真田伊豆守信之
真田伊豆守信之
武士19 1966年に真田昌幸の嫡男として生まれる。母は昌幸の正室山之手殿。幼名は源三郎
元服するまでの間、昌幸とともに信玄旗下のもと甲府に住んだと思われる。元服して信玄の一字を拝領し、信幸(後に信之となる)と称した。1982年、信之16歳のとき、天目山で武田勝頼が自害し、武田家が滅亡する。昌幸とともに上田に入った信之は、その後数年の激動の時を上田で過ごすことになる。特に天正13年(1585年)、前年の小牧・長久手の戦いで秀吉の軍勢を破り、当時天下最強の名声高かった徳川軍を迎えての第一次上田合戦では、父昌幸とこれよく協力し、見事これを打ち破っている。

その後、秀吉と家康が和睦した為、秀吉の仲介で家康とも和睦する。

家康と和睦した昌幸は、本意ならずも信之を徳川家に出仕させることになる。
翌天正14年頃(1586年)、信之の生涯を決める縁談が組まれた。その当時、徳川四天王の一人として圧倒的存在感を放っていた徳川家の重臣本多忠勝の娘小松姫を正室に迎えたのである。これが後の真田家にとって、いわゆる世に言う二分の計になろうとは、このときの昌幸、信之ともに思ってもいなかったであろう。このときを境に…昌幸の胸のうちにまだ反徳川の火種が消えることなくくすぶっていたのに対し、信之は小松姫そして父本多忠勝を通じて、徳川家の家風に接するにつれ、親徳川として傾倒していくのである。

徳川配下の武将となった信之は、
■1890年、小田原攻めの後、家康の関東移封とともに沼田城主となる。
■1894年、信之29歳のとき、従五位下伊豆守に任官される。

十数年にわたって家康への忠節を体現する。
このとき培われた家康の信之に対する信頼は、終生厚かったと思われる。

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そんな中…慶長5年(1600年)、いよいよあの出来事が起こった。勿論関ヶ原の戦いである。
詳細は皆さんご存知の通りなので省くが、石田三成が大坂で兵を上げたまさにその時、真田家は昌幸、信之、幸村共に、家康の号令で会津(上杉)征伐の道中犬伏の宿にいた。三成からの密使を向かえた三者の意見は真っ向から割れた。意見は最期まで交わらず、ついに信之は岳父忠勝、徳川家に忠誠を尽くすことを良しとし、父と幸村は三成に運命を託した。

信之はすぐさま忠勝にこのことを伝え、秀忠軍とともに中仙道を西上することになる。
家康はこの信之の行動がよほど嬉しかったのだろう。
 
「今度、安房守別心のところ、その方忠節を到さるの儀、誠に神妙に候。然らば、小県のことは親の跡に候の間、違儀なく遣はし候。その上、身上何分にも取り立つべき条、その旨を以って、いよいよ如在に存ぜらるまじく候。仍って件の如し」
 
上の安堵状を出し、何があっても取り立てることを約束している。

道中、上田城に篭る真田父子と対峙する。この第二次上田合戦で…信之は支城戸石城を攻めこれを落とすが、秀忠軍全体としては昌幸、弟幸村の軍略にまんまとのせられ、局地戦で敗北。いたずらに時を浪費し決戦に間にあわなかったのは、皆の知るところである。

しかし結果は…
三成は敗れ父と弟は九度山へ流され、信之は約束どおり沼田とそれまでの父の所領上田もあわせて九万五千石を与えられた。
このとき信之は、それ以外の褒賞と引き換えに父弟の助命を嘆願し、これを許されている。

1603年、徳川政権が成立する。

そして…
父昌幸は九度山配流生活のなか、慶長16年に亡くなった。 そして弟幸村は、それから3年後「大坂夏の陣」で、大坂城に散った。 その間、信之は九度山に援助をしつづけ、父弟の罪を許されるように嘆願も行ったようだが、それは叶わなかった。
大坂の陣で、病床の自分の代わりに息子河内守信吉を出陣さた信之の心情は、いかばかりであっただろうか…。

犬伏の別れから15年。
信之が父と弟にかけた親族の愛情は結実することなく、大坂の空に消えていったのである。


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信之はその後、この時代にしてはめずらしい長寿の生涯をまっとうする。
しかしその心中はけっして穏やかではなかったであろう。

■1620年、小松姫が死去。
■1622年、上田から松代へ移封。そのときに長男信吉を沼田藩主に据える。
■1656年、松代藩主の家督を信政にゆずり隠居。

1615年以降、嫌がらせのような松代移封など徳川幕府からの数々の苦渋の命令にも耐えた信之は…
 
「もはや浮き世にいらぬと存じ候へ共、子供のためと存じ、露の命の消えぬまでとて、世を渡り、あさげの煙心細さ、御押測りて下されべく候」
 
小松姫を無くし、先祖遠来の地を離れることになったその苦しい心境を、ある手紙にこう書き綴っている。

そして、1658年10月17日…信之は93歳の生涯を終えた。


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★さきに書いた書簡の相手こそ信之と親交の深かった京の風流人小野のお通であった。信之を語る上で、小野のお通の名は忘れてはならない。



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 信之公についての逸話
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慶長7年(関が原の2年後)の春のことです。信幸公は領内巡察を行い、須川・新治村湯宿温泉に入湯に行きました。
それを聞いた村人達が娘を一人連れてきました。
「この娘は林将監どのの下女なのですが、狐に浸かれて困っております。お助けください。」
そこで信幸公が顔を見せると狐は離れ娘はすっかり元通りになった。
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出典は「真田氏と上州 みやま文庫 P120」
上尾殿よりの情報!有難う御座います。(2004/10/18)






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