◆◆◆◆◆ 天下に轟く「信州上田に真田あり」   安房守/昌幸 ◆◆◆◆◆


真田昌幸
真田 安房守 昌幸
sanada awanokami masayuki
(1547〜1611)


活動拠点
主だった城

友好
敵対




上田・吾妻・沼田・九度山
上田城・砥石城・岩櫃城
沼田城・名胡桃城
武田・織田・豊臣
北条・徳川


− 昌幸公経歴 −
1547 ( 1) 昌幸公誕生!!!!!!
1553 ( 7) 信玄公のもとへ人質にいく(武藤喜兵衛と名乗る)
1561 (15) 川中島の戦に参戦・・信玄の近習として (信玄 武田信玄 vs 謙信 上杉謙信
1566 (20) 信之誕生!
1567 (21) 幸村誕生!
同年 (21) 信玄公旗下で足軽大将となる
1569 (23) 三増峠の戦に参戦・・一番槍の戦功 (信玄 武田信玄 vs 北条 北条
1570 (24) 駿河花沢城攻撃に参戦・・二番槍の戦功 (信玄 武田信玄 vs 北条 北条
1573 (27) 武田信玄死去
1574 (28) 父、幸隆死去
1575 (29) 兄、信綱・昌輝死去(長篠の戦)
同年 (29) -- 家督を継ぐ --
1576 (30) 岩櫃城を配下におく
1579 (33) 沼田城を抜く (真田 真田 vs 北条 北条
1581 (35) 沼田景義、海野兄弟を謀殺
1582 (36) 武田氏滅亡(織田→北条→徳川と従属する)
1583 (37) 上田城を築城する
1585 (39) 上杉→秀吉と従属する
同年 (39) 神川合戦(第一次上田合戦) (真田 真田 vs 徳川 徳川
1586 (40) 秀吉の命令で徳川に属す
1589 (43) 秀吉の命令で沼田城を北条にわたす
同年 (43) 名胡桃城事件がおこる
1590 (44) 小田原の役に参加、沼田城を安堵される
1592 (46) 朝鮮の役で肥前名護屋城に在陣する
1594 (48) 伏見城普請に参加
1598 (52) 豊臣秀吉死去
1600 (54) 再び秀忠を迎え撃つ(第二次上田合戦) (真田 真田 vs 徳川 徳川
        関ケ原の戦いで西軍が敗れる
同年 (54) 九度山に配流となる
1611 (65) 九度山にて死去
 合戦記録
 子息の誕生
 転機となった人物の死去


武士18(253バイト)
さて、いよいよ我殿、「昌幸公」についてじゃ。
昌幸公こそ真の日の本一の殿様でござる!
思い出すのう・・上田での出来事の数々
某の青春も上田にあったでござる



話の前に、ちょっとこちらを見て頂こう。

大きな流れ真田家出来事同盟(友好)敵対
1574 長篠の戦

1582 武田家滅亡



1585 北条と徳川、和睦


1586

1590 小田原の役



1600 関ヶ原
家督を継ぐ

織田に従属の意志(同年・本能寺の変)
合わせて北条にもつく(vs上杉)
徳川につく(vs北条)

沼田城開城に反抗、上杉をたよる
秀吉に仲介をたのむ

秀吉の命令で徳川、北条と和睦

沼田開城、名胡桃城事件

(豊臣政権下が続く・・・)

西軍につく
武田

織田
北条
徳川

上杉
豊臣

豊臣徳川北条

豊臣徳川



三成
北条上杉


上杉徳川
北条

徳川北条




北条



家康


この表は、

「 昌之公がいかに大大名に対して政略を行なってきたか 」

を分かりやすく示した表じゃ。


当時の世の中は、小大名は大きな勢力の後ろ盾無ければ、
やっていけなかったでござる。

当然、昌幸公もその一人で、しかもその頃の真田家には、

上杉景勝
北信越方面に 「上杉
織田信長
美濃方面に 「織田
徳川家康
東海方面に 「徳川
北条氏康
関東方面に 「北条
(どうじゃな、このそうそうたる顔ぶれ)

と、なんと回りを「強力」大名が取囲んでいたでござる。

うーん、かなり難しい状況におかれていたことは確かじゃ。
幸隆公の時みたいに、一大名のもとでひたすら天下を目指した、
事はそう簡単ではないのでござる。
(やはり、主家武田家の滅亡は痛かったでござる)

したがって、表を見てもらえば分かるでござるが、
昌幸公は、武田滅亡後めまぐるしく主家をかえて立ち振る舞われておる。
かなりの苦心の跡が伺える立ち振る舞いじゃ。

しかし・・・
わしは密かに思うのじゃが、
これが単なる生き残り戦略の一つだけではござらんのではないか?
無論、節操が無いとかそういう類でもござらんよ。
ではこれは、なにを意味するのか・・・?

