(3)
 
 空は、まるで嫌がらせのように爽やかで、そしてどこまでも遠く、蒼く澄み切っていた。
 その空を見上げて。
「何だか今日は怒られてばかりのような気がする、俺。お前にも貴之にもマインにも」
「たわけたことばっか言ってるんだからトーゼンでしょ」
「…いやだから、あれからだけど、と、話を続けるつもりだったんだが…途中でマイン切れるし」
 はあ、と何度目かのため息をついて、メイフィアは洗濯籠から取り出したシーツを物干し竿にかけ、脇を洗濯バサミで固定する。
 寮の屋上、共用の物干し場には、二人以外の姿はなかった。とりあえず、話をするにはうってつけである。
「ご主人様をたたく」という、ロボットとしてはほとんど最高のタブーを犯して気落ちしているマインは貴之と舞奈にまかせ、半ば逃げるように――柳川はメイフィアの誘いに応じて滅多に訪れないこの場所に逃げてきていた。
 ちなみにメイフィアが抱えた洗濯籠&中身は、意外に手際よく舞奈が洗濯を済ませていたものである。舞奈は保健室詰めということでこのような家事に関してはさほど経験は無い筈なのだが、あるいはこれもマインのデータを借りた結果なのかもしれない。
 それはともかくとして。
「どーもあんた、自分で思ってるほど器用じゃないみたいだから。自覚して注意すること」
「怒られてるうちが華だってわかってるよ。
 …少なくとも、怒って『くれる』ってことの、そのありがたみは分ってるつもりだ」
「…………えと」

