劇画の世界』
―70年代の劇画誌ブームを総括するー

於:米沢嘉博記念図書館(お茶の水)
2012年5月19日(土)16:00〜17:30(実際の終了は18:00過ぎ)

以下のレポートは大友克洋ファンで、大友克洋データベース Apple Paradise主催の鈴木淳也が、A6手帳10ページのメモと記憶を頼りに書いているもので、内容の真実性は保証できません。会話のように書いている部分も、記憶を元にしているので表現等、実際のものとは微妙に異なります。また、イベント中に話されたものの、年号日付が示されなかった事柄について、『増刊ヤンコミ』最終号の総索引(資料価値が非常に高い上、クレームが付いたときの情報などもあり面白い)他で、可能な限り時期を特定して記述していますが、こちらの勘違いもあるかもしれません。訂正、ご意見等ありましたら junya.thesphere[at]gmail.com([at]を@に変えて下さい)までメールして頂くか、@JunyaTheSphereまでツイートお願い致します。

内容の修正および校正を、飯田耕一郎様と赤田祐一様に行って頂きました。飯田様には飯田様だからこそできる情報の確認をして頂き、赤田様には僕の勘違いや記憶違いなど多くの点を修正して頂きました。また、高寺彰彦様には大友克洋さんの手伝いについての追加情報を頂きました。ここにお礼申し上げます。

長いです。個人的に、イベント全体が非常に面白かったため、全体で覚えている限りを記しています。大友克洋関連情報にしか興味が無い!という方は、この辺から読み始めると良いと思います。

なお、レポートをまとめるにあたって連絡を取らせて頂いた方々、『増刊ヤンコミ』編集長のお三方以外の敬称は略させて頂いております。予めご了承下さい。



1 day pass

故米沢嘉博氏の蔵書を中心に、マンガ関連書籍を蓄積、公開、研究する米沢嘉博記念図書館で、『増刊ヤングコミック』(以下『増刊ヤンコミ』)の編集をしていた橋本一郎氏(作家、マンガ原作者)、戸田利吉郎氏(少年画報社代表取締役)、筧悟氏(別府大学客員教授、マンガ編集者)によって当時を振り返るトークイベントが行われました。『増刊ヤンコミ』といえば、大友さんが双葉社以外で初めてマンガを掲載した雑誌。その掲載の経緯には非常に興味があったので、参加してきました。16時の定刻には、用意された40席ほどは全て埋まり、立ち見も出る盛況ぶり。なんとなくそんな予感がしたので3時頃に入館していました(待っている間は『週刊モーニング 1991年38号』掲載の白山宣之「陽子のいる風景」を読んでいました。配架されていてウレシイ)。前から3列目、一番右の席に座って拝聴です。

abstract

正面のテーブルには、左から司会の赤田祐一氏、2代目戸田利吉郎氏、初代編集長の橋本一郎氏、そして最後の編集長である筧悟氏が着席。図書館スタッフのヤマダさんの紹介からイベントが始まりました。まずは赤田氏によるイントロから。『増刊ヤンコミ』が全58冊出たこと、メインストリームから外れたサブ的な立ち位置で、新人の原稿を積極的に掲載するなど実験的な誌面作りをしていたこと、その割りに力が入っていて読み応えがあったことなどが説明されました。更に、赤田氏の個人的な思い出として、当時石井隆の別冊号『女地獄』第二集がが手に入らず、編集部まで訪ねていったら戸田氏が対応してくれて、「編集者が使ったもので良ければあげるよ」といって本をくれたこと。そして、当時これも探していた『増刊ヤンコミ』掲載のダディ・グース作品について、コピーを所望したらその場でコピーをしてくれて「親切な編集者だなぁ」と思ったという話が披露されました。しかも、その本は編集者の手によって、警視庁から警告を受けた場面に赤の入れられたもので、それがまた面白かったとのこと。ちなみに、トークイベントで話された順序は前後しますが、ダディ・グース作品掲載の経緯について筧氏は、「本人が原稿を持ち込みしてきたんだよ」「全然目を合わさないシャイな感じだった」「後の矢作俊彦だなんて全然分からなかった」といったエピソードを紹介。また赤田氏によれば、このダディ・グース作品は「とても優れた作品」だそうで、是非とも読んでみたいものです(『少年レボリューション』には収録されませんでした)。

