*復興天守(西日本)*


清洲城(愛知県清洲町) 平成元年(1989) 清洲城にいつから天守が有ったのかは定かではありませんが、江戸の初期には本丸に大天守・小天守に相当する櫓が有ったようです。
名古屋城の築城に際して殆ど全ての建物が移築(というか材料になって)して撤去され、清洲城には何も残らなかったようです。

現在の清洲城址は本丸跡に僅かな土塁と碑が立っているのみですが、川を挟んだ位置に平成元年、天守が建設されました。
天守の外観はなにも判っていないので、この天守は古風な天守を想定して造られたものです。

伊賀上野城(三重県伊賀上野市) 昭和10年(1935) 伊賀上野城の天守は五層で建築される予定、というか落成寸前に暴風により倒壊してしまったようで、その後再建される事無く天守台のみが残されました。

 時は下って昭和10年、この地選出の代議士である川崎克氏により天守の再建がなされました。
 当時は大阪城で鉄筋コンクリート製の天守が建つなど戦前の天守再建が活発だった時期ですが、川崎氏の趣味?により木造での再建になりました。

 とはいえ「天守を復元する」などという発想の無かった時代の事で、その形状・構造には余り説得力は有りません。

長浜城(滋賀県長浜市) 昭和60年(1985) 長浜城は天正三年頃、秀吉によって築かれその時に三層の天守が上がったようです。
この天守は元和元年に廃城となった際、彦根城の山崎三重櫓として移築されたという伝承が有りますが、現存していないので確かめる事は出来ません。

現在建っている天守は、昭和60年に秀吉時代の天守を想定して建設されたものです。
位置的にも形状的にも本来の物では有りません。

大阪城(大阪府大阪市) 昭和6年(1931) 大阪城の天守は秀吉によって築かれ大阪夏の陣で焼失したものと、その後徳川幕府によって大幅に改築された際に築かれ寛文5年(1665)に落雷で焼失したものが有る事が知られています。

現在の天守は昭和六年に徳川による天守台の上に秀吉時代の天守をモデルにして建築されたものです。

当時としては最先端の鉄筋コンクリート製で、戦後本格化する再建天守の雛型といえるものです。

岸和田城(大阪府岸和田市) 昭和29年(1954) 岸和田城の天守は慶長二年(1597)に建てられ、文政10年(1827)に落雷により焼失しました。
五層の天守でしたが、現在見られる昭和29年製の天守は予算が足りなかったのか三層になっています。

岩国城(山口県岩国市) 昭和37年(1962) 岩国城天守は慶長13年頃に完成しましたが、僅か7年後の元和元年に「元和一国一城令」により廃城となり破却されました。
その辺の事情はイロイロ有ったようなので、Googleで探してみて下さい。

その外観は三層と五層が張り出す南蛮造りの特異なものだったようで、それを再現して昭和37年に鉄筋コンクリートで建てられたのが現在の天守です。

但し、錦帯橋からの景観を考慮して本来の天守台から少し離れた位置になっています。

小倉城(福岡県北九州市) 昭和34年(1959) 小倉城の天守は南蛮造りで破風を全く持たないという当時の最先端の天守建築だった訳ですが、現代では受けが悪いと思われたのか、昭和34年に外形はほぼ同じなのに、破風などを大幅に追加して鉄筋コンクリートで再建されました。

この、いかにも外観だけ飾り付けました、みたいなやり方が悪しき天守復興の典型としてよく槍玉に上がっています。

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