この文章は、私から見えた範囲での川本真琴についての記録です。
「川本真琴」という名前を意識したのは『DNA』が発売された頃だったと思う。96年10月に発売された彼女の二枚目のシングルで、音楽番組「HEY!HEY!HEY!」のエンディング・テーマだったその曲は、私と、同じく川本真琴のファンになりかけていた友人の二人に、少なからず新鮮な驚きをもって迎えられた。
彼女のデビューはその五ヶ月前の96年5月2日のことだったが、その時は特に惹かれることもなかった。ただ雑誌の記事を読んで「なるほど、最近やたら聞く『愛の才能』という曲はこの人が歌っていて、作曲は岡村靖幸だったのか。最近の岡村チャンはアクティブだな」と思い、またその後どこかのCD屋の店頭チラシに書いてあった「女子高生に大人気」という宣伝文句を鵜呑みにしただけの知識しかなかった。
だから、テレビから流れるこの素晴らしい高揚感を持ったメロディーと力強いリズムセクションが印象的な『DNA』をあの時の彼女が歌っていて、しかもギターを抱えて歌うその姿に重なる番組のテロップに「作曲・川本真琴」とあったのが、とても不思議だった。彼女は曲を書く人だったのだ。もちろん彼女の自作曲は『愛の才能』の二曲目に収録された「早退」──この曲もとても魅力的だった──があったわけだが、その時は知るよしもなく、ただ90年代中期のヒットチャートを圧巻していた小室哲哉の一連の仕事や、奥田民生が曲を手がけたパフィーのような、プロデューサー先行型のアイドル(実際そこらのアイドルに引けを取らないくらい可愛かった)の一人だという認識だった。
この『DNA』にすっかり打ちのめされた私と友人は、さっそくCDを買いに走り、もっと情報はないのかと雑誌記事を探したが、どこにも出ていなかった。あとから知ったことだが、アルバム発売まではテレビ以外の媒体の取材はほとんどすべて断っていたそうだ。唯一コンスタンスに掲載されたのは同じソニー系列の出版社から出ている音楽情報誌『PATi PATi』の連載だけだった。人間とは難しいもので、判らないことほどますます気になるようにできているらしい。私は彼女のことをもっと知りたくなった。
頼みの綱はインターネットだった。インターネットとは、といまさら説明する必要はないだろうが、96年後期はやっとそれなりに広まりだした頃で、常時回線は非常に高額で、まだまだ今日のように気軽に繋ぐものではなかった。前年の暮れに「Windows 95」が発売され、“インターネット”が流行語になり、Nifty-ServeやPC-VANといった大手パソコン通信社がようやくインターネット接続を可能にした、携帯電話よりポケベルとPHSが主流だった時代だ。
95年後期から96年前半にかけて、川本真琴も敬愛しているミュージシャンの一人であるCorneliusこと小山田圭吾のレーベル・トラットリアが、インターネットにウェブサイトを開いたという話題が沢山の雑誌で取り上げられていた。ミュージシャンのエッセイが数多く載っていた『月刊カドカワ』、渋谷系ミュージシャンを多く取り上げていた『MORE BETTER』、音楽とパソコンの総合情報誌『DIGITAL BOY』、ラジオ番組情報誌『FM STATION』でも「ミュージシャンのウェブサイト」といった特集をしていた。それらに載っていた鮮やかな画面写真は私をインターネットに引き込むのに充分な力を持っていた。
だがパソコンは非常に高価で、学生だった自分のこづかいで買えるようなものではない。頭にあったのは学校の視聴覚教室に置いてあるパソコンだった。これを先生に休み時間に使わせてもらえるよう頼みこみ、何度目かの訪問でついにOKを貰った。念願かなった私はさっそくトラットリアのサイトにつなぎ、時間を忘れてインターネットを楽しんだ。
そうやって学校のパソコンを使っていたから、ネット環境に関してはとりあえず問題がなかった。「川本真琴もサイトを開いているんじゃないか……」という根拠のない期待を胸に、ソニーのサイトを開き、川本真琴へのリンクを探した。もう三枚目のシングル『1/2』は出ていたから、97年の新学期だったと思う。