 そんなこと言われたら、これからあたしが怒れないじゃない。

 心の中で毒づいて、それから肩を竦めてメイフィアはさっさと気分を入れ替えた。
「きっと、あんたって叱ってくれる人が傍にいないとダメなのね。
 …一応、他人を思い遣る気持ちはあるみたいだけど…何でも自分一人で勝手に決めて、一人でどうにかしようとして。
 でもね、そういうの、見ててイライラしてくんのよ。
 なーに一人で悲壮ぶって、かっこつけてんだか、って。
 それでもうまくやっていけるんならまだしも、バカなことばっかやってるし。
 ――苦笑いしてんじゃないわよコラ」
「イヤ、口惜しいけど一言もないから苦笑いするしかないだろ」
「あーもう。頼りない。
 ――だからほっとけないんじゃない」
 屋上のベンチに腰掛けている柳川の前にツカツカと歩み寄ると、メイフィアは屈みこんで顔を寄せた。
 そして、軽く言う。
「あんた多分、60歳までは生きられないよね」
「………」
 憮然としている柳川に、ニコニコと笑顔さえ浮かべて、メイフィアは続けた。
「あんたの異母兄達もそうだったからねー。
 鬼の獣性に理性を蝕まれてー、どんどん人間じゃなくなっていく自分に怯えてー、さんざ痛くて苦しい思いをしてボロボロになるまで衝動を抑えて、で、それに耐え切れなくなって死ぬわけだ。
 いやー、カワイソウダネー」
「とことん誠意がないぞ、おい…」
「ないもん」
「…あのな」
「間違ったって柏木家のみんなにこんなこと、冗談だって言いやしないわよ。アンタだから言ってるの。
 で、どうなの?ん?」
「どう、とは?」
 ぐい、と更に顔を寄せて、笑顔を崩さないままメイフィアは軽く言った。
「仮に、あんたの余命があと20年だとしてー。その20年を、あんたはどう使う?ってこと」
「ふむ…」
 すこし考えて、かるく柳川は瞼を閉じた。
 そして、言う。
「――仮に――ある日突然、俺の中の鬼が消えて、昔の、覚醒する前の柳川裕也に戻ったとして。
 それは、ハッピーエンドかもしれないが、俺は満足できないな」
「どうして?」
「柳川裕也という人間は、自分の大事な人間を守れなかった、弱い人間だから」
「だから?」
「昔の俺じゃダメだし、今の俺でも……ダメなんだ」
 相変わらず自分の真正面にあるメイフィアの顔を見つめ、それから目を閉じて柳川は頭を垂れた。
「ここに教師として招かれた時――どうして俺が?って思ったさ。
 耕一にしろ浩之にしろ…歳は俺より下だが、人として男として、俺より器量はずっと大きい奴らばかりだ。まあ、お調子者の耕一にそんな事言ったらつけ上がらせるだろうから言わないが。
 そんな奴等に、俺に何か教えられることがあるか?
 精々…反面教師、くらいの意味しかないだろ」
 別に自虐というわけではない。ただ事実をそのまま、他人事のように淡々と、柳川は口にしていた。
「…理事長は、なんて?」
 その問いに、柳川は苦笑したようだった。
「なにも。あの人は、何も教えてくれなかった。ただ黙って微笑むだけで。
 ――自分で考えろってわけさ」
「ふうん…で、答は出たわけ?」
 おもしろそうに相槌をうつメイフィアを見ないまま、柳川はあっさり答えた。
「わからんね。
 大体、仮に答が出たところでそれが正しいのやらどうか、分かったものじゃないだろう。
 あの人が俺に何を望んで、あるいは何を狙っているやら、見当もつかん。
 だから、俺は、俺のできることをやるだけだ」
「…毎日騒ぎを起こして校舎を破壊しまくって、傍迷惑をふりまくこと?」
「…いや…否定はできんが…殊更にそーゆーことじゃないつもりではいるんだが…」
 やや顔を上げ、上目遣いの視線を柳川は向けた。
 悲しそうでも、怒っているようでも、笑っているようでも無かった。
 感情がないわけでも無かった。
 ただ、問い掛けるような目。
「……本当は、でも、そんなことはどうでもいいのさ。俺が、今、ここにいるとりあえずの理由ってのは、そんなご大層なもんじゃない」
 ウソをつく気にはなれなかった。
 だから、柳川は素直に、言った。
「口惜しいから」
「え?」
「俺はただ、自分という人間が、このまま終わっちまうのは口惜しいだけなんだ。色々、理屈を並べ立てても。
 具体的に何を、なんて考えちゃいないが。
 だが、とにかく、このままじゃ終われない。
 証、というか。
 古い表現だが…男子一生の仕事、本懐って奴を遂げたいってことかな?
 逆に言えば、それを果たすことができれば、残った時間がどうこうなんて、そう大した問題じゃあない。まあ、時間はあるにこしたことはないが。
 その、なんだ。
 つまりは、ただそれだけのことだ」
「…………」
 つい、とメイフィアは背を伸ばした。そのまま座る柳川を見下ろす。
 腰に手を当て、そして少し苦笑した。
「まあ…合格かな。またバカなこと言い出したら、ブン殴ってやるつもりだったけど」
「そりゃ…どうも」
「赤点スレスレだけどね」
 少し笑って、胸の下で腕を組むメイフィアの顔を、柳川は見上げた。
 しばらく、そのままじっと見つめて。
「…なに?どうしたの?今更ながらにあたしの美貌に気づいた?」
「それもあるが」
 冗談とも本気ともつかぬ返答に、思わずグラリとよろめきかけるメイフィアを見据えて、柳川は少し眉を寄せた。
「分類するなら憂い顔…になるのか?何故そんな顔をする?」
「…あんたって鈍いようでやっぱ鋭いわよね」
 予想に反して誤魔化しも否定もせず、肯定してきたメイフィアに少し調子が狂って…というか、昨日から、自分達はどこか狂いっぱなしではあることに今更ながら思い至って、柳川は内心ため息をついた。
「別に大したコトじゃないの。
 なんていうか…あたしには縁遠い答だなって。アンタのさっきの言葉は。
 アタシみたいに寿命の無い存在からすれば、有限生命体の考え方って違うんだなーって」
