■猿飛佐助
信州鳥居峠のふもとに住む郷士鷲塚家に生まれ、最初鷲塚佐助と名乗った。
戸沢白雲斎のもとで忍術の修行に励み、甲賀忍者の免許皆伝をもらう。
鳥居峠で幸村とめぐり合い、その技を披瀝して郎党に加えられた。
その猿のように軽い身のこなしから幸村に「猿飛」の名を与えられ、「猿飛佐助幸吉」と名乗った。
佐助は、そのひょうきんな性格で幸村の側近く仕え、神出鬼没の活躍で数々の秘命を実行した。
諸国を巡り情報を収集する傍ら、徳川の武将とも対決、最後は夏の陣で討死にした。
今でも角間渓谷に猿飛佐助が修行した場所が残る。
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『忍術ではわしにかなう者はなかろう、はっはっは』
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■霧隠才蔵
もとは浅井長政の家臣の遺児とも、蘆名家の家臣ともいわれる。
伊賀忍者の百地三太夫を師として忍法を修め、伊賀流忍法の達人となる。
諸国を放浪中、佐助と巡り合い忍術比べとなる。
奇想天外な忍術合戦が繰り広げられる中、才蔵の投げ打った手裏剣を佐助に手で受け止められると
才蔵は佐助の術に尻尾をまいて佐助の軍門に下った。
ニヒルで華麗な忍術を駆使して、
大阪の陣においては徳川軍を散々に悩ませた。
あの大泥棒で名高い石川五右衛門とも兄弟分だった。
大阪の陣で活躍した霧隠鹿右衛門がモデルといわれる。
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『佐助のちゃら男め、あやつは忍者の渋い世界が分っとらん』
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■穴山小助
海野に続く古くからの家臣で、幸村の初陣にも参加した。
武田家家臣の父と共に諸国を放浪後、真田家の家臣に召し出され、十勇士の一人となった。
医術の心得があり、九度山蟄居時代は情報収集の傍ら「穴山雪洞軒」という漢方医院を開いていたこともあった。
愛敬があり、真田軍の中では非常に可愛がられていて、戦場でも「小助は死なしてはならん」が合い言葉だった。
小助自身は槍の名手で、大阪夏の陣で幸村の影武者として活躍し、家康の本陣まで切込むが、
願いとどかず最後は武田の遺臣に首を打たせた。
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『我が身、我が心は、どこまでも幸村公と一つである』
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■海野六郎
滋野三家の内の一つ海野家の人間である海野六郎は真田家にいち早く仕えた。
昌幸・幸村二代に渡って仕えた六郎は、幼い頃からの幸村の友であり、気心も知れた仲間であった。
ひょうきんで親しみやすい性格だったが、頭脳は明晰。
滋野一族でも本家筋にあたる海野家は名門であり、十勇士の中でも位は高く、幸村の参謀的役割を果した。
「真田三代記」では海野六郎兵衛利一の名で登場する。
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『狙うは家康の首一つ』
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■望月六郎
滋野三家の末裔、望月家の者で、真田三代記には「望月卯左衛門幸忠」の名で登場している。
他の十勇士と違って九度山時代もあまり情報収集はせず、したがって活躍した文面も見られない。
九度山では常に幸村の側で火薬の製造などにあたった。
大阪の陣では、大助を守って家康軍を翻弄、尼崎まで敗走させた。
実は戦上手であったことを最後に示した。
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『それは、ひみつ、ひみつ、ひみつ・・・・』
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■根津甚八
真田三代記の中にもその名が見られる根津甚八は、本々は信州の生まれである。
その名前からして滋野三家の一つ禰津氏と関係があるといわれている。
大和絵師の父と共に旅に出て諸国をまわるが、父の死後は紀州熊野の海賊で九鬼水軍のもとに身を置いた。
幸村とは、秀吉の命令で幸村が九鬼水軍を調査していた時に知合い、共にその人物を認めその配下に収まった。
上田合戦、大阪の陣で活躍し、夏の陣では幸村の影武者としてその最後を遂げる。
由利鎌之助とは古くからの知合いで喧嘩友達だった。
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『渋さではわしが一番!(かの俳優殿もさすが分かっておられる)』
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■筧十蔵
真田三代記の中に「筧十兵衛」でその名が見られる。
しかし、蜂須賀家の家臣であって、幸村が大阪滞在の間に巡り合ったという説もあり、真偽のほどは確かではない。
父親譲りの戦法である乱戦を得意とし、敵の大将めがけて突進するという豪傑であった。
力も相当に強かったが、鉄砲の名手でもあったとされている。
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『敵の数など問題ではない、なんとでも方法はあるでござる』
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■三好清海入道
その生まれについては二つの説があり、阿波の三好一派の縁の者だという説、もう一つは出羽国亀田の城主の子という説。
モデルとなったのは三好の残党三好政康だったといわれるが、どちらにしても落城の憂き目に遭い、縁をたどって真田家に行き着いた。
六尺(182cm)の大男で、150キロの鉄棒を振り回した怪力の破戒僧。
大食らいの大酒飲みで失敗も多いが、憎めない性格で、佐助、才蔵と共に諸国をまわった。
傍らの岩を盗賊めがけて投げた話は有名。
最後は大阪夏の陣で討死にする。
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『だれが猪八戒ぞ』
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■三好伊三入道
三好一派の三好政勝がモデルといわれ、兄同様、主家を失ったあとは由利鎌之助と二人で意気投合し、山賊をはじめる。
後に真田家に寄った兄と再開し、十勇士の仲間入りを果たす。
勇猛さは兄以上で、大阪夏の陣では縦横無尽の活躍をし、最後の時を迎える。
「落ち行かば 地獄の釜を踏み破り 阿防羅刹に事をかかさん」
(地獄に落ちたら地獄の釜を踏み破って鬼どもを慌てふためかしてやろう)
と高らかに辞世の句を読み、群がってくる敵を制して、自分の首を掻き切って死んだ大豪傑だった。
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『地獄の釜なぞ、ぬるい、ぬるい』
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■由利鎌之助
「真田三代記」に登場する鎖鎌の名手で、それを振り回し鈴鹿山中で山賊をやっていた。
その頃、落ちのびて来た三好兄弟と知合い意気投合、弟の伊三と山賊を続ける。
幸村とは先の流れで三好兄弟を通じて説得され、しぶしぶ幸村に仕えたとされる説、敵対していた菅沼氏を攻めた折の家臣の一人で、調子に乗っていた所を穴山小助に捕まって家臣になったとされる説などがある。
九度山蟄居時代は江戸にて諜報活動をし、大阪夏の陣では喧嘩仲間の甚八と大暴れをして討死にした。
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『鎖鎌は扱い間違うと自分にささる・・・とても痛い・・・』
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