4 教皇権の隆盛と衰退

1198年から18年問にわたって在位した教皇ィンノチェンチオ三世の時代 、教皇権は政治、経済、社会、文化の多面にわたり隆盛をきわめた。教皇は聖俗 両権の関係を太陽と月にたとえ、俗権は教権を反映するにすぎないとまで断言、 文字どおり教皇権は全ョーロッパ大陸に及ぴ、皇帝や国王は彼の意のままに任免 された。この時代、スコラ学は精徴致をきわめ、ゴシック様式の大聖堂がパリの ノートルダム寺院をはじめ各地に建立され、またフランシスコ会やドミニコ会な どの新しい修道会が誕生した。1215年には第4ラテラン公会議が開かれ、カ トリック信者の宗教的な義務が制度化された。一方、武力をもってアルビ派の異 端運動撲滅をはかり、また第4次十字軍を招集し派遣したのもこの時代である。

しかし、14世紀に入るヒ教皇権の隆盛にもかげりがみえ始める。1294年 から1303年に在位した教皇ボニファチオ八世は、フランス王フィリップ四世 と争うが破門制裁も威力を失い、かえって経済封鎖を受けて窮地に陥るはめにな った。ボニファチオ八世の急死後、フランス王は教皇庁を南フランスのアビニョ ンに移し、以後約70年にわたってそれをフランス勢カ下においた。その問の教皇 はすべてフランス人であった。このようなフランスによる教皇幽閉策、教皇庁の 私物化に対抗して、1378年から40年近くもの問、ローマに対立教皇が立て られるという異常な事態に進展した。この教皇庁の分裂は統一中世そのものの崩 壊を意味した。こうした非常事態をのり切るために、各国の司教たちは公会議を 重ねて開催して教会の方針を定めようとしたが、この動きはローマ・カトリック 教会の最高権威は公会議のみにあるという「公会議至上主義」を生み出し、教皇 庁と対立することになった。ここに改めて、キリスト教世界における至上権は何 かをめぐる論争の激化を招いたのである。