4 迫害時代
ローマの宗教政策は基本的には寛容であり、国家的一致の象徴であるローマの
神々や神格化された皇帝の像を礼拝しさえすれば、土着の宗教は承認された。た
だ、厳格に唯一神を奉ずるユダヤ教だけは例外とされていた。
ところで、キリスト教がユダヤ教の一派とみなされていた間は、皇帝礼拝を免
除されていたが、別の宗教であることが明らかになると、法的規制が強められる
ようになった。キリスト信者が一切の偶像礼拝を拒んだことは、社会の安定と秩
序を脅かす犯罪とみなされたのである。さらに、信者の礼拝集会は人肉を食する
秘密結社とうわさされ、キリスト信者に対する人々の嫌兼悪をあおったことも迫
害の嵐を激しくした一つの要因である。
迫害は初めは地方レベルで、しかも散発的であった。ローマ帝国が、国家の方
針としてキリスト教に対して本格的に弾圧を加え始めたのは、3世紀半ばのデキ
ウス帝からである。この時にはアレキサンドリアの神学者オリゲネス、カルタゴ
の司教チプリアノなどが殉教した。さらに4世紀初頭、ディオクレチアヌス帝は
帝国各地の教会堂の破壊を命じ、キリスト信者に棄教を迫った。迫害は毎回、突
発的かつ短期問であったが、そのたびに多くの棄教者が続出し、迫害の終息後に
は教会内部に深刻な問題をもたらした。すなわち、ひとたぴ信l印を捨てた者は
、以後教会の交わりに永久に復帰できないのか、あるいは、このような者にも救
いの道がまだ残されているのかという議論である。これをめぐってドナトウス派
の厳格主義が現れたが、結局、すでに指導的な地位にあったローマ教会をはじめ
教会の主流は、背教者にもゆるしの道が開かれているということで収拾をみた。
コンスタンチヌス大帝の治世、313年の「ミラノ勅令」をもって、ついにロー
マ帝国はキリスト教を合法的なものとみなした。以後、帝国と教会との関係は急
速に改善され、日曜日はキリストの復活の日として国家の体日となり、迫害時代
に教会が被った損害には国家賠償が支払われた。さらに4世紀の終わりに、テオ
ドシウス帝はキリスト教を国教と定めるに至った。
こうして200年以上に及んだ迫害の時代は終わり、かわって、
国権の手厚い保 護がキリスト教に加わることになった。しかし、それは同時にキリスト教の変質
と教会の堕落につながる危険性をも抱えこむことになった。