だが出てきたそのサイトは私の期待を裏切るものだった。トップページに短いプロフィール、そしてそれまで出た三枚のシングルの説明という、素っ気ない作りに軽く失望した。トラットリアのサイトはもっと凝ってるのになあ。そんなことを思った(トラットリアのサイトは当時一番といっていいほど豪華なものだったから当然なのだけど)。救いは小さく置かれた三つの動画ファイルだった。この動画ファイルは一つ30秒程度で、シングルが発売されるごとに公開されているらしく、川本真琴本人が曲を紹介するもので、私はインターネットでしか見れないコンテンツをようやく見つけ満足した。ただし内容は一人でしりとりをはじめたり、ヤギの真似をしたりと、川本真琴という人物の謎をより深めるものだった。
それから川本真琴に関する情報をインターネットで調べることが日常化──毎日パソコンを利用できたわけではないが──した。海外のAltaVistaやinfoseek、出来たばかりのgooなどの検索エンジンも利用したが、基本はYahoo! JAPANに登録されているサイトを中心に見ていた。デビューがちょうど日本でインターネットが盛り上がりだした時期と重なったことも関係していたのか、ファンサイトの登録は他のアーティストよりも多く10サイトほど載っていた。10サイトが多いというのは妙に聞こえるが、当時はまだファンサイト自体が少なく、他に10サイトを超えていたミュージシャンは500以上掲載されていたミュージシャンのうち17組だけだった(GLAY・globe・L'arc en Ciel・LUNA SEA・Mr.Children・X JAPAN・ZARD・相川七瀬・アルフィー・小室哲哉・サザンオールスターズ・ジュディアンドマリー・谷村有美・電気グルーヴ・ドリームズカムトゥルー・松任谷由実・森高千里)。もっとも当時のヤフーJAPANのディレクトリ名は「Kawamura_makoto」と名前を間違えられていて、甚だ憤慨させられたものだが。
7月に最初のアルバムが発売されると雑誌インタビューも解禁し、ますます川本真琴人気は盛り上がり、ネット上でも名前をよく見かけるようになった。ファンサイトもますます盛り上がっていた。今も残る老舗ファンサイトでは「KawaMako World」「MAKO MAKO P」「XZR HomePage」「KAMABOKO MAKOTO」「Mako's Room」などが、消えてしまったサイトでは「しまりす捕獲協会」や「たたかう、うたう小猿、真琴。」、そして「愛の才能ホームページ」などが人気を集めていた。どれも詳細なデータとCGIを使ったゲームや活発な掲示板が人気を集めていて、また時期的にメーリングリストが流行していたこともあり、「kawamako-ml」でメールでの情報交換も多数流通していた。他にも、これまでのテレビ出演情報をまとめていた「MAKOTO on TV」や、福岡で放送されていた今では幻のラジオ番組“男子禁制学園”の文字おこしを行っていた「MAKOTO on RADIO」、オセロゲームやオフレポがあった「よこづな牧場」、トップページのShockwaveが印象深いrascalさんのページなども忘れがたい。あの頃はみんな、アルバムの歌詞が一回転していることを見つけてドキドキしたり、新設されるファンクラブの名前を一所懸命考えたり、初めてのライブツアーの本数が少ないことを物足りなく思いながら、これから続くであろう川本真琴の快進撃に心を躍らせていたのだ。
ただ私は、アルバムを先に買った友人から電話口で聞かせてもらった既発シングル曲以外の収録曲すべてが、どれも期待はずれだったことを、少し残念に思っていたのも事実だ。シングルで連発して見せたあのキラメキは感じられなかった。Culture Clubのヒット曲「Do You Really Want To Hurt Me」の名前が出てくる「STONE」、The Style Councilの「Internationalist」を模した「やきそばパン」、イントロがCarole Kingが在籍したグループThe Cityの名曲「Snow Queen」を想起させる「ひまわり」など、“それなり”に良い曲はあったが、私が望んだのはそうした楽曲ではなかった。Jains Joplinの「Cry Baby」のイントロと、Donovanの「Sunshine Superman」からヒントを得たであろう「LOVE & LUNA」で見せた、元ネタを超える楽曲の水準を維持できていないというのが、私と友人の共通の見解だった。
少し期待しすぎたのかもしれない。友人がダビングしてくれたテープを数度くり返し、アルバムを買おうかどうか悩みながら、少し冷めた目線でウェブを徘徊していたところ、歌詞に言及するファンサイトが多いことに気付いた。それらは彼女の書く詞が持つ一定の眼差し、つまり青春を憧憬する眼差しが深く関係していたように思う。ただ彼女の詞は昔を懐かしむためのものではなく、発売された1997年という時代にしっかり共鳴していた。常に音が足りなくなるほど言葉をつめ込み、他人との距離間を絶妙な表現で言い切る類まれな才能がそれを可能にしていた。
