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★ ・・・真田家を1とした時の戦力充実度 | ||||||||||
■ 村上義清 (1503 〜 1573) 信州の国人、葛尾城主。 幸隆公の時代に、「滋野一族の掃討戦」で信玄との共同作戦で攻められた記録あり。 しかし後に幸隆公は信玄と結び、これを撃退することになる。 ----- でたな村上義清・・・かなり強いぞ。なんせ信玄に2度の黒星をつけた男じゃからな。 戦をさせれば当代一であったであろう。 「村上義清、あそこはやばい・・・」が当時の信州の常識じゃった。 しかし、根が単純で無骨であった為、幸隆公の謀略に引っかかり重要拠点の砥石城を落とされた。 「あっ」というまに落ちた。本当にあっけなかったわい。無血革命じゃ。 そしてそれを境に衰退の一途を辿っていかれた・・・。 義清殿!簡単に讒言に乗ってはいかん!!部下を信用し過ぎじゃ。 あれだけのいくさ人でありながら・・・。ま、しかしそれが愛すべき一面ではあるのだけどね・・・。(^^ ■ 上杉謙信 (1530 〜 1578) 通称「越後の龍」・・・って改めて説明するまでもないと思います。 私欲よりは関東管領としての立場で行動した義将。 ■ 上杉景勝 (1555 〜 1623) 謙信の跡目争いに勝って後継者となる。腹心に知将として名高い直江兼続がいた。 ----- 幸隆公の時代には真っ向から対立しておった謙信公・・・。 戦場での切れ味は本当に鋭いものがあったのぅ。 当時家臣団の層の厚さと騎馬隊で古今無双の強さを誇った武田軍相手にほぼ互角の戦いをしておったからの。 真田家としては武田家に組しておったから、謙信とは幾度か渡り合う機会があったが、 とても正面切ってやり会える相手ではござらなんだ。(当たり前の事でござる^^;) が、しかし、そこは日本一の策略家幸隆公!! 縦横無尽に謀略を駆使して、上杉の諸城をものにしていったでござる。 信玄がいよいよ中央に向かって進出せんとした時も、 上州から関東にかけて蠢動して上杉家を牽制し、 後顧の憂いを断ったのは、何を隠そう我が幸隆公である! あの謙信公が「信州は真田がいる限り落とすのは難しいだろう」と嘆いたとか嘆かなかったとか・・・。 う〜ん、さすが我殿。 その後、武田家の庇護から外れた後(景勝殿の代)は、上杉家とは比較的友好関係を保っていたようでござる。 なんせ、徳川・北条の両勢力にどう対していくかという難しい問題を抱えておったからの。 昌幸公以降の真田家にとっては、やはり上杉家はうまくつき合っていくべき貴重な勢力であった。 ■ 織田信長 (1534 〜 1582) 「天下布武」を掲げ、天下統一の目前までいくが、最後に謀叛にあって夢ついえた武将。 昌幸が武田家の臣としての最後の時に、勝頼を守って対立しようとしたが、それも実現せず武田家は滅びる。 ■ 豊臣秀吉 (1536 〜 1598) ご存知天下統一したお猿さん。昌幸とは非常にうまがあった。 ----- 昌幸公は本当に勝頼を守って織田軍と戦うつもりだったのか・・・。 とにかく、勝頼殿は岩櫃には来られなんだ。今さら何を言ってもはじまるまい。 武田家が滅ぶと昌幸公は織田軍と講和を結ぶが、その直後に本能寺の変が起こる。 歴史が激しく動いた数年でござった。 後を継いだ秀吉にも早々に書状をおくって従属の意を表明したので、 真田家は豊臣家とは特に問題もなく友好関係でいられたようである。 囲むといっても、領土的には特に問題もなかったでござるからな。 ■ 武田信玄 (1521 〜 1573) 通称「甲斐の猛虎」。騎馬軍団を率いて当時日の本最強をうたわれた武将。 幸隆公は早くからこの素質をみとめこれに従属した。 ■ 武田勝頼 (1546 〜 1582) 実は非凡な才能の持主でありながら、武田家の滅亡にかかわってしまって評価が低くなってしまった悲将。 ----- 信玄公隆盛の時は本当によかった。家臣の層も充実していて、まさに天下統一にもっとも近い、もっともふさわしいお方だったのに・・・。 幸隆公も信玄公と共に天下を取ることを夢見ていたが・・・無念でござる。 この武田家の衰退が真田家にも大きな影を落としていったでござる。 拙者はこの信玄公がもう少し大胆だったらといつも思う。そしてもう少し長生きしてくれていれば・・・。 ■ 徳川家康 (1542 〜 1616) 通称「駿河の狸」。ちがうって(^^;織田家との同盟を結び、 武田と渡り合ってこれを食い止めた頃の家康は、まさに海道一の弓取りの名にふさわしい武将だった。 真田家とは特に深い関係を持っている。(^^; ----- 徳川家とは敵対度100%と書いたが、真田信之公以降の真田家にとっては忠誠を尽くした相手ではある。(^^; 100%とは、あくまでも我御殿昌幸公−幸村公を前提に話をした場合でござる。 豊臣政権後の徳川家康はその秀吉と互角に渡り合えるほどの勢力であるから、これに近い真田家としても 当然無視することの出来ない勢力でござった・・・・が、どうやら昌幸公は家康とはどうにもそりが合わなかったようでござるな。 理由はござらん!ただ家康という男がどうにも嫌いだったと拙者は思っておる。 それを決定的にしたのが、沼田城をめぐる処置であった。 北条と対立していたがため同盟を結んだのに、勝手に北条と講和して沼田城を北条に渡せなど笑止千万!! おのれ東海の狸じじいごときが、なにをほざくか!!!と、怒気を発した昌幸公を見て、つぼやもさすが・・・と感服したでござる。 そして、後は皆もご存知の通りである。弱小勢力でこの大大名相手に最後まで一歩も引かなかったのは、さすが我殿様でござる!(^^ ■ 今川氏真 (1538 〜 1614) この人って結構長生きしてたのね。(^^; >76才! ----- まあ、囲むといっても昌幸公の時代には殆ど衰退してたからなぁ。 その後、直接どうこう有った分けではござらん。あまり書く事もござらん。 しいて言えば、今のサッカー王国『静岡』があるのは、この人のお陰か? ■ 北条氏政 (1538 〜 1590) 名将北条氏康の後を継いで関東に君臨した武将。 であるが、ついには小田原を秀吉に包囲され降伏を余儀なくされた。 最後まで時代の趨勢を読めなかった人。 ----- 北条家との確執の根もそうとう深いなぁ。上野の国をめぐっての争いは、信玄配下の時からずっと続いてるでござる。 武田・上杉を敵にまわして戦うその戦力は強力で、真田家単独で戦える相手では当然ござらん。 しかし、その時の勢力関係を豊富な諜報網で探り、その中でうまく立ち回って最後まで沼田の城を北条に渡さなかった。 (秀吉にいわれるまで) 北条勢なんとするものぞ!である。結構有力な家臣も多かったのに、最後までまとめきれなかったなぁと思う拙者でござった。 ★我が真田の御殿は、この大勢力にも決してひるむ事はなかったでござる。
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Last up 1999/07/10 | ++ つぼやレポート 真田を囲む他勢力 ++ |