実は、某ここに昌幸公らしい素晴らしい資質を感じるのじゃが、
そなたは、いかように感じられるか?






◆◆ 武藤喜兵衛 ◆◆

昌幸公は1547年、幸隆公の三男としと誕生した。

幼少の頃を父母のもとで過ごした昌幸は、
7才になると信玄のもとに人質として預けられ、
当時、絶家となっていた甲斐の武藤家の名を継いで
『武藤喜兵衛』と名乗った。
そして、29才の時、家督を継ぐまで、武田家の臣として、
その才能をいかんなく発揮するでござる。

まぁ、人質時代といってもその生活に暗いものはなく、
名将信玄の元で比較的のびのびとその才能を養っていったでござるな。




(それではここで、その経緯を少し述べるでござる。)

■信玄公はまず、人質となった昌幸公を近習に取り立てた。
さすがは信玄公でござるな!
早くから昌幸公の才能を見抜いていたでござる。

近習に取り立てられた昌幸公は、
初陣を川中島でむかえることになるでござる。

1561年、当年15才になった昌幸公は、信玄の小姓としてこの戦に参加し、
信玄の本陣が切り崩された時、
『庄机を立てられたる場を少しも立ち退かず・・・』
と「甲陽軍艦」にもかかれている通り、
最後まで信玄を守って奮戦した。

真田昌幸(560バイト)
『まさに無我夢中がしてのけただけの話じゃ。 信玄公には普段御厚遇を賜ってる故、この時戦わずしていつ戦うのじゃ?』
(さすが昌幸公・・・)


■昌幸公は、その後も土屋平八郎殿らと共に重用された。
奉行にも取り立てられ、歌会での給仕もつとめたりした。
勝頼の嫡子が誕生した時には、その使者として高遠城に赴いた。
これが、1567年頃の話でござるが・・・

実は拙者にとっては、そんなことよりももっと重大な事件があった。
それはね・・・・そう!幸村公が誕生した事である!!!
過去を振り返る時、この男子の誕生は本当にめでたい事にござった。

そして幸村の誕生で2男1女の親となった昌幸公は、
この年足軽大将に昇進する。
甲陽軍艦に、
『武藤喜兵衛 騎馬十五騎 足軽三十人』
とあるのが、それでござる。

子供も産まれて、武将としてもいよいよ名を売らんとした時に、足軽大将に昇進!
まさに、前途洋々、順風満帆の喜兵衛殿(なんか違和感^^;)でござった。


■1596年は、武田家が大きく動いた年でござった。
甲相駿同盟が破れ、武田軍は駿府に進入し今川家を追ったが、
これを黙認できない北条家に対し、当然の軍事衝突が起きた。

信玄は北条の小田原家を囲むべく出兵されたが、
この侵攻は大きな成果を得られず退却することになるでござる。

10月、退却途中に追撃してきた北条勢と戦となった。
この場所が三増峠でござる。
昌幸公はこの時、馬場春信隊の中にあった。

検使の役割を担っていた一方で、昌幸公はこの戦いで、
昌幸(1,359バイト)
『一番槍の戦功』
を、立てた。
戦場での機微を見極め、積極的に北条軍に突き込んでいった。
後年の軍略家としての昌幸公が見せた、若き日の勇姿でござる!

さすがでござる・・・。

真田昌幸(560バイト)
『この武田家での戦の一つ一つが、この昌幸の血となり肉となって後の真田家を守ったのじゃ』


■その翌年の駿河花沢城攻撃にも参戦した昌幸公は、
その戦いでも二番槍の武功を立てた。
その戦いの中、信玄が発した言葉に、
信玄の昌幸に対する評価が伺えるので紹介するでござる。

北条氏政と対峙した信玄に、馬場春信が声をかけた。
「敵の陣形などをもっと調べた方がよいのではないか?」
すると信玄は落ち着いた表情でこう語った。

『心配せずとも、それについては
"我が両目のごとき者"
を物見につかわしておる』


この両目のごとき者の中の1人が、昌幸公でござる!
これは、昌幸公がいかに信頼されていたか、
それに対する最高の賛辞とつぼやは思うでござる!