さて、その「編集で使った赤が入った本」の話から、当時の警察、鉄道弘済会の話へ。その「本に入った赤」とは、警察、鉄道弘済会による検閲の痕跡で、これに引っかかると始末書、最悪の場合は本が駅売店に並ばなくなってしまうのだとか。駅売店に並ばないのが問題なのか?というと、何と当時の雑誌はそこでの販売が4割を占めていたのだとか。更に、当時は陸路でなく鉄路で本が輸送されていたため、弘済会にアウトとされると配本すらままならないという事態に。陸路で運ぶことも可能ではあったものの、貨物列車を使った特別運賃で運ばれるのとは比較にならないほど高額になるため、その本の販売は絶望的となってしまったのだそうです。そのため、特に鉄道弘済会の検閲に引っかからないよう、非常に気をつけていたとのことです。なお、警察の方はさほどでもなく、呼び出されて始末書を書けば済む話で、行くとお馴染みの他社編集(やはり際どい雑誌だったのでしょう…誌名も言及されていたように思いますが忘れました(注1))が向かいで書いていたりしたそうです。この部分では、当時の鉄道弘済会の存在の大きさについて、強く印象づけられました。また最後には戸田氏より「今はコンビニが当時の鉄道弘済会に当たるんじゃないかな」「そのネットワークに入れないと、雑誌の企画自体が立ち上がらない」という話もありました。



続いて、創刊当初の状況について。そもそも『増刊ヤンコミ』がスタートしたのは、橋本氏が『少年キング』から日陰部署へ飛ばされたことがきっかけとのこと。しかし、橋本氏自身は丁度青年誌を手がけたいと思っていたところで、日陰とは思わずに企画を立案。少年画報社の上の方は、「橋本に本なんて作れない、すぐ潰れるだろう」と思ったのか、なんのチェックもなくその企画を通し、晴れて『増刊ヤンコミ』の創刊となったのだそうです。なお、これも後の方で赤田氏の「最終的にはほぼ月刊誌だったのに、なぜ増刊だったんですか?」の質問に答える形で語られたことですが、当時売れ行きの良かった『ヤングコミック』本誌の増刊扱いとすることで、前述の鉄道弘済会を含む取り次ぎがすぐに扱ってくれて売りやすかったこと、また増刊号だと何かあってもいつでも止められることが利点だったため、「増刊」でいったということが明かされました。但し、本誌があって増刊の場合は「創刊号」と銘打てない(そういう決まり)ため、売り文句を考えてスタートを切ったのだそう。確かに第1号のサブタイトルは「強烈ジャンボ漫画大特集号」。いろいろ制約があるものですね。

Young Comic Extra '73/8/7
「御用牙」がメインだった
頃の1973年8月7日号

そうしてスタートした『増刊ヤンコミ』ですが、当初は作・小池一雄、画・神田たけ志の大ヒット作「御用牙」の番外編(今風に言えばスピンアウト作品)を掲載する場として機能していました。これは当時、「御用牙」の単行本が、出せば出すだけ売れたため。増刊に50〜60ページの番外編を載せれば、それだけ早く単行本を出せるので、社にとって大変都合が良かったのだそう。また、この作品が載っていることで『増刊ヤングコミック』自体もよく売れるので、確かに一石二鳥の作戦でした(注2)。しかし、そうやって売りながら実験的作品や新人作品、松森正や辰巳ヨシヒロなどの正当派の作品を載せて誌面作りをしていても、やはり「御用牙」におんぶにだっこの状態は編集人として面白くなく、ここで大きな決断が行われました。それが「御用牙」を外すというもの。さすがに社の利益を考えれば上を通さないわけにはいかず、「外していいか」と打診したのですが、これがあっさりOKに。これについて橋本氏は「「橋本の手腕ではすぐ潰れるはずだ」という邪な考えがあったのではないか」と推測されていますが、いずれにせよ「御用牙」という看板の無い、新生『増刊ヤンコミ』がスタートすることとなりました(注3)。



melody of steel

心機一転となれば、新たな看板が必要。そこで起用されたのが、御大手塚治虫でした。手塚治虫に、ヤンコミのファンが望むようなハードボイルド作品を描かせ、これを柱にしようと考えたのです。その作品は「鉄の戦慄」。超多作な手塚治虫の作品群の中にあって、ウェブの人気投票では中編のなかで5〜6番目に人気票が集まるというこの作品は、当時アニメーションの業績不振で虫プロ商事、更には虫プロダクションが倒産し、手塚に暗い気持ちがあったことと相当関係しているはずとのことです。「主人公が両腕を轢断される話ですが、手塚治虫は「自分にはまだ両腕がある!絵は描ける!」という思いがあったのではないでしょうか」という橋本氏の言葉が印象的でした。

