語る「万華鏡」

(「ジョルノ・ジョバァーナ」に書き足す)

ジョルノ・ジョバァーナ(じょるのじょばぁーな)

項目名ジョルノ・ジョバァーナ
読みじょるのじょばぁーな
分類登場人物名

作者
  • 荒木飛呂彦(おっぺ)
  • 公的データ
  • ジョジョの奇妙な冒険」第5部の主人公。(おっぺ)
  • 「ゴールド・エクスペリエンス」というスタンドを持つ。
  • 感想文等
  • 「ジョルノがゴールド・エクスペリエンスで作る命って、すぐもとの物体にもどっちゃうし、記憶もなくって、虚しい命じゃないか」と言ったところ、「記憶があってもなくても命は命だと思うよ」という意見を出してきていただいたので、それへのレス及び発展形です。実は僕は逆に、「命であって」「欲しくない」と思ったわけなのです。
     つまり、「虚しい命」と書いたのは、もう少し詳しく言えば、「もしあれが本当に一時期の『生命』を創り出しているんだとすれば、それはちょっとむごくないか?」ということです。ジョルノの都合で作り出され、ほんの短期間だけ命を持った生物として存在し、そしてまたただの「物」に戻っていく。もしあれが、この「物に戻って」しまうというのがなければ、僕としても「命は命」でもよいのですが――彼らはいったい何のために生まれてきたのか? ジョルノの都合のために、か?
     もし、「カエル」や「植物」「蛇」「クラゲ」「蠅」などではなく、「ヒト」を作り出したとすれば――たぶんは「記憶」などなく、「本能」でただ赤ん坊のように動くだけで――しかし、しかしもし、もしも、「自我」が、つまりは「命ある存在」としての「魂」が、あったとしたら、「彼」は、自分のことをどう思うだろうか?
     「せっかく生まれてきたんだから、短い命を精一杯生きよう!」――そう思うことはまずないでしょう。もしあったらあったでそれはあまりにも「不憫」でならない。「彼」は、ジョルノの都合で一時的に産み出されただけの存在です。ヒトとしての自我、魂があればなおさら、自己の存在の意味に悩み、苦しむことになりそうです 。 ――「カエル」や「蛇」だって、同じことが言えるんじゃないか……これを「むごいな」と僕は突然思ったわけなのです。
     現実の世の中でも、「親の都合で生まれた」「生んでくれと頼んだわけじゃない」と主張する青少年達がいますが、それは別枠に置いておくことにして――ジョルノはあんないい奴のくせして、無意識のところではずいぶん利己的なところがあるように見えます。その辺、やっぱりディオの子供ということで、意図的な性格造形がされているのかと思うほどです。
     ボルボのスタンドと戦ったとき、ゴールド・エクスペリエンスで木を1本枯らしてしまったはずで、あのとき、ずいぶんひどいこと平気でやるな、と思ったものでした。でも、あれは自分の都合で勝手に創った生命じゃないから、ある意味ではまだ「罪」は軽いように思います。自分の都合で生命を勝手に創り、そして、それをまた失わせるというのは相当非道な仕業に思えるのですね。
     マン・イン・ザ・ミラーとの戦いの際、創り出した蛇をつけて「血液からワクチンを取りだ」していましたが、……どうせまた元の石に戻って行くんだからいいのでしょうか。
     いや、実は書いてて、陰険な書き方してるなー、と自分で「俺の馬鹿、陰険、陰惨、堅太り!」と自分を罵りたい気分なのですが、つまりは、だから僕としては「あれは実は本当の生命ではないのだ。ダミーなのだ」ということに片づけてしまいたいわけなのでした。
     「ジョルノ=所詮ディオの息子=優しいしているが実は案外ひどいことを自分では特にそうとは思わずやってしまう奴」という説に行き着いてしまうのはあんまりうれしくないのでして、「ゴールド・エクスペリエンスが創るのはあくまでダミー」なら、この説は却下されることとなります。 さて、どっちがいいでしょう?
     追伸:ゴールド・エクスペリエンス、あの蛇をつけて血を採りだしていましたので、「相手にそのまま跳ね返る」能力は、その「攻撃」をしたのがスタンドである場合は、そのスタンドに対して無効だということになりますので(その生物を造り出したゴールド・エクスペリエンス自身だけ「無効」なのかもしれませんが)ブチャラティ戦以来、ジョジョがそれを使っていないことが納得できるわけであります。 (おっぺ)
  • 追伸。僕は例えば、セミさんの命とかを「虚しい」と言っているのではないのです。それなら、確かに人間の傲慢でしかないと僕も思います。そうではなくて、例えば「実験動物」のように、ある人間が自分の都合である「命」を利用する、それはひどいことなんじゃないのかな? ということを感じただけなのです。特にジョルノの場合、ある「命」を全く自分の都合のためにのみ創りだし、そして何の感もなく消滅させていく。時には、悪意も何もなく、これをつけもする。これは、どうなんだろう? と……。
     もしこれが、ジョルノが「このジョルノ・ジョバァーナには夢がある」、そして守りたいと思う仲間がいる――だから、ひどい、むごいということ、そう言われること、は甘受するつもりでやっているのだ、という描写がたった一つ、在ってくれれば――と思うのですが。
     「跳ね返る」能力については、広瀬康一のジ・エコーズがジョルノの創った樹を攻撃した際、「跳ね返って」重くされていたこともあったので、さらにいろいろ思いまして、例えばクラゲの時や、パープル・ヘイズのウイルスの中の蛇、といったものを考え、「攻撃の意志」というものがなくての外部からの働きかけについては「返さない」ということなのかな、と発展させました。
     あくまで「攻撃を跳ね返す」のであって、「攻撃」でなければ「返さない」。
     では、どうやって「攻撃」かそうではないのを判定するかといえば、(殴ってるのも撫でてるのも、「外部からの刺激」ということでは同じですので)スタンド能力は精神すなわち「意志」の働きによるものだから、「攻撃の意志」とか「悪意」とかいったものを、それこそ「自動」で検知できるのではないか、と。
     だから、「攻撃」(あるいは「悪意」、それにふさわしくなければ「敵意」)に他ならなかった涙目のルカ、エコーズ3、ブチャラティに体内に入られていた少年、の場合は「跳ね返り」が起き、「攻撃の意志」については存在しなかったクラゲの時、蛇の時(たぶん、ウイルスというものには「攻撃の意志」はないんでしょう)は「跳ね返らない」。
     こう考えると、「グレイトフル・デッド」の時、何故なんでもいいからぶん殴って体温の高い生物創って、それをわざと老化させるというやり方でプロシュートに老化を跳ね返すという逆襲に転じなかったのか、の理屈はつきます。決して作者がこの能力のことを忘れていたのではない(笑)(でもほんとに忘れてるのかもしれない。仗助の能力は「直す」だけじゃなくって、「変形させちまう」こともあったはずで、それを使えばもっといろいろできたはずなんだけど、ザ・ハンド戦以来、それはきれいに忘れられてしまった……)
     そして。
     ゴールド・エクスペリエンスが「蛇をつけた」時、「跳ね返らなかった」のが、まさしく「ジョルノにとって、それは攻撃ではなかった」「悪意の不在」を紛れもなく示すものであり、つまり……などと僕は考えたりするわけであります。(おっぺ)
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