真田大助幸昌
真田大助幸昌 ・・・父幸村とともに大阪に散った若き命
武士27 真田幸村の長男で、信昌ともいった。
母は大谷吉継の娘「竹林院」で、慶長7年7月に九度山で生まれる。 大阪の陣が起こるまで、父母とともに九度山の配所にての生活を送った。 慶長19年10月9日、父幸村とともに九度山を脱出、大阪城に入城する。 大阪冬の陣では真田丸を守り、青柳千弥・三井豊前らの家老の助力もよく、父幸村とともに前方に位置する前田勢・松平勢を見事打ち破る。

■冬の陣後の和議がなった後、幸村は武田の旧臣の「原貞胤」(徳川方・松平忠直の使番)を招いて酒宴を開いた。 その席で大助は、父幸村の命で曲舞を二、三番舞っている。幸村は隼人助貞胤に、
『思いがけず和議がなって、こうして隼人助殿にお目にかかれた事、まことに嬉しく思います。 しかし、この和議も一時的なもので再び戦になるでしょう。 今度こそ親子そろって討死にの覚悟ですが、倅の大助を思うと不憫でなりません。 生まれて14年、大した物事もなく戦場の苔となるのかと思うと・・・』
といって、涙を流したという。しかし大助は、その時すでに母竹林院の言葉「父と生死をともに」をしっかりと心に刻み、ゆるぎない覚悟の中にいた。

■元和元年、大阪夏の陣がはじまると5月6日、大助は父とともに誉田に出陣し伊達勢と戦い、太股に槍傷を受けながらも首級をあげる。 真田勢の活躍は大阪方をおおいに湧かせたが、形勢は覆らず次第に大阪方は追い込まれていく。

翌5月7日、茶臼山にて颯爽と指揮をとる幸村だが、前日の大野治長との約束である「秀頼公出馬」は、いつまでたっても行われなかった。 幸村は暗然たる気持ちになりながらも、大助を側に呼び、
『治長公はまだ私を疑っているようだ。お前は今から大阪城にいって父の志を明らかにせよ』
といった。すると大助は、
『いやです。大助は今日まで父の側を片時も離れたことはありません。今さら父と離れて、どうして城に入れましょうや。 父上はこの戦場で討死されるご覚悟でしょう。その時が大助が命も尽きる時、父を捨て城に入るなど絶対にいやです』
と泣きながら訴えた。幸村も側で見ていた家臣も、大助の悲痛な覚悟をみて思わず涙した。しかし、幸村は心を鬼にして、
『武士の家に生まれし者が暫しの別れを惜しむとは何事か。死にゆかば冥土で逢おう。早々に大阪城に向かうがよい』
と、大助を説得した。それぞれの思いが交錯する中、大助は父幸村を思い、泣きながら大阪城に向かった。

大阪城に入った大助は、秀頼出馬を強く願ったが、ついに聞き入れられる事なく最後の時がせまった。 翌5月8日、大阪城は落城し、秀頼はついに切腹する事になる。 それより先に「幸村公討死」の報を聞いていた大助は、秀頼の家臣が脱出を勧めるも頑として受付けず、 城内にて切腹して果てた。介錯した加藤弥平太は、この潔い若武者の死に涙にむせんだという。享年は14歳とも16歳ともいわれる。

■「明良洪範」は次のような話を残している。
徳川軍の兵が居並ぶ切腹遺骸の中で膝鎧をつけたままの遺骸を見つけた。 これは誰だと捕虜に問いただしたところ、真田幸村の嫡子大助とわかった。 切腹の時、傍らにいた者が膝鎧はとらないのかと言ったのだが、 「大将たるもの、切腹の折りは膝鎧はとらぬものだ。私は真田幸村の子です」と答えたという。 さすが左衛門佐殿の子と、皆感心したという・・・。


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