その1 〜307号線を東へ!東へ!



「さあいよいよきましたね」「きましたよ」
朝目覚めた時から、異様なハイテンション。寝床の中で幾度となくくり返される独り言(笑)。そう今日は10月7日、関ヶ原出陣の日であった。「本出陣はまだ明日だよ、明日」「まったく、ふぅ〜」といささか気分を落ち着ける。がしかし、一度高揚した気分は、なかなか収まらない。「どうしたもんかねぇ」と朝飯を食う顔が笑っている。まわりから見るとかなり不気味。本当は今日の午後から出発の予定・・・が、とても待ってられない。昨日の晩にテントとか一通り荷造りは済んでいるから、あとはゆっくり出発するだけなのに、なぜそんなに焦っている?「しゃーないなぁ・・・   いくか」ついに・・・というか、案の定予定より少し早い11時過ぎ・・・又五郎は関ヶ原へ向かって出発したのであった。

と、10月7日の朝をおおよそに再現するとこんな感じでしょうか?(笑)
え、誰もそんな事は聞いてない?ごもっともです。
しかし、あの朝の「士気」は90以上は確実にあったこと、とりあえずお伝えしたかったので(笑)。
なんにせよ、いよいよその日は来たのです。(本当はね。三献の儀もやりたかった・・・)

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■では、そもそも又五郎が、関ヶ原に出陣するきっかけになったのは???
実は自分でもよく分かってないんです(笑)。応募したのは、ちょうど5ヶ月前…そう、そのころは「九度山真田祭り」「幸村慰霊祭」「彦根城めぐり」と戦国にどっぷり漬かったGWが終わった後の事でした。赤い甲冑が新緑の季節に踊っていた光景を見て・・・自分が思っている以上に憧れの感情が芽生え始めていたのでしょう(笑)。その時HPを何気なくサーフしていて、偶然関ヶ原400周年の記事を見つけたのです。

武者募集
その時の自分が、この文字に過剰反応したのはいうまでもありません(笑)。「武者ってなんじゃ?一般参加できるのか?」その時すでに頭の中で何かが弾けてたような気がします(笑)。よく読んで見ると、それは「400周年記念」「武者はどうやら全部で1000人」「ゆかりの方、子孫の方も募集」など、かなり大掛かりなイベントらしい。「うーむ、これは・・・」それまでは武者行列など見るものとしか思っていなかった私でしたが・・・。いささかの躊躇はあったでしょう。しかし気が付くと、なんだか分からない魔力に吸い寄せられるように、岐阜市大垣町秘書課のダイヤルを回していた自分がいたのでした(笑)。
(送ってきたちらし→)
□関ヶ原合戦のチラシとか、事前情報のまとめは         こちら
□本当は公開されるはずだった年表とか(でき次第公開^^;)  こちら

さて、数日後送られてきた募集要項には、「希望武将の足軽を」と書いてあり、さらに「第1希望〜第3希望」までの書く蘭が・・・。
ここではたと、悩みが発生しました。そう、ここには真田はいない・・。今までの好きな順でいうと、当然西軍の諸将になるのだが、実はここで一番ひっかかったのは、何を隠そう小早川秀秋(笑)。わざと、東軍寝返り組みに入りその時の心境を慮るもよし、特殊工作員として小早川陣内をかく乱するもよし、松野主馬になって最後まで傍観するもよし、なかなかの魅力である(笑)。しかし、400周年の特別記念なら・・・やはり西軍しかないというところに落ち着きました。では、その西軍で誰にするか?これは大いに迷いどころである。一番最初に浮かんだのが「大谷吉継」。やはり関ヶ原随一の悲将の感。次が「宇喜多秀家」そして3番目が・・・実は浮かびました我が「戸田重政公」が!島津よりも先に。そして思った瞬間、「これだ!」と確信しました。「大谷公」ならば400周年を逃してもまたお会いできる可能性が大である。しかし、戸田公は今回を逃せば、もうお会いする事は生涯あるまい(^^;そしてなによりも・・・ 私はなぜか昔から戸田重政公が好きなのである。多分最初に出会った真田太平記の戸田+平塚公の頃から、なぜか好きなのだからしょうがない。これは仁科盛信公にもいえる事とおなじで、虎が好きなのもおんなじ事なのだ!<好:マイナー<お、怒られるか?(^^;

