小松殿(信之の妻)
小松殿(信之の妻) ・・・真田家随一の猛妻にて才女
姫7 家康公の重臣「本多忠勝」公の娘であり、幼名を於小亥(おねい)・稲姫、後に小松殿と呼ばれた。
天正14年、信之21才、小松殿は14才の時、家康の養女として真田家に輿入れされた。 真田家の懐柔策を狙った徳川家からの政略結婚であった色合いが強い。 しかし、この小松殿は忠勝・家康にもはきとものをいう勝気な性格の賢妻であったため、 信之もこれを良く理解して、真田家の礎をより堅固なものにした。 小松殿も信之の嫁として、(徳川の使者としての役割よりも)夫と真田家の為によく尽くした。 家臣への人望も厚かったと思われる。

★関ケ原の合戦を前にして、こんな話が残っている。
犬伏で信之と袂を分かった昌幸・幸村が上田に帰る途中、沼田城に立寄った。 夜だったので沼田城に泊めてもらおうとした昌幸は、門を開ける様話したが 断られたので、それを横で聞いていた家臣が激昂して門前に迫った。 すると緋縅の鎧に薙刀姿の小松殿が、 『我は伊豆之守の妻にて本多中務の娘であり、この城は我が夫(信之)のものなれば、主が留守の間はたとえ父子といえど誰も入れることは出来ません。 力ずくでの所業とあれば一戦交えるも辞さない覚悟』 と大声で叫んだ。 昌幸は苦々しく思いながらも、「さすがは小松殿、武士の妻はこうでなければいかん」 と語って、沼田城外にて野営した。 しかし一説には、野営している父を訪れて丁寧に饗応したとも言われており、心配りもまた細やかな女性であった。

彼女は昌幸・幸村親子が九度山配流の後も、色々な物資を送って援助している。
元和6年の春、小松殿は湯治に赴く途中の旅館で没した。行年48歳。
夫・信之とは終生仲睦まじく、信之も側室は殆どおかなかった。 信之は「わが家のともし火が消えた」と大いに悲しんだ。
■法名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼


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  墓所は4ヶ所  ---   群馬県沼田市の 『 正覚寺 』
埼玉県鴻巣市の 『 勝願寺 』
長野県上田市の 『 芳泉寺 』 と、松代の 『 大英寺 』   (2004/01/10)






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