■真田源太左衛門尉信綱 ・・・武田24将で野戦・奇襲戦を得意とした実戦の将
真田幸隆の長男。 武田二十四将にその名を残す勇将でありながら、その人物についての文献はあまり残していない。
初陣の記録は残ってないが、永禄4年の川中島の合戦にその名を見る事ができる。
その後、信玄の一将として各地を転戦。
北条攻めの時、三増峠の合戦二ヶ月後に、信玄より一徳斎・信綱あて名連名で感状を受けている。
信玄が没した後、後を継いだ勝頼からも信頼は高く、重要な作戦には必ず参加している。
野戦、奇襲戦はもちろん、特に城攻めには抜群の手腕を発揮した。
長篠の戦には武田軍の右翼として馬場隊と共に、敵将の佐久間信盛、滝川一益らと決戦。
信綱は青江貞次の三尺三寸の陣刀をふるい首級16級をあげる。
一の柵を突破し、二の柵に迫るが乱戦の中に鉄砲を受け戦死する。
根津、滋野ら諸将もほとんどが討死にし、信綱の首級は徳川方の渡辺政綱が挙げたという。
その首は陣羽織に包まれ、信綱寺(真田郷)に収められた。
生来寡黙で有言実行型の豪勇の士であったと思われる。
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■法名は信綱寺殿天室道也大禅定門
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信綱公 よろず情報
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信綱の墓は、信綱寺以外に設楽原合戦場跡の山中にもある。
ただし発見難し(笑)案内MAP必須。 (2004/01/10)
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1537(天文6年) |
真田幸隆の長男に生まれる。
生地は小県郡真田郷。幼名は源太。
母は河原氏(海野氏の重臣河原隆正の妹)。
初陣は不明。
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1561(永録4年) |
川中島の合戦に父の一徳斎と参戦。
飯富隊、馬場隊とともに妻女山に向かう。
同年、岩櫃城の攻城戦にも参加。
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1568(永録11年) |
駿河侵攻に昌輝と兄弟で参戦。
『信玄公の先衆は、山県三郎兵衛、馬場美濃守、小山田兵衛尉、小幡上総守、真田源太左衛門、同兵部介、内藤修理少、七頭江尻をこし宇八原まで旗さきみゆる』 (甲陽軍鑑)
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『真田源太左衛門、旗色黒く四方二百騎、真田兵部五十騎』 (甲陽軍鑑)
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1569(永録12年) |
三増峠の戦いで戦功を残す。
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1572(元亀3年) |
三方ヶ原の戦いに参戦。
この時、軍団編成で名誉ある先陣を命じられる。
三方ヶ原では期待どおり徳川軍を撃破した。
この頃、幸隆から家督を相続したものと思われる。
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1574(天正2年) |
幸隆病死。
遺領を継いで真田郷松尾城主となる。
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1575(天正3年) |
長篠の合戦に兄弟で参戦。
同戦いにて戦死。享年39才。
『武田の右軍の魁首馬場美濃信房・・・次の真田が一党、土屋一条穴山等、伍を乱さず段々に進み来る』 (参州長篠戦記)
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『真田信綱、同信輝兄弟・・・柵を破り、自ら敵兵数輩を討ち取り、重創を蒙り、兄弟一緒に戦死す』 (真武内伝)
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