語る「万華鏡」

(ジョジョの奇妙な冒険)

ジョジョの奇妙な冒険(じょじょのきみょうなぼうけん)

項目名ジョジョの奇妙な冒険
読みじょじょのきみょうなぼうけん
分類コミック

作者
  • 荒木飛呂彦
  • 公的データ
  • ―これは一世紀以上にわたるディオとジョースター家の因縁の物語である―
    第1部 ジョナサン・ジョースター編 ファントムブラッド
    第2部 ジョセフ・ジョースター編 戦闘潮流
    第3部 空条承太郎編 スターダスト・クルセイダーズ
    第4部 東方仗助編 ダイヤモンドは砕けない
    第5部 ジョルノ・ジョバァーナ編 黄金の風
    第6部 空条徐倫編 ストーン・オーシャン
    第7部 スティール・ボール・ラン
  • Part1 ファントムブラッド
     18世紀末…英国貴族の青年ジョナサン・ジョースターと、下級階層の生まれだが、ズバ抜けたカリスマの持ち主ディオ・ブランドーの抗争劇。「石仮面」や「波紋」を背景に、2人の成長や対立が描かれている。

    Part2 戦闘潮流
     1940年頃…ジョナサンの孫、ジョセフ・ジョースターも祖父と同じく「波紋」を身に付けていた。ジョセフは人間の脅威となりうる「柱の男」を倒すため、各地を奔走する。

    Part3 スターダストクルセイダース
     1989年の日本…ジョセフの孫・空条承太郎は幽波紋(スタンド)という能力を持っていた。100年の時を経て復活したDIOの呪縛を解き放つため、承太郎らはDIOの潜むエジプトを目指す。

    Part4 ダイヤモンドは砕けない
     1999年の日本…ジョセフの隠し子・東方仗助の住む杜王町ではスタンド使いが増殖されていた。そのルーツを調べる為、仗助と仲間たちは、町に潜むスタンド使いと激闘を繰り広げていく。

    Part5 黄金の風
     2001年のイタリア…DIOの息子ジョルノ・ジョバァーナはギャング・スターになるため、「パッショーネ」という組織の抗争に身を投じていく。

    Part6 ストーンオーシャン
     2011年の米国…空条承太郎の娘・空条徐倫は、罠にはめられて刑務所に収監されてしまう。そこで徐倫は、この一連の悪夢の真意を知ることになる。

