感想文等 | 仕業人の結末は、他の最終編のどれと比べても最も陰惨だ。
剣之介が死ぬ。お歌も死ぬ。しかし、彼らの死は、全く何の意味もない犬死にでしかない。仕業を遂行中の「殉死」でもなければ、誰かを助けるための「自己犠牲」でもない。 又右衛門の失策から仕業人に目がつけられ、本来は又右衛門を捕縛に来た捕り方達に、又右衛門の家に来ていた剣之介が捕らえられ、拷問され、お歌と共に逃げ出したものの追いつかれ、そして、どぶ川の中で共にずたずたに切り裂かれ死んでいったのだ。
それは物語の途上のことであり、彼らの死は主水に衝撃を与えはしたがストーリーに結末や結論を与えるものでもない。 いわば、剣之介とお歌は普段の物語中での「被害者」役を果たしただけなのだ。中村主水が行動するための「頼み人」役になったにすぎない。
この「頼み人」に仕業料を払うことはできない。だから、又右衛門は動くつもりはない。 「江戸もそろそろやばくなってきたし」と、特に仇討ちなども考えることもなく、上方に逃げだそうとしているだけだ。 又右衛門は、自分の失策から火の手が上がったのだとは気づいていない。だからなおのことクールなのだが、もともと仕業人グループは、これまでのチームと比べても特別に仲間同士の関係はドライだったのだ。仕置屋稼業にしても、市松こそ一歩離れた感じだったが、主水・捨三・印玄の関係は仕留人・仕置人時代に準じたものだったし、最終編でのおこう・市松も含めた交情の拡大は明確だった。
だが、仕業人においては、初回から最終編までの中で、ほとんどこうした交情が育つことはなかったのだ。 主水は剣之介に対しては、同じ武士としての何らかの感情はあったに違いない。一度は酒を共に飲もうと誘ったりもしていた(ちなみに、甘党で酒は一滴もダメだった主水が、この仕業人時代から飲酒癖を持ち始めている)。 剣之介達の死を知り、主水は呆然と内心でつぶやく。 (死んだか……死んだのか……剣之介も、お歌も……)
だが、仕置人という楽しい日々を過ごし、仲間との交情をつい求めがちな主水にとっても、やいとや又右衛門という男は剣之介より先に仲間になっていても、最後まで踏みこんだ部分がないままだったようだ。 それは、やいとやに対する呼びかけ方が示している。
可哀想なやいとや(泣) 主水は、たとえば鉄のことは「念仏」と呼んだり「鉄」と呼んだり。 秀のことは「かんざし屋」とか呼ばない。一貫して「秀」。 では「屋号」でしか呼ばない奴はいたっけ、というと、勇次のことは「三味線屋」とは呼んでも「勇次」と呼んだことがあったかどうか、記憶は定かではない。 山田朝右衛門のことも、「朝右衛門」とか呼んだことはないんじゃないか。 まあ、総じて仕事人以降はつきあいがかなりドライだから。。。と思ってもいいのだけれど(勝手にいいことにするのだ)、それ以前、仕業人の時、やいとやだけはとうとう最後まで「やいとや」1本で、「又右衛門」とか親しく呼んでもらえたことってないのよね。 結局、そういうことだったのかー。。。とか思う。。。。
そして、主水は剣之介達の死が又右衛門の失策から来たものであることを知り、彼と決別する。 主水が剣之介の仇を討つために対峙する相手は、仕業人達が仕置きした男の娘婿だ。彼は決して悪人などではない。仕置きされた男の娘が、父の死によって彼の悪行を知ってしまい、絶望のうちに死んでいった。そのことを憾みに思って仕業人達を挑んできたのだ。 糸井貢がかつて主水に言っていたことだ。「俺たちに殺された奴にだって、家族や好きな奴がいたかもしれん!」。それが、はっきりと目の前に立ち現れてきたのだ。
だから、この剣之介の仇討ちは、仕置や仕業などではない。ただの恨み晴らし合戦でしかない。
主水は、仕業人としてではなく、中村主水個人として相手に対峙する。「中村主水だ……」。
そして、一刀のもとに切り捨てる。
仕置でも、仕業でもない、ただの恨み晴らし合戦……。
「恐ろしい男だ……」と、ただ傍観するのみの又右衛門が慄然と口にする。 その又右衛門と捨三を一顧だにせず、言葉を交わすこともなく、主水は歩き去っていく。 又右衛門も、捨三も、そんな主水にかける言葉はない。追うこともできない。
二度と再び、又右衛門は、そして捨三さえも、主水の前に姿を現すことはなかった。
これが、仕業人の「結果」だった。
仕置人チームの楽しい日々、それを取り戻そうとした仕留人時代と壊れていく夢想、ただ義務感からのように再開した仕置屋とそこから生まれた交情、それをやり続けようとして惨めに終わっていくしかなかった仕業人グループ。
中村主水は……
何を思いながら歩き去っていったのか……(おっぺ)
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