2 ドイツにおける宗教改革の進展
ルターの引き起こした宗教改革運動は、ドイツのカトリック教会を二分した
だけでなく、改革運動内部にもさまざまの分裂を生み出す結果となった。第一に
急進主義者が現れたことである。なかでもトーマス・ミュンツァーは武装農民の
蜂起を煽動し、1524年から1525年にわたって破滅的なドイツ農民戦争を
引き起こした。第二にルターに理解を示してきたヒューマニストの巨頭エラスム
スが、カトリック教会そのものをルターが拒否するのをみて、彼とたもとを分か
つことになった。ところで、こうした分裂は帝国議会にも波及し、ルター派の指
示にまわった諸侯たちは、カトリック信仰を保持する皇帝カール五世に対抗して
信仰の自由を訴えたため「プロテスタント(反抗者)」と呼ばれるようになった
。一つの地域共同体には一つの信仰というのが中世の一致の原理であった。しか
し、今やプロテスタント教会の出現によって、一つの地域に複数の信仰理解が存
在する結果となり、そこに政治的な権力抗争がからまって、宗教抗争が頻発する
ことになった。こうした動きのなかで結果的に、信仰は政治や国家の保護の監視
のもとにおかれることになってしまった。30年余りに及ぶ内乱の後、ルター派
はアウグスブルグの和議(1555年)でカトリックと対等な資格と権利を得る
ことになった。その後、ルター主義はデンマーク、スウェーデン、ノルウェーな
どの北方諸国で国教となり今日に至っている。