「お前だって元は人間だろ?」
「うん。…そうなんだけどね」
「…まあ、座れよ」
 ちょっと考えて、頷くとメイフィアは柳川の隣に座ってきた。
 それから、どことなく複雑な顔をして。
「なんか…そういうのうらやましいかなって、思った」
「?――どうした、らしくもない」
「ん。らしくないのはわかってるけど」
 一旦口を閉じて、それからメイフィアは顔を向けて伺うような目をした。
「…アタシは、どんなに規格外でも…自分はやっぱり人間なんだな、って思う時もあるわけよ。
 精々100年程度の寿命しかない人間の考え方と、ルミラ様みたくほとんど不老不死に近い存在とでは、時間の捉え方とか、それに伴う人生観とか」
「………」
「永く生きてるとさ。物事に対して新鮮な感動とか、驚きとか、喜びとか…感性ってものかな?そういったものが、磨耗していくのね。
 あたしだってさ。昔は、恋の一つや二つしたこたぁあるわよ。それこそ藤田家のバカップル共も真っ青になるほどラブラブな」
「………………悪い、全く想像できん。というかしたくもない」
「あはは。まあ若気の至りってやつよね。うん。
 ――実際、500年以上も前の話だし。情けないけど、相手の顔も、もうあまり良く憶えていない。
 人間には永いよ。500年って。
 適当に忘れていかないと。500年分の記憶持ってなんて、生きていけない。
 あの頃は、貴方さえいれば何も欲しくない。そんな気持ちを持ってた筈なんだけど。もうそんな情熱、ほとんど忘れかけてて」
 元々、年老いて死んでしまうのが嫌だった。醜く老いるのが嫌だった。だから肉体を捨て魂のみでも生き続けられる方法を模索して、成功させた。
 最初の100年はバラ色だった。
 次の100年で疑問が頭を擡げた。
 次の100年で懊悩した。
 生きて、死ぬ。それは生命にとって当然のサイクルであった。
 そこから外れてしまった自分。
 本来あるべき場所から逸脱してしまった存在(アウトサイダー)。
 純朴な老夫婦の姿に、人はこんなに美しく老いることができるのだと気づいた時。
 自分が、人としての幸せを失ってしまったことに気づいた時。
 自分が得たものが、時の流れに置き去りにされた自分を通り過ぎてゆく喪失感を覚えた時。
 本来人である自分が、人の世に長く留まることは、もうできないのだと知った。
 磨耗していく自分の情熱。
 熱気を失っていく、自分にとっての世界。
 思えば、元から好きではあったが自分が賭け事にのめりこんでいったのは、この時期ではなかったか。
 あり余る時間を無駄に費やせる、この遊びに。
 そして、次の100年で開き直った。
 なってしまったものは仕方が無い。在るがままに在り、生きたいように生きるしかないではないか。
 多少、不満足ではあるがそれでも当分は、まだ生きるのに飽きてはいないから。
「…まあ…一人じゃなかったからね。デュラル家の皆がいたから。
 でも、もう本気で恋をするのはヤメにした。適当に遊ぶくらいが良いやって。
 時間がたつに連れて、好きになった男と心が離れていくのも、あんなに愛し合った人を嫌いになっていくのも、一人だけおじいちゃんになっていくのを見るのも、見送るのも。もう、沢山」
「…おい。長々と話しやがって。何を企んでやがる」
「企むだなんてー」
 棒読み口調でそんなこと言いながら、メイフィアはクスクス笑って。
「だから、まあ、アタシの長い人生20年ばかし寄り道しても、いいかな?って」
「ちょっと待てっ!お前の人生の暇つぶしに人を巻き込むなっ!」
「男なら一夜の責任とってよ〜?」
「ぐっ…!お、お前、さっき言ってたことと違う――――!!」
「まあほら。あんたってからかってて飽きないし。マインのこともちょっと心配だし」
「そーいうのを余計な世話というんだっ!」
「それになんだか見てて頼りなくてつい手を出したくなるし。
 言うなれば、のび太君があんまり頼りないもんだからあたしがついててあげないと、という理由で結婚するしずかちゃん?」
「誰がのび太だ誰がのび太だ!!?」
「そこのメガネマン」
「共通点はそれくらいだっ!」
 うがー、と喚く柳川をしみじみ見つめ、重々しくメイフィアは頷いた。
「やっぱあんたオチョクリ甲斐あっておもしろいわ」
「誉め言葉かっ!誉めてるのかそれっ!!」
「こーいうのも押しかけ女房っていうのかしらねー」
「押しかけ女房以外の何が…!」
 唐突に黙り込んで、柳川は、素で真剣な目でメイフィアを睨みつけた。
 一方で微妙に視線を逸らせて。
 メイフィアは、少し拗ねたような顔をしていた。
「なんとかしてあげる。アンタのこと」
「…あ?」
「アンタ、あたしを誰だと思ってるの?
 魔界貴族デュラル家に数百年も組してきた魔女。メイフィア・ピクチャー様よ?
 そのあたしがついてるんだから。そうそう簡単に、あんたが予想しているような結末なんて、アタシが迎えさせてやんないからね。
 あたしがあんたをどーにかしてやるわよ強引に。わかった?」
「………」
「わかったか、って訊いてるの!」
 ぐい、とシャツの襟首を掴んで、メイフィアは強引に柳川を引き寄せた。
 そんな、怒ったような目をしているメイフィアに、柳川は困ったように言う。
「…なんでだよ…」
「なんでとか言うなっ!あたしだってわかんないわよ!
 ただ…」
 口惜しげに唇を歪めて、それから吐き捨てるように。
「ただ…ほっとけないって思っちゃたんだからしょうがないじゃない!
 このまんま、アンタを野放しにしとくの、嫌だって思っちゃったんだから!
 しょーがないじゃない!
 今更…いまさら、こんな感情がまだ自分にも残ってたなんて、思っちゃいなかったんだから!」
 掴んだ襟を解放して。
 少し、口を尖らせてメイフィアはいった。
「女は…何歳になっても女なんだよ。
 そして、あんたは男。
 わかってよ、それくらい」