song of apollo

ここから手塚治虫にまつわる裏話が始まります。例えば、橋本氏が在籍していた『少年キング』の頃、「こんなのがありますよ」と言って教えたクローン技術の話が「アポロの歌」の創作に大きく影響していたとか、「乗っているときは20ページのネームを一時間であげてしまう」とか、あるときはもの凄くギリギリにやっとネームが上がる状態になったため、ページ数と同じ人数のアシスタントを待機させておき、ネームが上がった瞬間に全員がそれぞれのページを仕上げて間に合わせたなどという信じられないような話まで。そして話は「鉄の旋律」の連載中、ネームがどうしても上がらなかった時の話になります。その時は近くのホテル(注4)を借り、カンヅメにして間に合わせることとなりました。その日の夕方、手塚治虫の仕事場でそれを伝えると、しばらくカンヅメなんて状態になっていなかった手塚治虫は逆にニコニコしながらアシスタント達に「あ-、今日はカンヅメですって。カンヅメだから皆さん帰っていいですよ。帰ってゆっくりしてください」。もう言っている場面が目に浮かぶようです…。
 とにかくそれでホテルへイン。するとあれだけ出なかったネームが進み始めて、てっぺん前には全ページのネームが上がったのだそうです。それを受け取った橋本氏は、すぐに写植作りにかかります。と、そこで橋本氏はあることに気づきます。「昼の場面がある…」。え、そりゃあるでしょ、と思うのですが、この後の橋本氏の説明は個人的に驚愕の内容でした。曰く「手塚治虫は背景を全く描かない。描いたことがない。これはもう宝塚時代から。」…絶句。すみません、マンガ好きで大友克洋マニアを自認する僕ですが、宝塚時代から背景が完全にアシスタント任せというのは初耳でした。常識なんでしょうか…。ただ、橋本氏が「だよねぇ?」と皆に同意を求めたものの微妙な反応だったので、確実な話ではない可能性もあります(注5)。それはともかく、ここで橋本氏が危惧したのは、アシスタントも誰もいないホテルの一室で、本当に昼間のシーンが描けるのか。その結果は明け方、印刷所が間に合わない「真の締め切り」の直前に渡された(注6)完成原稿で明らかになりました。「セリフが変えられて、夜のシーンに変更されてました」。これがこのトークイベントで一番驚いた話でした。しかも続きがあります。「後で単行本では昼に戻されていましたけれど」。手塚治虫の凄い話は枚挙にいとまがありませんが、まだまだ出てくるんだなぁ、と感動してしまいました。



「鉄の戦慄」を柱とする一方、新生『増刊ヤンコミ』のイメージを変えるべく、連載陣も刷新されていきました。当初から作品を掲載しており、橋本氏が「あの人は上手いから」と信頼を置いていることが語られた松森正は続投(「テキサスの鷹シリーズ」他)。加えて、「本誌とは違う誌面にしたい」という橋本氏は永島慎二(「この街あの頃」シリーズ)、山上たつひこ(「幽気ヶ原の決斗」他短編)を引き入れます(1974年11月26日号より)。また、その少し前の1974年8月27日号からは、かわぐちかいじも参入(「人斬り以蔵伝」他)しています。そして1975年4月8日号になると石井隆(後述)が、同年8月26日号には上村一夫が、同年11月11日号からは平田弘史(後述)が、そして1976年4月13日号からは宮谷一彦(注7)が参加し、所謂黄金時代に入ってゆきます。

