■山之手殿(昌幸の妻) ・・・気位も高いが性根もすわった賢妻
山之手殿の出生にについては諸説があり、定かではない。
1つは「宇田下総守頼忠」の娘といわれ、
1つは京の公家「菊亭晴季」の娘ともいわれ、
また、甲州侍「遠山右馬亮」の娘ともいわれる。
仮に宇田頼忠の娘だとすると、関ヶ原の西軍大将であるあの石田三成も
宇田頼忠の娘を妻に迎えている事から、2人は義兄弟だった事になる。
だとすると、昌幸と三成は色々な縁で結ばれており、西軍に味方した1つの動機になったのではないか。
話はそれたが、山之手殿は昌幸に嫁ぎ、永禄9年に長男「信之」を、永禄10年に次男「幸村」を生んだ。
諸小説には気位の高い女として登場するが、
それ以前に毅然とした態度と気丈な一面がうかがえる諸説もある。
武田家滅亡時、真田の郷に潜んでいては危ないと感じた母子は、吾妻の岩櫃城に向かう。
その時、野武士らしき者に襲われたので、母は息子2人を気遣って、
「母はここで自害するゆえ、母の事は気にせず働かれよ。信之・幸村ともに岩櫃にて運を開かれよ」
といって自害しようとした。
幸いこれは味方の軍だったので事無きを得たが、この事からも御方が事に当たる時の毅然とした態度がうかがえる。
やはり子息を愛していたのであろう。
山之手殿は関ケ原の合戦の前に大阪城の人質となったが、
これは後に「河原綱家」(河原殿の兄の息子)に救出される。
関ヶ原の合戦後は夫の昌幸と共に九度山に配流、慶長18年同地で没した。
山之手殿の呼称は、邸が山の近くにあった為だと思われる。
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■追号は寒松院殿宝月妙鑑大姉
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山之手殿 よろず情報
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