父と二人の兄と一緒に、"最強"信玄のもとで
まさに天下に向けて進もうとしていた昌幸公だが・・・。

1572年、三方ヶ原で真田家の行末を左右する事件が起こった。
そう、信玄公の死去でござる。この巨星「信玄」の死が、
真田家にとっても暗い影を落とすことになる。






◆◆ 激動の時代 ◆◆

1573年、信玄が亡くなってからの10年は、
まさに激動の時代でござった。

簡単に流れを追うと、信玄の後を継いだ勝頼は、「父に続け」と再び家康と対峙する。
また、真田家もこれに追随するが、翌1574年には父幸隆公が没してしまった。
家督は一旦長男の信綱に譲られたが、その翌年にあの"長篠の戦"がおこる。

この戦いで・・・
武田家は重臣の多くを失い、真田家も当主信綱、
次男信輝の両勇将を失ってしまった
両家にとって実に手痛い敗戦である・・・。

その後を継いで、名を武藤喜兵衛から真田昌幸に改め、
真田家の当主となった昌幸公であったが、
この時点でもはや武田家に一時期の隆盛はなかったでござる。




しかし、昌幸公には一つの思いがござった。
信玄公に仕えて以来、その才能を高く評価してもらい、
重要な役割を任せてくれた昌幸にとって・・・
また、武田軍の軍略と治世の凄さを肌で感じていた昌幸にとって・・・

『武田家ある限りはこれと命運を共に

の、決心は当然の事として受け止めていたでござる。



■気を取直した昌幸公は、本領を継いで本拠を砥石城においた。
そうしておいて幸隆公以来の任務を受継いで、再び上州攻略に乗りだす。

1576年、ちょっとした事件が起きた。
幸隆公の時落とした時に任命した岩櫃城の城代斎藤憲実が、
その補佐役海野長門守・能登守の兄弟に城を逐われたのでござる。
しかし、その他の家臣の反発が思ったより強かった海野兄弟は、
昌幸に庇護を求め、昌幸はこれを受け入れて改めて城代に任命した。
これで真田家は岩櫃城を手に入れる分けだが、
後にこの海野兄弟は昌幸公によって謀殺される・・・。

うーむ、この辺、
なにやら謀略の匂い・・・。


ともかくこの事件で昌幸公は、
岩櫃城』を、手に入れた。



■つづいて1579年に、昌幸公はかねてよりの目標であった、

『 沼田城 』

の攻略を目指すことになるでござる。

沼田城は越後関東平野を結ぶ要害の地にあり、
謙信が関東に進出する際の拠点となった城でござる。
当然北条もこの城をめぐって古くから謙信と対峙していた。

さて、その沼田城・・・
当然謙信の目の黒いうちは近づける城ではござらなんだが、
その謙信が1578年に没した

その後上杉家は跡目を争って、2つに分かれることになった。
一方の当人である上杉景虎は、北条家からの養子であるから
当然実家の北条家にも応援を頼むことになる。
これに呼応して沼田の上杉勢も2つに分かれたでござる。

その年の5月、沼田城は北条家の手に落ちた。
そして城代を藤田信吉・金子美濃守らに任命した。
景虎を援護する為だったが、残念ながら景虎は敗れ、
上杉家の跡目争いは景勝の勝利となったでござる。

そうなると、今度は分が悪くなるのが沼田城の北条方でござる。
さて、今後の行末をどうしようか・・・



昌幸公はこれらの一連の動きをじっと静観していた。
そして、ある夜拙者にこういったでござる。

真田昌幸(560バイト)
『時は熟したな。藤田信吉・金子美濃守らには事前に手は打ってある。 矢沢頼綱に攻めさせる一方、懐柔作戦も合わせておこなう両面作戦でいく』


この、昌幸公の策略は見事はまり、まず金子美濃守が、
次いで藤田信吉が真田家に降ったのでござる。


こうして1579年上州の要害"沼田城"
真田家のものになった。






■しかし、局地的な戦では勝利をおさめはしたが、
戦局は武田家・真田家にとって好転はしなかった。
上方では、いよいよ織田の勢力が強固になり、
もはや武田攻めは目前に迫っていたのでござる。