ここで少し山上たつひこの裏話。マンガ家によって色々な下書きがありますが、山上たつひこのものは画面が真っ黒になるほど、鉛筆で何度も線が書き込まれたものなのだそう。その中から、最後に適切な線へペンが入れられるのだそうです。が、これまた原稿が遅い。するとここで赤田氏、「(この頃の『増刊ヤンコミ』は)緻密系が多いですよね」「そんな連載陣を橋本さんはほぼ1人で担当していたわけですが、原稿を取る秘訣みたいなものってあるのでしょうか?」という質問。これについての橋本氏の答えは「気迫ですね」。おお!「原稿を取るんだ、という迫力で臨むんです」おおお!「マンガ家と編集のやり取りは斬り合いですよ」おおおお!。なんという名言・至言のコンボ。更には「大体どの作家も二晩寝ずに付き合えば原稿が上がります」orz...なんという…。『吠えペン(島本和彦)』の世界がいま目の前に。そして、丁度話の出ていた山上たつひこからも、一晩付き合って原稿を取ったことがあったと回想されました。
 またここでこぼれ話。「そこで手伝っていた勝川克志にも描かせることにしたんだよ」という橋本氏。赤田氏「勝川さんは山上さんを手伝っていたんですか?」、橋本氏「そう、どんなの描いてるの?って見せて貰ったら面白くて」。そして「こういうマンガがあってもいい」ということで掲載が即決まったのだそう。勝川克志の同誌初登場(デビュー)は1976年4月13日号なので、この話は同年初頭のことなのだと思われます。なお、この話をしながら橋本氏が「戸田さんはイヤだったと思うんだけど」というと、戸田氏は「いや、そんなことないよ。好きだよ」。それでも橋本氏は「自分の趣味だったんだけど」と、勝川克志登用に賛否があったかのようないい方をされていました。



既に沢山話をされていた戸田氏ですが、ここで改めて、同氏の『増刊ヤンコミ』加入についての話となりました。戸田氏が『増刊ヤンコミ』の前にいたのは『少年キング』でしたが、その『少年キング』の売り上げが良くなく、編集部の刷新が行わます。その時の異動で、戸田氏は『増刊ヤンコミ』編集部勤務となったとのこと。ちなみにその時の『少年キング』は、前年比10%増で伸びてはいたのですが、少年画報社のある水道橋のお隣、飯田橋の秋田書店が出していた競合誌『少年チャンピオン』は前年比200%増。あまりにも差が歴然だったために上記のような措置となったのだとか。そうして移ってからは、青年誌である『増刊ヤンコミ』を面白い誌面にするよう、その腕を振るうこととなりました。その戸田氏の功績の一つであり、最大の殊勲は石井隆に描かせたこと。既に『増刊ヤンコミ』で作品を描いていた、かわぐちかいじの仕事場で見たミニコミ誌的な雑誌『蒼い馬』(北冬書房)に載っていた石井隆の作品(1974年の創刊号に再録された「埋葬の海」)を見て、「これはすごい!」ということで引っ張り込んだのだそうです。
 打ち合わせに現れた石井隆の風貌が、(よく知られていることではありますが)その作品とは全然イメージの違うシティ・ボーイ的ルックスで驚いたという戸田氏、実は石井隆の奥さまと浅からぬ因縁があったことが後に判明するという「超」裏話も披露されましたが、これは書かないでおきます(オフレコと言われたわけじゃありませんが)。いずれにせよ、石井隆の『増刊ヤンコミ』デビューは「鉄の戦慄」の終了直後、1975年4月8日号のことでした(なんとタイミングの良いことか!)。このデビューに際しては、競合誌である『漫画エロトピア』、『漫画アクション』の両編集長から続けざまに電話がかかってきたという逸話も披露されました。

石井隆という目玉を手に入れた『増刊ヤンコミ』は、明らかにそのカラーを変えていきます。これは編集部はもちろん、少年画報社の販売部の担当も認めたことだったとか(販売部には、編集者も知らなかったマンガの目利きがいたそうです)。ただ、少し危ういという問題も。かなり際どい性表現だったため、警察、鉄道弘済会からのダメ出しが危惧されたのです。しかし、当の石井隆は「エロ劇画」という言葉が大嫌いで、自分が描いているのは「ラブストーリー」と言う作家。それが通じたのかどうなのか、実は『増刊ヤンコミ』時代に、石井隆作品に警察からの赤が入ったことは一度たりとも無かったのだそう。それもまた、凄い話です。そして、石井隆作品の素晴らしいところは、普通ブルーカラーにしか支持されないこの手のマンガにあって、インテリ層や批評家からも高く評価されたということ。「この両方に受けたのは強かったですよ」とは橋本氏。「マンガを作っても、ヒットするのは100本に1本あるかないか」という業界にあって、石井隆獲得はホームラン級のヒットとなりました。その後、石井隆を巡って本誌と奪い合いになった(1977年からは「天使のはらわた」を本誌『ヤンコミ』で連載)うえ、当然の如く他社からも引き合いがあったため、会社を矢面に立たせる意味で専属契約を結んだことが明かされました(橋本氏「コレ話して良いのかな」、戸田氏「いいんじゃない」というやり取りあり)。そして月産50ページくらいで少年画報社だけにマンガを描かせることとなります。なお、『増刊ヤンコミ』時代にも石井隆は単行本(四六判のハードカバー)を出したいと言っていたものの、会社と折り合いが付かず、別冊として『石井隆特集号』を5冊作ってお茶を濁すしかなかったとのこと。その後、学研の子会社であった立風書房から『名美』('77)、『赤い教室』('78)を上梓してゆきますが、少年画報社から刊行された石井作品は、希望と異なるソフトカバーの本でした。