    Part7 スティール・ボール・ラン
     1890年の米国・サンディエゴビーチ…世紀の大レースが開催された。謎の球を操る男ジャイロ・ツェペリと、半身不随の元騎手ジョニィ・ジョースターも、このレースを制するため、ゴールのニューヨークを目指す。
  • 感想文等
  • 第1部がとうとう文庫化!章題が全部みたいに変わってる(泣)
    ジョセフ・ジョースター
    ディオッ! ジョジョッ!
    ・特に第2部が好き。
    ジョジョはこれからどうなるの?
    ジョジョは第2分がいい。
    ・小さな能力こそ使いでがあるってことで。
    ・波紋変が好きでした
    ・ジョルノは?
    ディオさまハート
    ・アイデアがいのちだが。
    ・絵がだいぶ変わったねー。
    ・ジョセフ対ディオの本気を見たかった。
    ・主人公がどこかに行っちゃうのは何とかならないものか。
    ・キャラの魅力には頭が下がります。
    ・凝りすぎてわかりにくくなるところは最近数年間の欠点。
    ・先の読めないドキドキ感が最高。
    ・電車のつり広告で見かけたでびっくり。
    ・最近のはちょっと熱さが足りないんじゃない?
    ジョジョの奇妙な冒険第1部、ジョナサン・ジョースターその青春、文庫化!
    ・慄えるぞ、ハート!
  • 疑問点1「アブドゥルの復活(おっぺ)
  • 疑問点2「ゴールド・エクスペリエンスの「跳ね返す」(おっぺ)
  • 疑問点3「ジョセフ・ジョースターの謎(おっぺ)
  • 疑問点4「スタンドの謎(おっぺ)
  • 疑問点5「「ボス」の『正体』(おっぺ)
  • 疑問点6「ハーミット・パープルの謎(おっぺ)
  • 疑問点7「ザ・ワールドの謎(おっぺ)
  • 思ったのが、スタンドのビジョンの必要性についてです。いや、要らないと言っているのではありません。ないといろいろうれしくないこともありまして(笑)。
     でも例えば、ラブ・デラックスのときの迫力は、「余分な」ビジョンがなかったことも一つ関係しているのではないかと思ったりします。
     最近は特に、スタンドのビジョン「なし」で効果を上げている場面もよく見かけますね。第5部での、ジョルノの手の上でボタンが「眼」になっていくのも、ゴールド・エクスペリエンスがそのボタンを殴っている絵などが描かれていないのがかえって効果的だったし、ブチャラティの戦いの中で、スティッキィ・フィンガーズが画面になく、ブチャラティ自身の「力」でジッパーが生まれているように見える画面も迫真的です。
     スター・プラチナやチャリオッツのように、紛れもなくスタンド自体が、いや、スタンドのビジョン自体が「拳」や「剣」を使って戦うときは別として、スタンドが「超能力」を持っており、別に何かを殴ったりせずともそれが発現できるなら、むしろスタンドのビジョンは描かれない方が迫力が増すことの方が多いのではないでしょうか。
     そもそも荒木先生の最初の着眼点というのは、
     「超能力ってずるい」
     ということだったと読んだような記憶があります。つまり、
     「念じるとスプーンが曲がる」
     というのはなんだかずるい。
     「実は目には見えないがスタンドというものがあって、それがスプーンを『えい!』と曲げたりしているのだ」とすれば、なるほど念力というのはこういうことだったのかわかってずるくない、と。
     それであの「スタンドのビジョン」というのが出てきたわけなのでしょう。確かに、スター・プラチナなんかは、念力の具体的な映像化です。次に出てきたマジシャンズ・レッドも、超能力による発火現象を映像で見せたという形になっている。
     これがジョセフ・ジョースターのハーミットになると、少し曖昧になっていて、つまりハーミットが「どういう仕組みで念写というのを行っているのか」、実は映像ではわからないわけです。ここではすでに、ハーミットが「念写という超能力を持っている」形になっていて、「念じるとスプーンが曲がる」というのがずるいならこれもずるいんじゃないか、というレベルになってしまっています。
     これはたぶん、作者としてはジョセフには余分な新能力を持たせたくなかったというのが関係しているのではないかと思います。つまり、ジョセフには「波紋」という超能力がすでにあり、それは前作までで「ジョセフ・ジョースターは波紋で戦う」ということが読者にもしっかり脳味噌にしまい込まれている。あえて「余分」な能力を持たせるのはイメージを壊してマイナスとなる、と考えたのではないかということです。その結果、いささか曖昧な形のスタンドとなってしまった。(結局は、ジョセフはその後「ハーミット・パープルで戦う」イメージの方が逆に定着し、「波紋マスター・ジョジョ」ではなくなっていってしまうのですが)