そしてついに運命の時、そうあの1582年を迎える。
お江も又五郎もそして日本中が震えた瞬間でござる。



この年、織田信長は武田を攻めた。
木曾義昌・穴山信君の離反があった。
高遠城では、仁科盛信が獅子奮迅の抵抗を続けたが、
それもついに力尽きた。

悲運の武将、武田勝頼はついに追い込まれた。

真田昌幸(560バイト)
『もはやこの新府城にとどまりおく事はままなりません。 ここは一旦それがしの岩櫃城にお退きになれば、いかようにもお守りいたす』


決して大言壮語ではござらん・・・
幼少の頃より信玄に可愛がられ、武田家の行末を心より按じておった
昌幸公の本心でござった。


しかし・・・
一旦は決しかけたこの提案もついに実現する事なく・・・
3月11日、武田勝頼は天目山に自害して、武田家は滅んだ
家臣の小山田信茂に裏切られての無念の自刃だった。

『黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消る 露の玉緒』
(勝頼夫人時世の句)

勝頼は、夫人そしてその子供達と一緒に果てた。
真田家はここに長年仕えてきた主家を失うのである。



が、同年・・・
いよいよ天下統一を目前にして、その織田信長本能寺に滅した
日本全体が震えた瞬間である。

激震!日本列島


昌幸公は無念の思いを心に秘めるも、はやくも
この難しい政局に対峙する事になったでござる・・・






◆◆ 昌幸公の本心 ◆◆

さて、ここからの数年は前述したとおりじゃ。
数年の間に同盟国をめまぐるしく変えていく昌幸公でござる。

まず、北条に従属の意を表わす。
次いで織田についた。滝川一益の与力となる。
(しかし、同年本能寺で信長が死亡)

川中島に上杉がおしてくると、上杉にも恭順の意。

上杉、北条に対抗する為、徳川を頼る。


徳川家康
この時、徳川家は、東海の強力大名に成長しておった。
昌幸公も武田家の次に頼むべき主家を模索しておった。
だから一時は「され、徳川殿こそは・・・」
考えておった時期もござったが・・・

真田昌幸(560バイト)
『あの時、もう少しこの昌幸を頼みに思うてくれたなら、 その後は徳川家の為に尽力したものを・・・』


そう、どうも今一つ徳川殿の態度はにえきらなかった。
真田家は信州小県にあって、武田家の中核をなす家臣であった。
今までのこの地における仕置きをみても、
信濃における真田家の重要性を当然把握してあるはず・・・。
しかし、

「真田・・・表裏のある者、油断なきよう、
うまくコントロールしながら使ってやろう・・・」




家康公の本当の心はわからない。
しかし、洞察力の優れた昌幸公の心に警鐘が鳴った。
この時、昌幸公は家康公の言動の節々に、
軽い嫌悪感反発心を抱いたのでござる。

上田築城一つをとっても、なかなか色よい返事をしてこない。
「徳川の為に上杉対策にあたるのだ
どうしてそれが分からない・・・」
忸怩たる思いの昌幸公でござった。


そうした中、天正11年(1583)ついに築城の許可を賜り、
昌幸公は念願の上田築城にとりかかるでござる。
そして翌天正12年、上田城完成にこぎつけ、
上田城「東虎口櫓門」(2,373バイト)
昌幸公は上田盆地を中心にした城を確立する運びとなった。

まことにめでたき事でござった。
城内にもホッと一安心の空気が流れたでござる。
だが、しかし・・・




事態はさらに急変をみせる事となる。
家康は豊臣秀吉との交戦を前にして、
それまで敵対していた北条軍と講和したのである。

北条と争っていた真田家は、当然旗色が悪くなった。
それだけならまだ許せたが・・・




その講和条件の中に勝手に書かれていた条文を見て、
ついに昌幸公の闘争心に火がついた


家康の密書


真田昌幸(560バイト)
『・・・・どういう了見か知らんが、徳川ごときが大きくでたものよのぅ。 この真田も甘く見られているようだ。家康の魂胆は見えたわ・・』


・・・・・又五郎は、この時の昌幸公の眼光を、生涯忘れない。






◆◆ 第1次上田合戦 ◆◆

天正12年(1584年)、家康は秀吉と「小牧・長久手」で対峙し、これを破った。
家康、いよいよ意気軒昂たるものでござる。

氏政「それでは約束の沼田の地、我らに引き渡してくだされ」
家康「うむ・・・そうであったな。では真田に使いをよこそう・・」




明けて天正13年(1585年)、昌幸公の転身の決断は、誠に切れ味鋭いものでござった。

それまで敵対していた上杉景勝にさっと恭順の意を示さば、
次男幸村を人質として差し出し、後方の安全と援軍の要請をこれに頼んだ。
景勝は苦笑しながらも、

「致し方あるまい・・今後は表裏なく上杉に仕えるよう」

信玄公以来あれほど煮え湯を飲まされてきた真田家に、寛大な構えをとった。
これは、対徳川牽制の意もあったが、なによりも真田、そして昌幸という
信州におけるこの小豪族の力量を、景勝公は軽んじてはいなかったのでござる。