 …………。
 ………………。

「…プッ」
「な、なによー笑うことないじゃない!」
「いや笑うっていうか…その…。
 お前とは結構付き合い長いが、何だか今、初めてちょっとカワイイとか思っちまった」
「アンタね、いい歳した女をカワイイってね…」
 くすくす笑う柳川に憮然としながらも、メイフィアは何か言いかけて、ハッと気づいた。
 柳川の瞳に、静かだがいつもとは別種のものがあった。
 ギラツクような激しいものではないが、その、僅かに光る黄金色の蜀のような輝きは…
「…鬼?」
「そうだな。今の俺は、ちょっと鬼よりかな」
 あっさり認める柳川の様子から理性はしっかりと保っているのは間違いは無かった。ただほんの僅かに、裏の鬼の獣性が出ているだけなのだろうが…。
「一つ尋ねる。お前さっき、俺をなんとかしてみせるとか言ったな」
「――それがなに?」
「根拠はあるのか?何とかするための」
「それは……正直、何ともいえない。今まであんたを観察してきてみて、ソレが、そうそう簡単に扱えるようなもんじゃないのはわかってるけど」
「フン。…じゃあ訊くが、もしも、どうにかできなかった時は…どうするんだ?」
 無論、そのことを考えなかったわけがない。
 自分の魔術や錬金術の才を以ってしても、、この鬼の本能を抑えられなかった時はどうするか。
 何の気負いもなく、自然に、静かにメイフィアは宣言した。
「その時は…アンタを殺す」
「…………」
「アンタが本物の殺人鬼になる前に、アタシが殺す。
 他の誰にも渡しやしない。アタシがアンタを、…ブッ殺してあげる」

