*復興天守(東日本)*


久保田城御隅櫓(秋田県秋田市) 平成元年(1989)
秋田市にある久保田城の天守、いやこれは天守ではありません。
本来この位置には二層の櫓が建っていました。再建された現在の建物も二層目まではそれを再現しています(多分)。
が、その上に望楼を追加して四層の天守風にしてしまいました。

理由は色々と有るでしょうが、久保田城は石垣が無く土塁造りの城なので、植生が繁茂していて、二層で復元しても城下から殆ど見えないというのも一因だったのでは、と想像しています。
忍城御三階(埼玉県行田市) 昭和63年(1988)
忍城は行田市街に飲み込まれ遺構は殆ど見られません。
現在、本丸跡のごく一部が行田市郷土博物館になっており、その一角に天守風の建物が建っています。
とはいえ、天守に相当する御三階が建っていたのは本丸ではなく三の丸でした。

外観は全体的な形は似ていますが、大きさが異なって(大きくなっている)いて、窓の数も増えています。

関宿城御三階(千葉県関宿町) 平成6年(1995)
関宿城は関東の河川交通の要衝でしたが、護岸工事などで殆ど遺構は残っていません。
関宿城址から少し離れた利根川と江戸川の分岐点の南側の広大な堤防の上に千葉県立関宿城博物館が建っていますが、その一角に関宿城御三階が再建されています。

関宿城には二度にわたり御三階が造営されましたが、二度目の造営では江戸城富士見櫓を模したと伝えられています。
そのため、現在の建物も富士見櫓を模して造られています。

大多喜城天守(千葉県大多喜町) 昭和53年(1978)
大多喜城の本丸跡に建つ城郭風の千葉県立総南博物館が通常大多喜城天守と呼ばれています。
なお、関宿城も県立の博物館(千葉城は千葉市立)なんですが、千葉県は天守風建築物が大好きなようです。

大多喜城では近年の発掘調査の結果、天守は建っていなかったという線が濃厚になってきた模様です。
そうすると、これは模擬天守に降格することになるのでしょうか?

久留里城天守(千葉県君津市) 昭和54年(1979)
二層造りですが、一般に天守と呼ばれています。
この櫓は本来は現在建っている場所の隣に建っていたそうで、外観もそれなりに再現されているようです。

高田城御三階(新潟県上越市) 平成5年(1994)
高田城の天守に相当する御三階は江戸城富士見櫓に似ていたらしい、というくらいで正確な外観は判っていません。

そのため、木造で再建されたこの建物も復元と呼ばれる事は有りません。

ていうか、これってホントに木造なんでしょうか?
一見して木造だったんですが、ちょっと違和感が有ったような・・・

大野城(福井県大野市) 昭和43年(1968)
大野城の天守はかなり特異な形状だったようです。
絵図を見てもエッシャーの絵のようで、イメージが沸きません。

現在建っている天守はごく普通の形になっていて、それを彷彿とするものでは有りません。

岐阜城天守(岐阜県岐阜市) 昭和31年(1956)
岐阜城には、織田信長により最初の天守が建てられたとも言われますが、詳細は不明です。
江戸期には平地の加納城に移転する形で廃城となりますが、天守台等は残りました。

明治の末にこの天守台の上に木造の天守が造営され、また戦後の早い時期に鉄筋コンクリートで再建されるなど、岐阜の方はどうしてこんなに天守が好きなんだろうと感心します。

形状としては特に根拠の無い古風な天守となっています。

浜松城(静岡県浜松市) 昭和33年(1958)
浜松城には天守が非常に僅かな期間にしろ存在した事が判ったのは最近の発掘調査の結果によります。

当然、外観などは全く判らないので、現在建っている天守がそれを復元している訳ではありません。
昭和33年に建築された際のベクトルとしては模擬天守となんら変わる所は有りません。

掛川城(静岡県掛川市) 平成6年(1995)(木造)
掛川城天守は木造で本格的に再建されています。
が、ある程度判っている江戸後期の外観ではなく、創建当初の様子を(高知城を参考にして)再現しているらしく、復元天守とは認めない方が多いようです。

何故、高知城かというと、どちらも山内一豊によって建てられたから、という事らしいんですが。

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