このように(というかここに書いた数倍、数十倍)高く石井隆を評価する戸田氏ですが、それに匹敵するヒットとして挙げられるのが大友克洋に描かせたこと、と言って話が変わりました。遂に大友克洋の話に突入です。そしてここで第3の編集長である筧氏にバトンタッチして、大友克洋を参加させることになった経緯が話し始められました。最初に赤田氏から「大友克洋は持ち込みだったという話を聞いていますが」と振られましたが、それは否定されました。一番最初のきっかけは、筧氏の飲み仲間であった歌手の浅川マキが、「この人に描かせればいいのに」と言ったことだったのだそうです。浅川マキは大の大友克洋のファンで、強く押していたのだそう。もちろん、筧氏も戸田氏も『漫画アクション』誌上での大友克洋の活躍、クオリティは十分承知していたとのことですが、双葉社と専属契約を結んでいるから厳しいだろうという見方をしていました。しかし、稀代のマンガバカと言われる、故みやわき心太郎から、重大な情報がもたらされました。「この3月に専属切れるよ」。この言葉を聞いた2人は、ダメ元で双葉社に直接TEL。すると、電話に出た新人のサトーという編集者がアッサリ連絡先を教えてくれたのです!このサトーさん、あとで大目玉を食らったとのこと。そりゃそうでしょう…。よりによって完全なる競合誌に、もはやただの新人どころではなくなっていた(注8)大友克洋の情報を漏らしてしまうとは…。なお、当時のアクション編集長は、「筧氏を面接して、その結果教えることにした」という全く別の話をしていたそうです。筧氏は、そんなことはなかったと言っていましたが。

Young Comic Extra '78/8/20
「ヘンゼルとグレーテル」
掲載の1978年8月20日号
表紙にクレームが付いた
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どちらにしても、連絡先をゲットした戸田、筧両氏は早速大友克洋に電話しました。当時の『増刊ヤンコミ』には、大友克洋が好きだと言っていると既に評判になっていた平田弘史が描いていたので、受けてくれるのではないかという期待もあったそうです。そして、共に大友克洋の仕事場へ。すると、「こんなの描いてるんですよ」といって見せられたのが、「ヘンゼルとグレーテル」の完成原稿(!)。凄いマンガ家という事は既に分かっていたものの、内容的にも、「好きで描いちゃう」という仕事ぶりにも「これは凄い、次元が違う」となり、即掲載決定。こうして「ヘンゼルとグレーテル」は『増刊ヤンコミ 1978年8月20日号』に掲載され、これが大友克洋の双葉社以外での初仕事となったのでした。
 ちなみにこの点について、イベント最後の質疑応答時に僕が質問して、詳細を聞きました。質問は「大友克洋さんの原稿で、原稿アップの日付が入っているものは希なのですが、この「ヘンゼルとグレーテル」には「1978.4.24」という日付が入っています。それが印刷されたのは初出時だけですが。そして、掲載されたのは8月20日号。その時間差が気になっていました。ご覧になった原稿は、完成していたものだったのですか?」というもの。すると戸田氏は「そう、完成してました」と返答。「掲載は7月売りの号だったかな」僕「はい、8月20日号なので7月です」というようなやり取りに。当時大友克洋と懇意にしていたみやわき心太郎が「この3月に〜」と言ったこの3月とは、1978年3月のこと。このことから察するに、筧、戸田両氏が大友克洋の仕事場を訪れたのは1978年の5月か6月ということになるでしょう。これが、大友克洋が『増刊ヤンコミ』に掲載されることとなった顛末なのでした。凄い。そして最も重要なのは、「みやわき心太郎」という補助線が引かれたこと。先日(2012年3月26日)放送されたUST生放送でも「みやわきさんが…」という発言がありましたし、コレは是非とも大友克洋本人に詳しい事情を聞いてみたいです。(注A