     続くハイエロファントは「エメラルド・スブラッシュ」も念力の映像化の一種と捉えれば、元々の「超能力の具体的映像化」だと思ってよいでしょう。(因みに、一番最初の「絵でジョジョの足を」「ハイエロファントの像は見えないのにジョジョの足がつけられたのは何故」というのは、先に書いた「スタンドのビジョンはあえて描かないで迫力を出す」エフェクトだったと考えられるのではないでしょうか。承太郎に見えなかったのは、例えばチャリオッツが一度アブドゥルにやられたあと、ポルナレフを空中に持ち上げていたとき「見えなかった」、そしてポルナレフに「心の目をしっかり開けてみて見ろ」と言われ、初めて鎧を脱いだシルバー・チャリオッツを「見る」ことができた、という場面がありますから、スタンドスタンド使いでも「いつでも見えるわけではない」と考えていいと思われます。ジョルノが、ベイピー・フェイスとの戦いの中で、「攻撃されているとき見えないなんてあり得ない!」と言っていますが、ジョルノは実はスタンドについてそんなこと断言できるほど詳しくはないはずなので(笑)却下いたします(笑)。つまり、「見よう」という意識が希薄だと「見えない」「ときもある」のでしょう)
     「タワー・オブ・グレイ」も直接攻撃型スタンド、「チャリオッツ」もそう、「ダーク・ブルー・ムーン」もそうですね。「ストレングス」も実はそう、「デビル」は人形にとりつく(これって、一時的に一体化したってことなんでしょうか。自在に一体化したり分離したりできるスタンドだったのか。便利だ!)という形で、カミソリという物質でスタンドを切る、という芸当を見せましたが、これも直接的攻撃。
     スタンドが「超能力」を持っており、不可解な攻撃を仕掛けた最初というのは「吊られた男」ハングドマンでしょうか。もっともこれも、「原理はよくわからんが、奴は光のスタンドで……」と、その超能力について説明らしきものをつけようとしていることが窺えます。
     その後しばらく、「霧状のスタンド」だの「史上最弱のスタンド」だの「おひさま」(笑)だの、変なスタンドは出てきましたが、ビジョンからでは納得(あるいは把握)できないスタンドはいませんでした。
     ビジョンに「意味がない」(ある意味ではすごくあったのですが)スタンドの最たるものとして登場したのが、「Hail 2 you!」の「審判」のスタンドでした。このスタンドは少なくとも画面上ただ「いる」だけで、あるいは「唱える」(!)だけで、死者を甦らせる、あるいは土を使って泥人形を作っている(ダイレンジャーのゴーマだね、こりゃ)ことのできるスタンドです。画面上、ジャッジメントがせっせと土をこねて泥人形を作っている姿は見られませんので(笑)、ここにおいて結局、「念じただけでスプーンが曲がるなんて、なんだかずるい」ので「スタンドというものが実はやっているんだよ」としていたスタンド・システムは崩れ、「スタンドが念じると何か生じる」ことがアリ、になったわけです。
     これは決して責め、糾弾しようとしているのではありません。むしろ、最初の制約を外れることでスタンド世界が豊穣になったのだと思います。
     ただ、この瞬間、「だったらスタンドの像なんてなくてもいいんじゃないか?」という考え方も出てくるわけです。
     その結果――、ンドゥール、オインゴ&ボインゴ、マライア、ペットショップ……などのように、スタンドのビジョンの存在しない、あるいは存在してもほとんどそれ自体が戦うことはないものが輩出し始め(というわけで、アトゥム神のときなど、「おい、こいつスタンドを出したぞ!」とスタンドのビジョンが出てきたときにジョジョ一行からびっくりされる始末です)、まさにスタンド使い本体が、超能力を持った戦士であるかのような画面構成になってきたのです。(ンドゥールについては、あの「水」がスタンドなのでしょうが、何しろ「あれ」なので、スタンドが戦っているというよりは、ンドゥールが単にあれを武器として使っているという感じです)
     さて、その後第4部に入ると、少し初心に返った感じで、クレイジー・ダイヤモンド、アクア・ネックレス、ザ・ハンド、バッド・カンパニー、レッドホット・チリペッパー(こいつは唯一、スタンドスタンドでしか倒せないはずなのに、海に落ちて塩水のためにボロボロになるという、スタンドにあるまじき醜態を見せています。ということは、きっと電気と一体化して……?……いたんでしょう……)……と、魅力的なビジョンを持つスタンドが復活してきます。
     しかし、依然、ラブ・デラックスやヘブンズ・ドアー、ジャンケン小僧のほっぺたの(笑)など、ビジョンがなくていい、いやない方がインパクトが強まるというタイプのスタンドも存在しています。特にラブ・デラックスなんて、あたしゃこの女カーズの一族かと思いましたぜ。
     甚だしいのは、例の「宇宙人」で、こいつはスタンドが全然見えないらしいので、たぶんスタンド使いではなく、きっとほんとに宇宙人なんでしょう(笑)。
