■真田兵部丞昌輝 ・・・長篠の地に若くして散った豪勇の士
真田幸隆の次男。
兄同様武田家の一将としてその豪勇ぶりを発揮した。
これも兄同様で、その人物についての文献はあまり残っていない。
初陣は不明だが、永禄11年の今川領の駿河侵攻の文献にその名が見られる。
昌輝は山県、馬場隊と共に富士川沿いに南下した。この時昌輝26才。
以降は、ほとんど兄と共同で作戦に参加している。
最後は長篠の合戦に参戦、敵の乱軍の中に突っ込んで討死にした。33才だった。
こうしてみると、父幸隆が謀将の参謀型であるのに対し、
信綱・昌輝兄弟は戦場で槍を振るう猛将型の武将だったと思われる。
武田家にとってもこの勇将二人の死は何よりも大きかった。
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■法名は風山良薫禅定門
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昌輝公 よろず情報
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昌輝の墓は、設楽原合戦場跡の山中に信綱と並んである。
ただし発見難し(笑)案内MAP必須。 (2004/01/10)
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1543(天文12年) |
真田幸隆の次男に生まれる。
生地は小県郡真田郷。
母は河原氏(海野氏の重臣河原隆正の妹)。
初陣は不明。
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1568(永録11年) |
駿河侵攻に兄信綱と参戦。
『信玄公の先衆は、山県三郎兵衛、馬場美濃守、小山田兵衛尉、小幡上総守、真田源太左衛門、同兵部介、内藤修理少、七頭江尻をこし宇八原まで旗さきみゆる』 (甲陽軍鑑)
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1569(永録12年) |
三増峠の戦いで戦功を残す。
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1572(元亀3年) |
三方ヶ原の戦いに参戦。
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1575(天正3年) |
長篠の合戦に兄弟で参戦。
同戦いにて戦死。享年33才。
『武田の右軍の魁首馬場美濃信房・・・次の真田が一党、土屋一条穴山等、伍を乱さず段々に進み来る』 (参州長篠戦記)
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『真田信綱、同信輝兄弟・・・柵を破り、自ら敵兵数輩を討ち取り、重創を蒙り、兄弟一緒に戦死す』 (真武内伝)
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