ここで、『増刊ヤンコミ』に持ち込みをした作家として、超大御所、杉浦茂の話が飛び出しました。本当に普通に、新作のコピーを編集部宛に郵送してきたのだそうです。総索引を見ると、杉浦茂の名前が初登場するのは1978年5月20日号。内容は「特集&やじうま」となっていて、「やじうま」が作品名なのかどうかが分かりませんが、恐らく持ち込みはこの少し前だったのではないかと思われます。その後、同年10月20日号と最終号でも作品が掲載されています。この件について、『増刊ヤンコミ』が「当時忘れかけられていた作家の再登用の場」でもあったということが語られました。この点は平田弘史に関する話(後述)の中でも言及されます。

話は更に、「原稿を取るのが難しいマンガ家ランキング」へなだれ込みます。その堂々一位を獲得したのは大友克洋(わはは)。続いて、たなか亜希夫(注9)。大友克洋は、まあとにかく描き始めない。あまりにも締め切りギリギリでページ数が決まるため、本当にハラハラさせられっぱなしだったのだそうです(注10)。「この人からしっかり原稿を取るには、由利さん(注11)のように、吉祥寺に定宿のホテルをとって、生活を大友シフトにして対応しなければ」「完全に大友克洋中心の生活になっちゃうよね」といった恐ろしい発言も飛び出しました。

Young Comic Extra '79/2/20 (final issue)
1979年2月20日最終号
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同じく原稿の遅いマンガ家では、つつみ進の名前も挙がります。つつみ進は1977年8月20日号でデビューしていますが、『増刊ヤンコミ』終盤での作品がとても面白かったとのこと。だけれども原稿が出ない。特に最終号ではいしかわじゅんに代原を頼んで乗り切ったという話が紹介されました(注12)。同じ最終号では、大友克洋にも新作を描かせる予定だったのですが、途中まで描き進んでいた作品(注13)は、締め切りが近かった本誌『ヤンコミ』に「終わる雑誌より続く雑誌優先だ」と言って取られてしまい、泣く泣く「ヘンゼルとグレーテル」の再録となったという裏話も披露されました(この経緯は編集後記にも記されています)。また、話には出ませんでしたが、この号では巻頭カラーの平田弘史「薩摩義士伝」もページ数が足りずに「名場面集」でお茶を濁す(注14)など、「結果は悔いの残るものになってしまった」と戸田氏が編集後記で漏らしています。

Young Comic '79/2/28
「Hair」掲載 ヤンコミ
1979年2月28日号
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Satsuma Gishi Den 3


Young Comic '78/12/20
「信長戦記」掲載
1978年12月20日号
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また質疑応答の最中には、終盤の原稿争奪劇のひとつとして、大友克洋の「信長戦記」のエピソードも語られました。同作品は1978年12月20日号に掲載されたのですが、これもギリギリまで原稿が上がらない。これはもうカンヅメにして描かせるしかないとなり、大友克洋と手伝いの高寺彰彦ともう1人(?)を連れて行った(注15)のが中野の建物。「元遊郭みたいな建物で、みやわき心太郎が当時5部屋くらい借りてたんですよ。その一室にカンヅメにしました」とは戸田氏(注16)。その部屋に3人(2人?)を入れ、作業を始めさせました。そして机に広げられた原稿を覗いてみたら、「うちのじゃない!」(笑)。そこに開かれていたのはなんと「Fire-Ball」の原稿(笑)。こちらの締め切りも迫っていたのだそうです。単行本『GOOD WEATHER』収録のインタビューで「信長戦記」は「Fire-Ball」のウォーミングアップだったことが語られているので、こんなにも同時進行だったというのは驚きでした。ちなみに、質疑応答時に質問と共に、前述のように驚いたことを感想として言ったところ、「え、そうなの?」という感じで驚いていた戸田氏の表情が印象的でした。

Young Comic Extra '78/9/20 (final issue)
「大麻境」掲載
1978年9月20日号
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ついでに質問したことをもう一つ。1978年9月20日号に掲載された「大麻境」、この予告として前号(「ヘンゼルとグレーテル」掲載号)に見開き2ページ用と思しき気合いの入ったモノクロのタイトル原稿が使用されているのですが、実際は2色で1ページの扉になっていました(モノクロ原稿は予告のみ)。この経緯が不明だったので質問してみたところ、はっきり覚えていらっしゃらないようでしたが、「時間があったんじゃないかな。好きで描くときはどんどん描くから、そういこともあったのかも」という回答を頂きました。