     体の変形度の凄まじさからいって、宇宙に飛んでいったカーズの子孫か何かなのかもしれません(笑)。「カーズは二度と地球には戻れなかった」と、「地球には」と他との区別を示す副助詞の「は」が使われているので、おそらくカーズは「別の星には」行けたわけでしょう。そこで仲間を増やし、復讐のため、ミキタカくんを送り込んできた――やめよう、こんなこと(笑)。
     閑話休題。
     スタンドのビジョン同士の戦いは、生身でのアクションに比べて迫真感で劣る、と作者は考えていたはずで、だからこそ、スタンドつくと本体もつく、という設定にしたのに違いありません。しかし、それでもまだ、インパクトの作家としては今ひとつ足りなかったのではないでしょうか。
     「ヘブンズ・ドアー!」と岸辺露伴が叫ぶだけで相手の面がパカッと割れる、あの画面の異様なインパクトは、スタンドのビジョンを介在させないが故に、なおさら高まっていたはずです。
     さて、そうして続く第5部ですが、この第5部のスタンド達には、ほとんど一様のようにある共通点が見出せます。
     スタンドの像が、スター・プラチナその他のような「戦闘するための戦士」としてではなく、あくまでスタンド使い本体の「技」「武器」のようにしてのみ登場している、という点です。
     但しこれは、ブラック・サバスやベイビィ・フェイスのように本体から遠く離れて活動するタイプのスタンドの場合は、当然別枠扱いとなります。また、フーゴのパープル・ヘイズは、あのときああいう出方しかしていないので何とも言えません
     ゴールド・エクスペリエンスの場合、肉弾戦だとあんまり強くないので、専ら「物を生き物に変える」「生き物の『時』を混乱させる」といった能力の使い方となっており、描かれ方としてゴールド・エクスペリエンスが画面上存在しないのにいつの間にか何か物体が生き物に変わっていてそれがトリックとなって逆転を果たす……というケースがよく見られます。
     スティッキィ・フィンガーズを含め、「敵」として登場したものたちを見ていくと、スタンドのビジョンが直接戦う「戦士」だったということが実に存在せず、必ず本体がスタンドを「技」「武器」として使いこなしている、という状態です。
     さすがに味方側ではいささか事情が異なります。アバッキオ、ナランチャ、ミスタのスタンド達は、いずれもビジョンなしには考えられない存在感です。それでも、ハイエロファントやチャリオッツなどのように、スタンドがまるで本体と同一存在として戦っているという(例・ラヴァーズ戦。他にも特にハイエロファントはしょっちゅう花京院そのものとして「ぼくは」とよく喋った)ことは決してない。
     まだ味方側については、「スタンドが(不可解な超能力を持っているのではなく)変身したり砲撃したり弾丸を操作したりウィルスを放出したりして直接画面で見える形で活躍する」ので、ビジョンの存在意義は大きいのですが、敵側は最初の敵として登場したブチャラティのフィンガーズを含め、「目には見えないが実はスタンドというものがいてスプーンを曲げている」のではなく、「スタンドが念じると(あるいはぶん殴ったり切りつけたりすると)不思議な現象が起こる」という、「超能力を持ったスタンド」=「別にスタンドの像がなくても困らない」タイプに占められているのです。
     第4部までにもこういったタイプの敵はずらずらいたのは確かですが、登場してくる敵の全員が「そう」(繰り返しますが、遠隔操作型は全く別になります)というのは、これは新JoJoの方向性を指し示していると言ってもいいのではないでしょうか。
     これまでにも何度か――例えば第3部においてもすでに、9柱神の登場前と登場後とでは「本体」の描かれ方が変わり、「スタンドが戦う」というより「本体が(スタンドを使って)戦う」ことが多くなった、のように作者の試行錯誤がほの見えたことはありました。いよいよこの第5部においてははっきりと、「スタンドが戦う」よりも「人間が」戦うのだ、ということが打ち出されているということではないでしょうか。
     もともとJoJoのテーマは「石仮面の吸血鬼」=「人間を超えた超能力を持ったもの」に、「人間が」立ち向かう「人間讃歌」というものでした。「スタンド」の戦いは確かに魅力的ですが、行き過ぎると人間不在のただのアクションマンガに堕してしまう危険性のあることを、作者は敏感に感じ取っていたのではありますまいか。
     いや、もちろん、「スタンドスタンドとが戦うアクションストーリー」だと割り切るなら、作者はその上で十分躍動感とインパクトを持つマンガを描ききる才を持った人のはずです。しかし、この「ジョジョの奇妙な冒険」の流れは、試行錯誤の連続でした。特に第3部以降は、どう描けば面白いかを、常に探し求めながら描いているように感じられました。その上で、現在のあり方をとりあえず今は選択している――それが第5部のGIOGIOだとすれば、「それが最も面白い道だ」との作者の選択眼が働いたと見るべきだという気もします。JoJoとは「こういうマンガ」だから、「こういうふうに描かなければならない」という制約・限界を作者は自らに課してはいないと思われます。それが時には、読者にとっては「えっ?」と思わせる方向へ進むことがあってもです。