(一方、景勝の元に置かれた幸村であったが、さすが景勝公!
この時よりすでに幸村の器を看破し、これを可愛がったと思われる。
その証拠に、幸村は人質時代に景勝より埴科郡の所領を与えられた)

そうしておいて、
いよいよ家康への対応でござる。

「沼田領、これすみやかに北条に引き渡すべし」
「代替えの地は決まり次第、別途連絡の事」


こういってよこした家康の使者に対し、

真田昌幸(560バイト)
『これは異なる事をおっしゃる。沼田はどの主君から下されたものにあらず・・ 我らが手柄にて獲得したる土地。さらには北条から徳川家にくらがえしたる折の 恩賞の約定も果されておらず、とてもそんな命令は承服いたしかねる。 この事、帰って家康公によくよく伝えるべし』

では、この又五郎が行間をお伝え候!

真田昌幸(560バイト)
『先祖の頃より我が血を流し勝ち取ってきた沼田領なれば、 おのれ徳川ごときに指図され北条に渡すなど片腹痛いわ。 そちらの出方によっては頼みにならんと思うておったが、 小牧にてちょっと秀吉を破ったからといって、調子に乗るなよ。 おのれらごときに、この真田がやれるものならやってみるがよい』

実に痛快極まりない言上でござる!




これには家康、さすがに激怒した。
片田舎の一小豪族の分際で、家康の・・
しかしやや無理難題ともいえる命令を突っぱねたのでござる。
家康としてもこれを捨て置くわけにはいかない。

「真田が何を勘違いしたのか、刃向かってきおった。
すみやかにこれを排除するべし!」


家康は総軍勢8,000人を編成し、信州小県にむけ進軍を開始した。
時、天正13年8月の事でござった。

この軍勢に加わった徳川方の武将は、
平岩親吉、大久保忠世、鳥居元忠の3人。
いずれも徳川歴戦の勇であり、上田に到着した諸将はこの城を見て、
「3日ともつまい・・」と侮った。




しかし、一方で昌幸2,000の兵は・・・
奢りもせず、焦りもせず、じっと戦局をうかがっていた。
準備に抜かりはない。

真田昌幸(560バイト)
『徳川軍は大軍の利があろうが、こちらにも地の利がある。 あとは、かさにかかってくるだろう徳川軍の出鼻をいかに叩くか・・ 臨機応変に兵を動かす事かなうなら、4倍の敵を城に引きつけてこれを打ち破ることなど、ぞうざもない事。 数日後には天下に真田の名が轟いておろうわい』

昌幸公の面上に不敵な笑みが浮かんだでござる。



徳川家康 真田昌幸
《徳川×真田》

国分寺あたりに進軍してきた徳川軍の情報を聞き取った昌幸は、
かねてよりの計画どうり、本丸に500の兵を残し、
300の手勢を信之に与えて神川の辺まで進出させ、
残りを町家に伏兵として潜ませた。

真田昌幸(560バイト)
『よいか信之。分かっておろうが、一攻めぎあいしたら兵を退いてまいれ 気取られてはならぬが、深追いしてもいかぬ。その頃合いを見計らうが肝要』

つまり、相手をいかに上手く誘い込めるか・・
これにすべてがかかっていたのでござる



果して・・・
戦局は昌幸公の思惑どうりに運ぶ事に相成った。

まず神川を挟んで信之がしかけた。
寡兵での挑発的な行為に、怒った徳川軍が
続々と渡河し、信之の軍勢に襲いかかっていく。
信之はひととおり攻めぎあいした後、退却にかかった。
「それみた事か!」
勢いにのった徳川軍がこれを追撃していく。

うーん、まさに思う壺の展開にござる・・


徳川軍はもともと真田をなめてござった。
そこにこの緒戦の勢いに乗じて一気に・・・
と思ったのも、無理からぬ事でござる。
複雑な町屋と妙な静けさに不気味さを覚えるよりも、
先陣争いに功をあせっていた。