Hirata Hiroshi Selected Works 1
大友克洋装幀の
平田弘史選集 第1巻
詳細はこちら

ひとしきり大友克洋の話題が語られた後、同じく原稿が遅い作家、平田弘史に纏わるエピソードに移行。まず、大友克洋に作品を描かせる手始めとして、大友克洋の敬愛する平田弘史の単行本、『平田弘史選集』の装幀を任せることにしたというエピソードが語られました(注17)。「大友さんに任せれば売れるだろうという考えもあった」「まず4人(平田弘史、大友克洋、戸田氏、筧氏)で新宿で飲んだ」といった話が披露されます。ただし『平田弘史選集』は1987年の発行。第1巻の巻末インタビューや月報を読む限り、装幀の作業もほぼ同時進行で行われたようです。そうすると筧氏の記憶違いか…でも確かに奥付の「平田弘史選集刊行委員会」には戸田、筧両氏が名を連ねていますし、インタビューでは平田弘史が「最初にお会いしたときは、あなたは24歳ぐらいだったかな」と言っているので、1978年に顔を合わせているのは確か。もしかすると、装幀の話は1978年にしていたものの延びに延びて、やっと1987年に実現したということなのかもしれません。

Satsuma Gishi Den 1

更に遡って、平田弘史を『増刊ヤンコミ』へ引き入れた頃の話へ。そもそもは戸田氏が平田弘史の大ファンだったのが始まり。しかし、当時の平田弘史は「終わった」と言われていたのだとか。あまりにも原稿が遅いため、編集者、出版社から見放された存在になっていたのです(注18)。しかし何とか描かせて再起させたかった戸田氏は、まず何作か短編を描かせた(注19)後、満を持して「薩摩義士伝」の連載を始めさせるに至ります。前述の通り、雑誌休刊のために『増刊ヤンコミ』では未完となってしまいますが、その試みは成功して、その後作品は『漫画ゴラク』誌上で完結することとなりました。ただし、「薩摩義士伝」の初回の評判は散々なものだったとも述懐されました。作品を読まれた方はご存じの通り、初回「ひえもんとり」は罪を犯した武士がひたすら騎馬から逃げ続けるお話。壮大なるストーリーのオープニングなのですが、回りからは「ナンダこれは」といった反応だったのだそうです。とはいえ話が進むにつれ、評判はどんどん上がっていったとのことです。
 ここで平田弘史の裏話が一つ。実は、平田弘史の原稿は当時、どんどん無くなっていっていたのだそう。それは平田弘史の人の良さに起因するのだとか。なんでも、「単行本にするから原稿預けてよ」ということをいわれると、すぐに貸してしまう。しかし単行本は出ずに、原稿も行方不明に。そんなことが続き、原稿を管理している奥さまが「お父さん、あれとアレの原稿がないですよ」「ええ、そう?」なんて感じ。当時は今のように、綺麗に雑誌から作品を復刻する技術もなく、作品はどんどん埋もれて行ってしまったのだそうです。



Iron Mascle

そしてここで、どういう経緯だったか園田光慶の話へ。『増刊ヤンコミ』の黄金期を形成したマンガ家達は、一様に園田光慶に大きな影響を受けているということが語られました。「大友、松森、かざま(俊二)なんかがみんな影響受けてました。あ、宮谷一彦もそうだし、池上遼一も。変わったところだとあだち充なんかも」という戸田氏は「あのアイアンマッスルは本当に凄い作品だね。3巻は全然ダメだけど(笑い)」と続けます。それに対して赤田氏が「アイアンマッスルと言いますと、アメコミからの影響も指摘されますが」と尋ねると、「確かにこういう(拳を前にグッと出したポーズを取る)ポーズなんかは影響を受けてて、作画的には取り入れてるんだろうけど、日本のマンガとして成立している」というような解説をされていました。また、「雲形定規なんてない時代に、あれだけ正確な曲線を引けたのは凄い。あと1人同じ事をできたのは、川崎のぼるの所のアシスタントをしていた飯田ひろし(漢字不明)だけだよ」ということも語られました。

