2 使徒と初代教会

「復活したキリストこそ真の救い主」と証言する使徒たちのもとに生まれた小 さな群れは、最初「ナザレ派」と呼ばれ、ユダヤ教の一分派とみなされたが、次 第にユダヤ教とは別の信仰であることが人々の目にもはっきりしていった。まも なく彼らは「キリスト者(イエスを油注がれたメシア、救い主と信じる者の意) 」と呼ばれるようになっていった(使徒言行録11・26参照)。初め使徒たち は、地中海沿岸都市に離散していたユダヤ系移民を宣教の対象としたようである 。イエスの十字架上の死からわずか20年から30年ほどの間に、パレスチナか ら数千キロも離れたローマをはじめ沿岸の主な町にキリスト信仰が伝播し、早く もそこにはキリスト共同体(教会)が形成された。

紀元70年に勃発したユダヤ戦争では、ローマ軍はユダヤ教のより所であった エルサレムの神殿を徹底的に破壊し、ユダヤ人は祖国を失って各地に離散してい った。一方、ユダヤ教からたもとを分かつことになったキリスト教は比較的順調 に拡大していったものの、1世紀の教会内部には早くも対立がみられた。あくま でもユダヤ教の遺産(割礼や儀式などの宗教的な規定や民族主義)を守ったうえ でキリスト信仰のあり方を考えようとする一派と、キリストの福音はそれらを超 えたところにあるとする、いわゆる「異邦人キリスト者」との対立である。結局 、パウロが提唱した後者の信仰観が主流となり、キリスト信仰は民族や言語、性 別や社会の身分などに左右されるものではなく、神の国の福音をどのように受け とめるかにかかっているとみなされた。まさにキリストの福音は「民全体に与え られる大きな喜び」(ルカ2・10)と理解されていったのである

ローマ帝国における権力と富の集中化は、少数者の大土地所有という構造のう えに成り立ち、その結果さまざまな社会のゆがみが露呈していた。土地や職を失 った各地の貧民はローマやアレキサンドリアなどの大都市に流入し、不安と貧困 の生活を強いられていた。初期のキリスト信者のほとんどは、このような当時の ローマ社会の底辺の人々や差別されている人々で占められていた。