上田城は、天正11年(1583年)に真田昌幸公によって造られた。
そして以後17年にわたって、我らがお舘様が守り通してきた平城である。
この城を得た事によって昌幸公は、上田盆地を中心に小県一帯から沼田にかけて、
晴れて、10万石の大名となったのでござる。
まことにもって、めでたき事でござる。
そして、この城こそ後世に語り継がれる名城として・・・、
いや、名城といっても造りの事を言っているのではござらん、
いや、造りだけ見ると天守も無いちゃちい城じゃが、
その城に大軍を迎え撃って、見事打ち破ってしまった、
真田の兵法を天下に知らしめた舞台となった城なのでござる。
さすが、我が昌幸公の城である。
しかし残念ながら、現在の上田城はところどころ復元されたものである。
実は関ケ原の後、一旦破却されたのじゃ。
そして仙石氏によって再建された。
今に残る3棟の隅櫓はこの時のものじゃ。
又五郎も昔の上田城の「風流」と「わび・さび」を伝えたいのじゃが、
その資料は、どこにものっておらん。う〜ん、至極残念じゃ。
◆しかたない、気を取りなおして現在の上田城を案内つかまつろう◆
(壷又ツーリスト主催/平成の上田城観光ツアー:草コース)
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まず、上田城に行きたいのであれば、
「じぇいあーる上田駅」をおりて、
北西に20分も歩けば到着じゃ。
江戸からじゃと、「新幹線」なるものがでており、
一眠りしとる間に着きよるわい。
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■上田城に着くと、正面に「東虎口櫓門」右に「北櫓」左に「南櫓」が見える。
ああっ、思い出すのぉ、昌幸公と共に敵を迎え撃って、
面白いように蹴散らしてくれた事をのぅ・・・。
あのときも、敵をこの正門に引きつけるだけ引きつけておいて、
櫓の上から矢と鉄砲で散々追い散らかしてやった。
おおっ、若き日の幸村公っ。
りりしきお姿でござる。
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もっとも、攻めてきたのが、
「徳川秀忠」
とかいう、はなたれ小僧だったから、
ぞうざも無い事だったでござるが・・・。
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■ところで、その門の横の石垣の中に、ひときわでっかい「石」が見えるじゃろう。
そう、それじゃ。
それが、真田石といってな、昌幸公が上田城を築く時、
「この石がある限り、上田城も盤石である」
と、大切に太郎山から切り出してきた石なのじゃ。
ま、一種の願懸けでござるな。
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■おっと、いつのまにそんなところに登ったのじゃ?
ここは、南櫓でござるな。
櫓の向こうに上田市街が見えるでござる。
櫓と市街の間には、尼ヶ淵と呼ばれる天然の堀があって、
この城を守る形となっており、従ってこの城は、「尼ヶ淵城」
とも呼ばれておったでござる。
それにしてもよい眺めでござるな!
昌幸殿もここが好きでござった。
〜〜吹きわたる風が心地よいでござる〜〜〜〜
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さて城内に、まいるとしよう。
城内には市民公園が作られていて上田の人々の憩いの場となっておる。
昔のお屋敷があった所じゃの。
それに加えて、現在は一つだけみょうちくりんな物があるでござる。
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■それがこの有名な「真田神社」でござる!
近づいてみなされ。
「・・・・それゆけ、強いぞ、真田十勇士〜♪」
ほら聞こえてきたでござろう、怪しげな音楽が。
そして、境内にはくぐれば賢くなる穴の空いた「べにあ板」が・・・。
おおよそ、神社には似つかわしくない雰囲気でござる。
催し物会場みたいでござるな。
一応、お守りも売っているでござる。
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更にその奥には、古井戸があるでござる。
一説によると、場外のどこかに通じている抜け穴らしいが、
本当かどうかは、謎でござる。
又五郎も使った事はないでござる。
おっと、忘れておったが、
櫓の中には真田家ゆかりの品々が展示されておる。
小博物館になっておるので、忘れずにまわられるがよい。
なお、この上田城に登城するには、
「 おとなで250文 ・ こうこうせいで200文 ・ こどもで60文 」
が、必要でござる。お忘れなきよう。
いかがでござったか?
それがしが、まず御仁に上田城を紹介したのは、
ここが、まさしく「真田」だからである。
まだ訪れてない御仁は、ぜひ足を運んでくだされ。
さすれば、「真田」に対して、より深い造詣を得られるでござろう。
それがしにとっては、上田城こそ天下の名城でござる!
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