Young Comic Extra '78/11/20
白山宣之作品掲載
1978年11月20日号

更に話は色々な方面へ。宮谷一彦が梶原一騎原作の作品(注20)を受けたのは、干されていた時期でお金に負けてだった、けれどやっぱり途中でイヤになって止めた。原稿は残っていないんじゃないか。平口広美も良かった。などと、様々な話題が語られました。そして本当に終盤になって、赤田氏から「本当はこの会に出たいと仰っていたのですが」と振られて出てきたのが、つい先日他界した白山宣之。ヤンコミ編集メンバーは、大友克洋の仕事場に行ったときに出会って以来の付き合いなのだそうで、戸田氏の言葉によれば「黒沢チルドレン」の1人。本当に映画が大好きで、それは大友克洋もそうだけれど、面白いアイディアをいっぱい持っている人だったと回想されていました。また、白山宣之は『増刊ヤンコミ』のことを「この系統の最高峰である」と評したり、「短編をちゃんと載せる雑誌だ。今の短編と言っているものには、破綻した短い話と長編の第1回しかない」などと辛辣に言ったりしていたことが紹介されました。そして、赤田氏も参加した5月5日の追悼会での話などもあり、白山宣之ファンであり、ついさっき「陽子のいる風景」を読んだばかりの僕はジーンと来てしまいました。

その後も断片的な話が幾つか。この日客席側にいらっしゃった鈴木漁生氏の『増刊ヤンコミ』参加の経緯、最終号に載せた総索引が社内で大ブーイングだったこと(曰くページ数が多すぎる!そんなの載せるなら折りを減らして安く上げろ)、などなど。そんなこんなで予定の1時間半を大きく超えて19時50分頃に質疑応答の時間となりました。まず最初は、僕の質問2つ(前述の大友克洋に関するもの)。それから「休刊の経緯をもう少し詳しく教えてください」という質問が別の方から。しかし、この件について語られている間は、自分のした質問に対する回答を思い出しながらメモるのに精一杯で、まるで記憶に残っていません。すみません。

Young Comic Extra '73/8/7
ひろき真冬デビュー作掲載
1973年8月7日号
スイマセン、「御用牙」
載ってるのこれしか
持ってなくて…

で、メモがまとまった頃にまた「他に質問は」とヤマダさんが振ったものの誰も手を上げなかったので、僕がもう一度。「ひろき真冬さんが初期の号(1973年8月7日 第12号)でデビューされた経緯を」と質問しました。ひろき真冬は1988年に出た徳間書店のオムニバス本「サイバーパンクSPECIAL」に掲載された作品を見て以来のファンだったので、このデビュー作についても是非訊きたいと思っていました。が、橋本氏の答えは「あれ?アクションで見て誘ったんだったんじゃないかなぁ。これデビュー?」「はい、ここでデビューしてます」「ああ、そう」という感じでほとんど覚えていらっしゃらないようでした。残念(注21)。

その代わりに「あれ、谷口ジローもここでデビューだっけ?」、図書館スタッフ「いえ、谷口さんのデビューはヤングコミック本誌です」という勘違いから、偶然にも谷口ジローの話へ。「谷口ジローは石川球太の所にいて、自分の書いた絵本をバラまいていたんだ。それを見て、ヤンコミ本誌でデビューになったんじゃないかな」「うちで描いた「西風は白い」、これは傑作」「でも女性が上手く描けなかったのが痛かった。だから銀座の近藤書店(注22)で外人女性のヌード雑誌を買って、女を描く練習をさせた」などという、こぼれ話にしては濃すぎる話がぽんぽん披露されました。


そんなこんなで質疑応答も終わり、イベントは終了しました。その終了間際(だったと思う)に戸田氏が言われた「うちにこれ(『増刊ヤンコミ』)全部あるんだけど、今の新人が迷っているときは読ませるんだよ」という言葉が凄く印象的でした。『増刊ヤンコミ』を作ってきたことを、今も変わらず誇りに思われているのが、ビシッと伝わる一言でした。

以上、2時間ちょっとのトークイベント、覚えている限りのレポートでした。文責は鈴木淳也にあります。ご意見、ご質問等、歓迎致します。junya.thesphere[at]gmail.com([at]を@に変えて下さい)までメールして頂くか、@JunyaTheSphereまでツイートお願い致します。


2012年5月23/24日記、同25/26日修正、同26日深夜公開

2013年4月3日修正(注A の追加等)

あとこちらの追加検証・情報も募集してます〜
マンガのフキダシ、内向きの三角の起源について

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