3 教権と俗権の対立

ローマ帝国の衰退に反比例して、ローマの教皇の力は強まっていった。事実、 5、6世紀には有能な教皇が続出し、ゲルマン人の相次ぐ侵略からローマ市を守 ることに貢献した。そのため476年に西ローマ帝国が滅亡した際には、教皇庁 は政治勢力としても機能し始め、従来の帝国の直轄領は教皇領とされ、世俗の権 勢と富を合わせもつようにさえなった。また、フランク王国がキリスト教に転じ 、カール大帝が西ローマ帝国の復興に着手した際には、カトリック教会とゲルマ ン諸国家との結びつきはさらに強まった。しかし、カール大帝の死後、帝国はま もなく分裂し、962年にはオットー大帝が「ドィツ国民による神聖ローマ帝国 」の名のもとに西ヨーロッパを再統一した。キリスト教は帝国の拡張の波に乗っ て東ヨーロッパに広がったが、1054年、9世紀以降ロシアに根を張っていた ギリシャ正教会は、こじれた教会政治と典礼問題のためにローマ教会から分裂し てしまった。

11世紀前半、教皇庁をローマ貴族の私物化から解放しようと、神聖ローマ帝 国はイタリアに干渉し始め、持にハィンリヒ三世は自らよしとする聖職者を教皇 座をはじめ各地の教会指導層に送り、内部改革をはかった。それは功を奏し、教 会は自らの使命にめざめて種々の刷新がなされたが、同時に、外部からの干渉そ のものを教会の自立性への重大な侵害と受けとめるようになっていった。その結 果、教会と国家、教権と俗権の問の緊張、衝突は免れない状態に進展していった 。とりわけ、教皇庁は二つの問題解決に挑んだ。一つは聖職位売買(シモニア) の問題で、すべての聖職位はただ教皇庁のみによって任命されるべきであって、 その他の権力は一切これに関与してはならないという指針である。この具体策と して教皇の個人的顧問団である枢機卿制が設けられ、教皇の選出はこの枢機卿団 の秘密投票によってなされることになり、今日に至っている。もう一つは、私婚 制の撤廃である。西方教会では司祭以上、東方教会では主教以上の聖職者(教役 者)には独身を要求されていたが、実際には遵守されていなかったのが実情だっ たからである。

ところで、両者の対立はドイツ王ハインリヒ四世と教皇グレゴリオ七世の叙任 権闘争において頂点に達した。教皇はハインリヒ王を破門、王はそれを解いても らうために「カノッサの屈辱」にさらされるはめになった。この事件を契機に教 会と国家の力関係は変動し、次の12、13世紀には教皇権は絶頂期を迎えるこ とになる。