 ニヤリと――歪んだ愉悦の笑いを、柳川は口元に浮かべた。
 ゆっくりと右手を上げて……。
 無造作に、メイフィアの乳房を掴み上げた。
「痛ッ…!」
 触るなどという生易しいものではなかった。握り潰しそうな力で思い切り鷲掴みにされ、流石にメイフィアも苦痛のうめきを洩らす。
「この…!」
 苦痛で顔を顰めながらも、睨み返しながらメイフィアが何か攻撃的な魔術を発動させようとした刹那、フッと乳房に食い込んでいた指から力が抜けた。
 そのまま、今度は癒すように優しく、フニフニと弄びはじめる。
「気に入ったよ。気に入ったよ、お前。
 本気だなお前。
 いいぞ。
 お前になら殺されてみたいな」
 相変わらず瞳に蜀の光を灯したまま、しかし意外な清々しささえ感じさせる顔をして、柳川はメイフィアの腰に手を伸ばした。
 そのままジーンズのジッパーに指をかけ、ゆっくりと下ろしていく。
「ちょ…あんた、まさかこんなトコロで…」
「したくなったんだからしょうがない。…これがエルクゥというモノさ。闘争と淫欲を何より好む生き物の本性という奴だ」
 不意にイタズラっぽい笑いを浮かべ、柳川はメイフィアの耳元でささやいた。
「これがお前が相手をしようとする鬼だ。数百年生きた魔女でも、相手をするのは少々きついんじゃないかな?」
「ふん…」
「……なあ。今ならまだ、止められるぞ?昨日からのこともあるから、そうがっついてるわけでもないし…」
「…なに?脅しでもかけてるつもり?」
「そうとってもらって結構だ。で、どうする?」
 二人はしばし無言で睨み合った。
 が、やがて、自分の胸を好き勝手に弄ぶ柳川の手を掴みあげ、メイフィアは口を開いた。
「卑怯ね。…そんな言い方されたら、拒否なんてできないじゃない。もっとも…」
 仕返しとばかりに柳川のズボンに手を伸ばし、突き破らんばかりに硬く強張ったものを、上から撫で上げる。
「こんなになってるのにお預け食わせるのは可哀相だし。これもボランティアよね」
「言ってろ」
 するりと、ジーンズの後ろから侵入を果たした手をそのまま進ませ、後ろのほうをほぐしはじめながら、空いた左手を背中に回し、抱き寄せる。
「な…なに?」
 自分の秘所を責める指を堪えながら、メイフィアは間近にある顔を見つめた。
 間近にあるのは、少し困ったような、照れたような鬼の顔。
「昨日まではこんなこと、想像もしてなかった」
「ん。そうね。あたしも」
「今、この瞬間…初めて、心の底からお前を陵辱したいって思った」
「あのさ。もー少し、言葉を選んでくれると嬉しいんだけど。抱きたいとか欲しいとかアイシテルとか」
 少し唇を歪めて、失笑とも取れる顔をすると、柳川はもうそのまま何も言わずに自分の首の後ろに手を回してきたので。
 結局、メイフィアも何も言えないまま、唇を塞がれた。

  * * * * *

「遅かったね二人とも」
 二時間ばかり屋上から戻ってこなかった柳川とメイフィアを迎え入れ、貴之はそのまま無言で自分の脇を通り過ぎて台所に入る二人に怪訝な視線を送った。
 冷蔵庫を漁ってドリンク剤に口をつける柳川の後ろを通り過ぎて、メイフィアは不審そうに自分を見つめてくるマイン&舞奈にどよーんとした口調で、尋ねる。
「あー。なんか胸焼けするんだけど。薬ない?」
「?食べ過ギデスカ?」
「――胃腸薬デイイデスカ?」
「ん。まあ気休めだけど」
 マインから錠剤の瓶を受け取って、2,3錠ポリポリ齧る上司に、不思議そうに舞奈が尋ねる。
「トコロデ、御昼御飯ハドウシマス?流石ニ御昼マデ厄介ニナルノハ…」
「―――今は食べ物の話しないで。想像するだけで気分ワルイ」
 うーぷ、と口元を抑えるメイフィアに、不思議そうに貴之が尋ねた。
「一体どうしたっていうの?…魔術で治らないんですか?」
「んー。まあ基本的にはコレって過充電みたいなもんだし。…あーやっぱダメね。ちょっと保健室に行ってエリクサー飲んでこよっと」
「…大丈夫デスカ?」
 普段上司を結構軽んじている舞奈も、流石に見かねて肩を貸す。
「おい…大丈夫なのか本当に?もう少し休んでいけ」
 柳川もそう声をかけるが、メイフィアは首を振って玄関に向った。
「まあ、今日はもう帰るわ。家の方に連絡も入れてないし。詳しいことは明日また学校でー」
「ああ…」
「メイフィアさん。俺、送っていきますよ」
 不意に貴之がそう言って、上着をとりつつ後を追いかける。
 そのまま柳川の脇を通り過ぎる間際、そっと耳打ちした。
(マインの方もよろしくね)

