感想文等 | これは驚いてしまった。
初読ではない。再読だ。初読の時には、いったいどうして特段の感銘も高揚も感じたおぼえがなかったのだろう。
「女神変生」のように、「ウルフランド」系列なまま終始したように思い込んでいた。タイトルの印象のせいもあるかもしれない。PC上でのみ、読みづらさのために斜め読みっぽく読んでしまっていたのかもしれない。
今回はモバイルで、スマートフォンを活用して読んでいた。仕様なのか、そのつもりもないのに段組になっていたのだが、それももしかしたら奏効していたのかもしれない。活字がぎっしり詰まっている方が、平井和正の小説を読んでいる気にさせてくれる。
最初のうちは、記憶のイメージ通りだった。作家・平井和正のモノローグとして始まり、「幻魔大戦」のキャラクター、「地球樹の女神」のキャラクターと遭遇する。この辺りは、「あとがき小説 ビューティフル・ドリーマー」で通過済みだ。
波紋疾走感覚が走り出したのは、スーパー化して、四騎忍として一人称「おれ」で動き始めてからだ。
もちろん、あの少女、木村市枝の威力もあったかもしれない。市枝はいつも不動の存在だ。「幻魔大戦deep」においてもそうだった。市枝がそうであり続けてくれることは希望や安心を与えてくれる。
「ボヘミアンガラス・ストリート」は一人称「僕」が相応しかった。「アブダクション」の三人称「少年」は疾走感覚に没入することを妨げていた気がした。今回、スーパー平井和正の四騎忍が初めて一人称「おれ」で登場した――この「四騎忍の冒険」を読んで、ああ、なんだ、ちゃんと走れる……と感じた。平井和正には本当に「おれ」小説がよく似合う……
これなら、つい数週間ばかり前、たぶんもうアダルト・ウルフガイが再起動しても、それはやはりちがうものだろう……と悲観していたのだが、そうと決めつけるわけにもいかないのかもしれない。
そう、読み終わるのが凄く勿体なくて仕方がなかったのだ。久しぶりだ。再読した「ボヘミアンガラス・ストリート」でも「アブダクション」でも、ついにそれを感じることがなかった。「地球樹の女神」だけは少し異なっていたが、それは単に後藤由紀子にまだまだ未練があったからだろう。
読み終わるのが惜しくて仕方がない……こんな面白い小説を、と、まさかこの「その日の午後、砲台山で」の再読で感じることになるとは、思いもしなかった。
やっぱり、平井和正は端倪すべからざる、なんだよ、と思った。まだまだ、きっと。(おっぺ)
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