勢いにのった徳川軍は、三の丸から大手門を突破、
いよいよ二の丸へ攻め込んできた。
これといった真田からの反撃もなく
ますます勢いこんでいた。


目指すは本丸のみ・・





一方、上田城本丸では・・・
その時、静かにを打っていた昌幸公でござったが、
そこまでの報告を聞き、不意にその手が止まった。
顔を上げた昌幸公に快心の笑みが宿る。

真田昌幸(560バイト)
『ちょうどよい頃合いの様じゃ。そろそろ行くか・・・』
それは、今まで調子にのっていた徳川軍に浴びせる・・
痛烈な反撃の始まりでござった。



それではここから又五郎が一気に書き綴らして頂こう!

本丸塀際まで詰め寄っていた徳川軍に、
突然大木が落ちてきたかと思うと、
塀中より弓矢・銃弾が一斉に浴びせかけられる。
突然の反撃に慌てふためいた徳川軍の横合いから、
先程退却したと思われた信之の軍が迂回して突撃してきた。
それこそ「あっ」という間の出来事である。
前線にいた兵は退却する間もなく突き伏せられた。
「すわ、謀られたか!」と叫んだ忠世の声も空しく、
大混乱に陥った徳川軍はその体勢を立て直す事ができない。
「もどれ、ここに踏みとどまって戦うぞ!」
いくら叫んでも、勝ち戦から一転、
臆病風に吹かれた将兵にはどうしようもなかった。
その時、大手門が開いて昌幸の手勢500騎が襲ってきた。
狭い城内でのこの挟撃に、もはや逃げるのみ・・
慌てて退却にかかった徳川軍であったが、
町家が複雑に入り組んでいて、うまく移動できない。
そのうち、町家の一部から火の手があがった。
逃げ遅れていた徳川軍の混乱は熾烈を極めていく。
そこへ今度現われたのが、町家に潜ませていた伏兵である。
もはやここまで来ると、徳川軍の士気は0に近かった。
一目散に城外へ逃げ出した徳川軍だが、昌幸は追撃の手は緩めない。
そのまま神川の辺まで追い込むと、
算を乱した徳川軍はこの増水した川にも追い落とされ、
ここでも又かなりの死傷者を出してしまった。

そこまでしておいて・・・

真田昌幸(560バイト)
『よし、頃合いじゃ。ここまでじゃ、兵をおさめよ』

昌幸はそういうと、さっと兵を転進させた。深追いは禁物である。
もともと、兵力の差は歴然としているし、このいくさは勝ついくさではないのだ。
相手の痛撃を与えればそれでよい。
その辺の用兵の妙は十分すぎる程心得ている昌幸公でござる。



兵を引き上げた上田城は、また静かな上田城に戻っていった。

この上田城を徳川軍呆然と眺めるしかなかった。
もはや声もなかったといってよい・・



この後徳川軍は、矛先を丸子砦に転じて、せめて一矢を報いんとしたが、
昌幸は直ちに丸子砦の北、尾野山城に援兵を送って牽制したため、
夜もかがり火をこうこうと焚いて、おちおち寝られない状況になった。
結局、上田の真田軍の奇襲を恐れながらになったので気勢も上がらず、
ついには、本国三河での石川数正の出奔などが重なった為、
一つの砦も落とす事なく、空しく三河に引き返していったでござる。

この合戦での徳川軍の戦死者は1,300余人といわれ、
真田側の戦死者は40人ほどだったといわれる。


■この時の様子を「三河物語」の一文では、
『ことごとく腰が抜けはてて』
『ふるえて返事もしない』
『下戸に酒を強いたるごとし』
として、その惨敗ぶりを認め、
『こんなやつに知行はもったいない
と言いきってござる。

まさに徳川方一方的な敗戦でござった。

と、同時に・・・

真田昌幸
「信州に真田あり」の武名が、
一気に広まった瞬間でござった。


武士18(253バイト)
うーむ、まさに昌幸公の本領発揮といったところか・・
この用兵には、又五郎も感嘆ただそれのみでござる。
さすが・・・・






◆◆ 太閤殿下と名胡桃城事件 ◆◆












NEWといいながら、また途中で終ってるし・・・
だめじゃん!・・・・はい。



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Last up 2004/01/10
++ 真田安房守昌幸公  の語りでした(^^ ++