 バタン。

 ドアが閉じられ、部屋には柳川とマインだけが残された。
「…………」
「…………」
 双方とも居心地の悪さを感じ、しばらく押し黙ったまま、しかし相手を無視もできず。
「柳川様…御昼、ドウサレマス?」
「いや…朝が遅かったし、まだいい」
「ハイ」
 それっきり、また会話が途切れてしまう。
 いつまでもその場に立っているわけにもいかず、柳川はドリンク剤の空き瓶を台所の危険物入れに放り込むと、リビングのソファーに座った。テーブルに置いてあった新聞を取り、パラパラと紙面をめくる。
 と、その前にマインが立った。
「柳川様…」
 小さく呼びかけて、そして俯き加減だった顔を少し上げて。
「私、謝リマセンカラ」
「…………」
「叩イタ事、謝リマセンカラ」
「ああ。それでいい。お前は謝らなきゃいけないことなんて、何もしていない」
「ハイ。…デスカラ、柳川様。柳川様モ、昨日ノ事ハ謝ラナイデ下サイ」
「………」
 表面上は全く動じている気配など見えないメイドロボを眺め、柳川は一回、軽く深呼吸をした。
 そして言う。
「どうも男ってのは…現金というか、臆面が無いというか。いや、単にそれは俺個人の問題なのかもしれんが」
 一旦、唇を僅かに湿して続ける。
「さっきまで、メイフィアとセックスしてた」

 ピク、と僅かに指の先を震わせただけ。マインが見せた表面上の変化は、それだけだった。

「昨日の仕切りなおしって意味もあったし、互いの意志の確認でもあったし、何と言うか、感情が昂ぶってな。そういうことになった」
 なお沈黙を守るマインを見据え、柳川は、ゆっくりと言った。
「で、俺が自分のことを臆面が無いとか言うのは…これからお前とも同じ事をしよう、と思っているからなんだな」
「!」

 ほんの僅か。
 ほんの僅かだが、しかし確実に、反射的に。
 マインは後退った。

「怖いか?それともそれは嫌悪という感情なのかな」
「……………」
 どちらでもいい、と思う。
 そう思われても仕方がないと、思う。
「マイン」
 そっと、柳川は呼びかけた。
「少し、俺の話を聞いてくれるか?」
 マインが、静かに頷くのを確認してから、柳川はソファーに背を預けると、目を閉じた。

「――何かをやろうというのなら、それには必ず責任が伴うものだ。
 誰かを好きだと言うのなら、…それには必ず責任が伴う。
 それは、相手を幸せにするということ。
 好きな相手を、誰よりも幸せにするということ。
 自分の全身全霊をかけて、相手を幸せにするということ。
 ――少なくとも、俺にとってはそういうことだ。
 好きだと言ったその瞬間から、俺はその相手を幸せにしなきゃいけない。

 だから、どうしても俺はその言葉が言えなかった。

 俺が、一番幸せになってもらいたいのは、ただ一人だったから。

 俺には、それだけで手一杯で、余裕なんか無かった」

 一旦口を閉ざし、柳川は視線を窓に向けた。
 ガラス越しに見える空は、やはり澄み切った蒼が無限に広がっていた。

「誰かを幸せにするということ。
 誰かを救うということ。
 それは、とてつもなく難しく、重いものだ。

 一人の、浮浪者の老人がいるとする。もう5日ほど、何も食べていない。
 その老人にパンを一つ与えること。それは、善行というものだろう。
 だが、パンを恵んでやった方は、それで老人を幸せにしてやれたのか?救ってやれたのか?
 確かに一時凌ぎにはなっているさ。だが、三日後には、その老人はもう生きてはいないかもしれない。
 パン一つで、本当に誰かを救ってやれることなんて、できやしない。
 人を救ったり幸せにしてやれるってのは、そんな簡単にできるもんじゃない。
 だから俺は、誰かを救って『やろう』なんて、自分の不遜さに気づいてもいない偽善者が反吐が出るほど嫌いだ」

 空から視線を戻し、じっと立ったまま動かずに自分の話を聞いているマインに苦笑する。

「――話が逸れたな。

 誰かを幸せにする、というのはどういうことか。
 一言で言うなら…それは、悲しませないこと。
 だから、この世で一番ヒドイ事は、自分が一番幸せになってもらいたい人に、辛い思いをさせたり、泣かせたりすることなんだろう、と思う。

 けど。俺は、こういうことに関しては、とても、……どうしようもなく、ヘタクソだから。
 好きになった相手を、不幸にするのが怖い。
 だから俺は誰かを好きになるのが怖い。

