4 イギリスの宗教改革


 イギリスがローマ教会から別れた一つの要因は、ヘンリー八世の離婚問題で あった。キャサリン王妃との間で男子の王位継承者を得られなかったヘンリー八 世は、教会法による婚姻解消宣言をローマから手に入れることができなかった。 そこで彼は自国の教会をローマ教皇の支配から切り離して独自の国民教会を設立 し、その認可のもとに再婚をはかることを考えた。1534年、彼は首長令を発 して自らを英国教会の最高首長と宣言し、教会統治権を王位のもとにおいた。そ れに対してトマス・モアは抵抗を示したが無駄であった。彼のもとではカトリッ ク教義の変革は行われず、むしろ大陸の宗教改革を支持する者たちを容赦なく弾 圧した。後のピューリタン革命の種子がここにまかれたことになる。

 ヘンリー八世の死後、大陸の宗教事情の転変にともなってイギリスに亡命し てきた者たちが教会改革運動を進めたため、イギリスは政治的変動とあいまって 大きく揺れ動き始めた。こうした動きのなかでカルヴァン主義にのっとったピュ ーリタン(純粋派)が国民の間から生まれた。新しいぶどう酒である福音は長老 制教会という新しい革袋に入れなければならないというのが彼らの主張であった 。その後、王権と議会との間で政治権力をめぐって革命に次ぐ革命が繰り返され たが、そこでは常に教会制度ならびに信仰の自由の問題が問われたのである。