と、うだうだと書きましたが、これにて希望武将が決まりました。
第1希望 「 戸田重政 」 (張り切って書いたよー!)
第2希望 「 平塚為広 」 (戸田公よりはかなり有名。でも縁の団体で参加ってあるので・・・)
第3希望 「 大谷吉継 」 (ここはさすがに第3希望では無理か)

平塚公もよかったんだけど、平塚公ならまだ世間に認知されてるし・・。やはりここは戸田公の為に一肌脱ぐしかないでしょう!

かくして又五郎は、『越前安居城主で1万石、関ヶ原では小早川の裏切りを真正面から受け止め、一時は2度にわたって約500mもこれを退け、最後は力尽きて織田有楽隊に討たれ忠義の臣。東軍西軍の諸将はこの死を知って皆涙したという 「 戸田重政公 」 の配下の足軽』となる事が決まったのでした。(おっ!安居城主?安居天神・・・。思わぬつながり発見!ちなみに上のマークは戸田公の家紋◎に炎を足した創作です^^)






『さぁー、いくぞー!目指せ関ヶ原!行きがけの駄賃に迂回して大津城を攻めるもいいぞーー!』<こわれ気味
しかし考えたら、立花宗茂は大津城を攻めていて関ヶ原に間に合わなかったな・・・いかんいかん。
妙なハイテンションの中、大阪をスタートした車は快調に307号線を京都から滋賀へ抜けようとしておりました。

実はこの307号線(彦根−枚方を結んでいる!これだけ聞いても魅惑の道路だ!)、今回通るのが初めてだったのですが、実は本当に素晴らしい魅惑の道路でした(笑)。最初高速で行こうかとも思ったのですが、この関ヶ原、地図で見るとそう遠くないのですね。実際に距離も測ってみましたが、枚方までだと120〜30キロぐらいだったかな。 意を決して、国道で行く事にしました。混んでたら京滋バイパスにのるつもりで・・。

しかし・・・この307号線、何故かめちゃめちゃすいている!!
3連休の初日、しかも真昼の12時だというのに。加えて信号にもほとんど引っかからない。「どういうわけだ?人は住んでるのか?」と疑いたくなるぐらい、気持ちよーくのびた一本道が続いています。
(←走る車の窓から激写。あぶないって^^;)

これは帰りの話になるのですが、名神が所々連休渋滞4、50キロ。その表示を見て、307号で枚方まで帰ったのですが、合計3時間かかりませんでした。普通に走って米原−(高速)−京都南−枚方が1時間半ぐらいだから、その渋滞だと多分倍以上・・・結果的に307号の方が早かったと思います。名神が渋滞したら、これからは彦根で降りるのも手だ!(関西人以外には何の関係も無い話;)



さて、滋賀県に入って快調に飛ばしていると、まずたどり着いたのが滋賀県信楽町。
信楽町は、ご存知の通り焼き物の町ですね。そして何よりも有名なが、この「たぬき」?
(思わず撮ってしまった店(笑)→)

「たぬきが寝てるよ〜」「しかしこの町夜訪れると不気味かも」
色々考えながらも、しかししっかり写真だけは撮ってきました。

なかなか痛快な国道だな!うん。と頷く私でしたが、魅惑の307号線はここからがさらに戦国化していくのであった。そうなのである。実はなにを隠そうこの道は・・・甲賀の里と交わっていたのであった!

(→ もうしばらく続く関ヶ原前哨戦(^^;)



 2000年10月7日 〜 10月9日
++ 関ヶ原合戦400年祭 参加レポ その1 ++