 怖い。

 これが、俺の正直な気持ち。
 だから言えない。スキだって言えない。
 それは単なるゴマカシだとしても、そんなものに俺はすがるしかなかった。
 臆病者だから」

 柳川はメガネを外して瞼を抑えた。そのまま、眼をゆっくりと揉み解しながら、言う。

「お前をスキだといってしまうことは簡単さ。優しく頭を撫でてやったり、キスしたり。
 お前、それで満足か?それで幸せか?
 だが、俺にはそうは思えない。俺は、それじゃ満足しない」

 先程、お前を抱くと言った時、僅かに拒絶の素振りを見せたマイン。
 そんな反応をさせてしまったのは、自分のせいだ。
 でも、それでも。

「好きだよ、マイン」
「…………」
 何時の間にか俯き加減になっていた顔を上げて、静かな目で自分を見つめてくるマインに、もう一度言う。
「好きだ。…本当は昨日、いやもっと前に、言っておかなきゃいけないことだったんだけど」
「…………」
 むしろ、悲しそうな顔をして、そして、マインはようやく口を開いた。
「ドウシテ…?ドウシテ、デスカ?」
「我侭だよ。――単なる」

 この娘を幸せにしてやれる自信など、無かった。
 先程までの自分の言に従えば、これは無計画、かつ無責任な言葉だ。

「でも、俺は決してお前を嫌っちゃいないって、知っておいてもらいたかったから」

 自分のために、怒ってくれる者がいる。たとえ機械だとしても。
 いや、機械なのに。
 嬉しかった。
 その気持ちを、言わずにはいられなかった。
 つまりは我慢ができなかったということか。

 その心情を口には出さずとも、マインは理解したようだった。
 僅かにその目に、納得の色が瞬いた。

「メイフィア様ニモ、オッシャッタノデスカ?ソノ言葉ヲ」
「いや。…お互いそんなの気恥ずかしいが…ただ、あいつは俺に今後つきあってくれるってかなり一方的に言われてな。俺も、それを了解した」
「…ナラ、私ノ方ガ、少シダケ…優位デスカ?」
「は…?」
 ゆっくりと瞼を閉じるマインを、柳川は見つめた。その口元には、僅かに笑みが浮かんでいる。
「柳川様ハ、トテモ我侭デ自分勝手ナ方デス」
 唐突に何を言い出すかなこいつは。
 ちょっぴり自分の口元がヒクつくのを覚えながら、とりあえず柳川は聞きに回った。
「偽悪趣味デ、皮肉屋デ、冷笑癖ガアッテ、乱暴デ、チョット羅列スルノニ時間ガカカル程、沢山タクサン短所ヲ抱エタ方デス」
「…おい…」
「デモ、私ハ、ソンナ事知ッテマスカラ。短所モ長所モ、ミンナ、知ッテマスカラ。
 鬼の血ノことモ、何もかモ、全部」
 そっと、目を開けてくる。その目が、眉が、口が、ごく自然に、微笑を造った。
 すごく、ナチュラルに。

「私も柳川様のこと、好きです」

 ナチュラルに。

「デモ、柳川様、本当に一方的デス。
 責任って、ナンデすか?責任ッテ、言われた方ニハ無いのですカ?
 …なら、私モ言っタ方の責任ヲ取らせて頂きマス。
 私は、柳川様ヲ幸せにして差し上げマス。
 私が、柳川様ヲ幸せにしてみせまス」

 …………。

「えっと…あの、マイン?お前、なんか性格変わってない?なんか凄い前向きな」
「…デシャバリ、すぎでしょうか?そのようなメイドは、お嫌いデスカ?」
 途端にしゅん、と気落ちしたように、いつものように控え目な雰囲気になるメイドロボットに、困惑と苦笑と、そしてちょっとホッと安堵する。
「デモ、誤解しないで下さイ。先程ハ、私、嫌ダカラ逃げようとしたのではありまセン。その…恥ずかしかった、カラ」
 一歩、二歩と、それだけで間近に迫ったマインは、ソファーに座る柳川の前に両膝を突いた。
 その膝立ちの姿勢で、小さく、優しく声をかけてくる。
「私達HMシリーズは人のお役に立つタメに造られましタ。
 人の幸せのタメに。人の夢のタメに。
 ソレガ私の存在意義でアリ、私の誇りデモあります。