     白状しましょう。この数年間の中で、僕がたった1度だけ、「もうJoJoもオシマイだな……」と思ったことがあります。それは第3部、バステト女神のマライアの登場しての4回目のときです。ジョセフとアブドゥルがバステト女神の磁力の餌食となり、追いつめられていくギャグタッチのエピソードで、第3部途中からギャグ場面コメディ場面が目立ち始めたJoJoの中でも、ジョセフ・ジョースターファンがが悲しみの涙をぽろぽろこぼすような場面の連続するエピソードでした(最終パートまでは!)。
     もっと緊迫感溢れるストーリーを僕はJoJoには求めたいんだけどな……ギャグをやりたくなったんなら、他の作品でやってくれないかな……などと思いながら、ジョジョとアブドゥルの珍騒動を読んでいったのですが、その回の最終シーンでは、アブドゥルの機転でマライアの攻撃をからくもかわした、というところで――とんでもない画面が待っていました。
     それまでは、リサリサ風の謎めいた美人の敵、という感じで描かれていたマライアが、ジョジョとアブドゥルの無事を知った瞬間、「このビチグゾがーっ!」とわめき、ギャグマンガそのままのタッチで鼻水まで垂らした形相のドアップで終わっていたのです。
     唖然としました。荒木飛呂彦が壊れた、と正直本気で思いました。とうとうJoJoにやる気をなくしたのかとかまで思いました。
     それまでも、バランスのよかった第2部に比べて、第3部はギャグに傾きすぎじゃないか、と思っていましたが、ロマンティック・ホラーとしてのJoJoはこれで死んだのだ……という意味のことまで考えたのですから、実際相当のショックを受けたのです。
     おわりだ、おわりだ……という感じで、しばらく呆然と過ごしていたはずです。
     次の週になってみると、同じ「ビチグソがっ!」でも絵柄の濃厚さが全く変わり、もはやリサリサ風でも何でもなくなってはいたものの、マライアはワイルドパワフルウーマンとして描かれ直し、さらにジョジョの「相手が勝ち誇ったとき、そいつはすでに敗北している」が久々にそれはそれは鮮やかに決まっていたため(「これほど頼んでも?」「しつこいね、馬鹿」「それならあんたの負けだ、お若いレディ」のくだりは、何度読み返しても「やたっ!」てな感じです)、その終末気分は1週間で消失してしまうのですが、とにかく一時的にせよ、JoJoのそうした――衝撃的な「変容」があったことは確かです。
     愛読者やファンのどれほどが、ギャグ的な要素を喜んでいるかはわかりませんが、その後も第3部においてはついにホル・ホースにまでこの諸星あたる現象が発生し、哀れホル・ホースは初登場時のインパクトはどこへやら、三文キャラの如くに消え去り二度と復活はあり得ませんでした。
     第4部においても、最も如実な虹村億泰の変化にも見られるように、ギャグ的要素がかなり振り分けられていますが、第5部になると、ナランチャ、ミスタの役割もギャグメーカーではなくコミックリリーフ程度にとどめられており、サスペンスフルな(ロマンティック・ホラーかというと、ちょっと違うような気はしますが)ストーリー展開となっています。
     これまでの「変容」は、作者の試行錯誤、あるいは「ライブ感覚」の中から選び出され、試みられてきたものでしょう。その末に行き着いた現状です。とりあえず作者の「試行」は「人間」に戻ることを選択した、と考えさせてもらっていいのではという気がします。
     そして、それがスタンドの像よりも本体の方が綿密に描かれ、スタンド自体は「技」「武器」程度の役割に押さえられている、という今の姿に照応しているのだ、という気がするわけです。
     (主人公側のスタンド達はさすがにしっかり描き込まれているのは、それはやはり主人公側、レギュラー・メンバーであり、どんなにスタンドについて描き込んでも、それでもまだ本体達についてもそれを上回って描き込める「ゆとり」があるはずだからでしょう。)
     今後まだ、いかなる「変容」を「ジョジョ」が遂げていくかは全く予想できませんが、作者自身が、「JoJoとはこういうものだ」とか「スタンドはこう描かなければ」とかいった、「無用な」限界を自らに設定しない限り、これからも次々と成長進化していってくれる作品なのだと思います。
     現在の、「スタンドの像さえ不要に思われるほどの濃密な画面とストーリー」をも超えて、この先JoJoはどういう道を選択して進むのか――。 (おっぺ)
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