昌幸の長女で信之・幸村の姉にあたる。生年、生母は不明。
村松様と呼ばれたのは、越後の国村松郷に居住したからともいわれる。
夫は「小山田壱岐守茂誠」。
父である備中守昌辰は、天正10年、高遠城にて織田信長の軍を迎え撃った勇将。
城主仁科盛信とともに奮戦するが、同城にて討死にを遂げる。
武田氏滅亡後は夫と共に真田家に従属し、大阪の陣ではその子主膳(小山田之知)は、
東軍の真田の一将として参戦している。
幸村は冬の陣の後、姉の村松殿に宛てて手紙を書いており、
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「この度は思わず大阪方に参戦する事になりました。
まだ死なずに済んでおります。会ってお話したいものです。
明日はどうなるか分かりませんが、今の所は何事もありません。
主膳殿にも会いましたが、ゆっくりお話する事もなかなか叶いません。
こちらは何事もなく過ごしていますので、ご安心下さい。
もう少し詳しく述べたいのですが、此者が待ってますので早々にしたためました」
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と申し述べ、このやさしい姉を気遣い、さらに返書を送ってきた姉に対してもう一通の手紙も書いている。
また、信之も松代移封の際、
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「こちらから連絡しなければと思っているところ、お手紙を頂戴いたし、まことに失礼しました。
こちらを拝領いたし、あたふたと移転した次第です。良い所ですからご安心下さい。
また、ぜひともお目にかかり・・・云々」
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と、村松殿からの手紙に返書をしたためている。
この弟2人の姉に対する手紙から想像するに、村松殿は、姉として常に弟を気遣った、実に心優しい女性であった。
村松殿は、寛永7年6月20日に没した。
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■法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉
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村松殿 よろず情報
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