 知ってますカ、柳川様?
 マインは、モウ、ずうっと、ずうっと前カラ、幸せだったんデスよ?
 毎日、柳川様と貴之様ノ後をついて学園に通うのガ好きです。
 私、歩幅が狭いカラ、いつもお二人から遅れ気味デ、デモ、一生懸命、ついて歩くのが、トテモ、幸せでした。
 私のペースに合わせてくださるのも、それでも送れてシマウ私のタメに、時々立ち止まっテ、待ってイテ下さるのが、好きでしタ。
 ソウヤッテ、肩越しに、私を見て。ソシテ、また一緒に歩き出す。
 それがとても、トテモ大好きでした。
 こんな風に、毎日お二人の後ヲついて歩いテいけたらイイナ、って。
 だから。
 マインは、どこまでもついていきますから」

 こちらの右手を掴んで。

「私、ちゃんと柳川様を受け止めて差し上げますから。
 私達12型は、これでも結構丈夫にデキテルんですから。
 ダカラ、大丈夫、ちゃんと柳川様の全部、受け止めてみせますカラ。
 だから、一人で、何もかも抱え込まなくてもいいんですから。遠慮なんかされたら、マインはまた怒ってシマイます。貴之様だって、怒る時は怒るんですヨ。
 私達の幸福は、柳川様がいることなんですから」

 マインは、そっと、しかししっかりと、その手を自分の胸元で抱きしめた。

「…捕まっちまったのかな、俺」
「え?」
「いや…わからないなら、いい」

 抱き寄せられた右手を、そっとメイド服の胸に広げる。
 まっ平らのようでいて微妙に起伏のある、そしてしっかりと柔らかい胸の感触を布地越しに確かめる。
 昨日のやり直し。
 ちゃんと、こいつだけを見つめて。
 少々、先程のメイフィアとの一戦の疲労は残っているが、まだまだ初心者のマイン相手ならば、それくらいが丁度良いだろう。
 しゅるっ、と空いた手で胸のリボンを解く。そのまま後ろに手を伸ばし、腰の後ろで結わえたエプロンの紐も解く。
「あの…一つ…お願いガ…」
 その間中、ずっと胸に微妙な刺激を与えられ続けていたマインは早くも口調を乱れさせはじめている。性感帯(というのだろうかロボットでも)は未発達ながら、それなりに感じているらしい。
 その反応の初々しさが嗜虐心を煽るのだが。
「なんだ?」
「……キス……して、もらえませんカ?」

 …………。

「ドウシマした?顔が赤いデス」
「いや…その…。そうだな。そこからやりなおすか」
 改めてそんなことを言われると、なんだか無性に照れくさかったのだが。
 柳川は、座った自分の膝の上に横抱きでマインを乗せた。そっと頬に手を伸ばし、軽く、口づける。
「ん…」
 そんなものでも、マインは充分に満足したようだった。
 少し霞がかったような瞳を緩ませて、しかし、急に危惧の色を浮かべる。
「モウ一つだけ…お願い、デキマセンカ?」
「…お前にしては随分注文が多いな。まあ、言ってみろ」
「アノ…昨夜は…大変、失礼なコトを…」
「失礼って…俺の方が何倍も失礼だったけどな」
「いえ、デモ…私…イクラ…ソノ…化学的には清潔ナ、只の純水とはイエ…」
 ――あ。
 えーと。あまり、記憶ははっきりしないが、そーいうこともあったような覚えはある。
「わ、私…できるだけ、我慢シマスけど…でも…ソノ…」
「ああ。いいって。ただの綺麗な水だろ?気にするな」
「いえ、そうではなくて…ソレモありますケド…」
 不審そうにこちらを見てくる柳川に、マインは、これ以上無いほど顔を赤らめて、小さな、小さな声でか細く囁いた。
「……………飲まないで…下さい。私、恥ずかしすぎます…」
 …………。
 ………………。
 ………………………………。
「ちょっとマテ俺――――――――――――――!!?」

 それは、血を吐くような絶叫だった。
 ちょっぴり涙も混じっているようではあったが。


(4)へ