幸村の娘達
幸村の娘達 ・・・それぞれの生涯を生きた7人の女子

姫1 長女
母は「堀田作兵衛の妹」で「すえ」とも名乗った。上田で生まれる。 菊はその後、作兵衛の養女になるが、その作兵衛が大阪の陣に出陣した際、 妻と菊を佐久群長窪村の「石合十蔵」に預けた。 作兵衛は夏の陣で戦死、その後菊は石合十蔵の妻となる。

姫2 次女
母は「高梨内記の娘」で、上田に生まれる。 祖父である高梨内記は、真田親子に従い九度山に入り、大阪夏に陣・茶臼山で戦死した。 同じく菊も九度山に配流の時、親・祖父とともに九度山に入る。その後この地にて病死する。

姫3 三女
母は「高梨内記の娘」で、九度山に生まれる。 父幸村とともに、九度山から大阪入城となった。 大阪落城の際、伊達家家臣の「片倉小十郎重長」に託され、後に重長の後妻となる。 「城中より16・7才ぐらいの容顔美麗なる女性が白綾の鉢巻し・・・」 とその時の様子が伝えられる。 しかし一説には、滝川三九郎一積(昌幸の娘婿)に預けられ、後に片倉家に遣わされたとも・・。
小十郎は幸村の娘と分かると「名将の娘を娶る事は名誉な話」と幕府の目も憚らず此れを室とした。 小十郎の器量が感じられる話である。この時、菊17才。 ともかくこの夫婦は生涯仲睦まじく過ごしたという。 この縁で、幸村の旧臣が何人か片倉家の家臣となった。 また後には、片倉家一門の人が家紋を六文銭にかえたという話も残る。
菊は片倉家をよく盛り立て、1681年に78才で白石城でなくなった。 白石市当信寺には弟「大八」とともに、その墓が有り、私が行った時にはパパイヤが供えられていた。(功明殿す、すいません)

姫4 四女 あぐり
母は「竹林院」で、九度山に生まれる。 大阪の陣の時、幼少であったあぐりは滝川三九郎一積(昌幸の娘婿で滝川一益の孫・この時は徳川家の使い番)に預けられ、 大阪の陣後に彼の養女となった。 三九郎はその後、三春城城主・蒲生郷成の息子「蒲生源左衛門郷喜」にあぐりを嫁がせた。 後年になって、その事(敵将の子孫をつなげた)が元で幕府より改易を受けるが、 三九郎は幕府の度量の狭さを笑ったという。

姫5 五女 なお
母は「三好秀次の娘」で、慶長9年に九度山で生まれる。 大阪落城の際、母子ともに秀次の母(豊臣秀吉の姉)「瑞龍院日秀」の元(京都)に逃れた。 その後なおは、佐竹義重の四男「岩城宣隆」に嫁ぎ、御田(おんだ)姫と呼ばれる。 そして一子「重隆」を生み、礼儀作法など厳しく教育して名君に育てあげるが、寛永12年32才で早世した。 法号は顕性院殿妙光日信大姉。

姫6 六女 菖蒲
母は「竹林院」で、九度山に生まれる。 大阪落城の際は、母とともに紀州伊都郡に潜んでいたと思われる。 一旦は捕らえられるも釈放になると、三女梅に引き取られて、伊達家家臣の「田村定広」(後に片倉に改姓)の内室になる。 寛永4年に没した。

姫7 七女 かね
母は「竹林院」で、九度山に生まれる。 大阪落城の際は、母とともに紀州伊都郡に潜んでいたと思われる。 後に、茶人「宗休」(もとは石川備前守貞清という武士が関ケ原で浪人)に嫁いで、京都に母・竹林院と3人で暮らした。 宗休は京都大珠院に幸村夫妻の墓を建てている。




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Last up 2000/04/26
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