私は詞を読んでいなかったのだ。早速アルバムを買い求め、歌詞カードを眺めながら曲を聴いてみた。早口で断片的にしか聞き取れなかった言葉が明確になったとき、やっと数々のファンサイトで歌詞を取り上げていた理由が判った。私が辿り着いた結論は「言葉がメロディーを支配しているアルバム」だった。川本真琴が楽曲を歌詞ではなくメロディーから作っていることは関係ない。最終的に出きたモノのうち、メロディーと言葉、印象的なのはどちらかということだ。このアルバムは歌詞を語らずにはいられない、そんな内容なのだと気付いた。結果、私はこのアルバムの自分の中での評価は保留し、クリップ集『忘れそうだった』と年末に出た『早退』の二本のビデオを観ながら、次のアルバムを待つことにした(この時は「また来年」と気楽に考えていたのだ)。
ファンクラブから届いた年賀状と会報を読み、電話インフォメーションを聞いて過ごす日々が続いた。久々のシングルが4月に発売されると報が届いたのは1998年の2月だった。サンドウィッチやスパゲッティを食べ続ける姿が印象的なCMが大量に流され『桜』は発売された。最初にラジオで聞いた印象は「ひまわりに似てる」で、実際ファンサイトにもそうした意見がちらほら見られた。アルバムからあまり成長していないなと思ったが、カップリングに収録された「ドーナッツのリング」の素晴らしい出来栄えに、着実な成長を見て取れ不安は吹き飛んだ。
封入されていたお知らせからも判るとおり、98年は大規模なライブツアー「恋してるツアー」を予定していた。私は前年のライブにも行っていなかった。ただ当時は学生ながら忙しく、また来年でいいやと、ゲスト参加したSparks GO GOのシングル(『気分でいこう』『カリビアン・ビーチホテル』)を聞きながらしぶしぶ流してしまい今回も行くことはなかった。まさか人前に出なくなるとは思いもよらず……。
ツアーが行われている最中は、やっとまともに稼動しはじめた公式サイトでたまに本人が日記を書いたり、全国各地に存在する川本真琴のファンが逐一報告してくれたりと、情報には事欠かなかった。特にネット上のファン活動はますます充実していた。キュートな情報サイト「かわまこ3/2」、川本真琴論を前面に出した「放課後電磁波倶楽部」、貴重なファイルも楽しめる「まことのまえがみ」、ゲームが楽しい「恋してるぺ〜じ」「しまりすnetwork」、イラストや情報が満載の「makoto lovely」、新しいメーリングリスト「edge-ml」など続々と作られていたが、中でもダントツは「G#」だろう。ディスコグラフィやメディア出演リストといった基本的情報はもとより、写真集に出てきた場所レポートやツアーの八割を制覇した詳細なライブレポート、一回カバーしただけの沖山優司の「東京キケン野郎」の歌詞まで載ってる楽曲のコード譜、野咲すみれさん寄稿によるコラムや歌詞解釈など、おそらくココ以上のサイトはもう出てこないだろうと今でも思う。
ライブのオープニングで叫んだ「したい!したい!したい!」は「桜」の歌詞と対になり、後年「トラブルバス」として生まれ変わった。また最終日にカバーされたJoni Mitchellの「All I Want」のリフレインは「桜」のメロディーに影を残している。相変らずのすっとんきょうなMCも愛敬として、パフォーマーとしての才能を遺憾なく発揮し、衛星放送でのライブ中継、数多くの雑誌のライブレポートと共に夏は終わり、次はいよいよ新曲だな、と誰もが予想していた。だがこの夏を境に、彼女はしばらく沈黙することになる。
ファンクラブ会報誌と『PATi PATi』の連載だけが彼女の無事を伝える中、99年3月にgroovisionsのキャラクター“chappie”のデビューシングル『Welcoming Morning』に「大好き」というボイスループで、ギタリスト馬場一嘉の一人ユニット“Anything to order?”の『one』にフルートで参加したあと、同年4月に一年ぶりに発売されたシングル『ピカピカ』はファンに衝撃を与えた。それまでの親しみやすいメロディーは姿を消し、擬音を多用し韻の響きに重きを置いた歌詞に、多くのファンは困惑した。ある人はKate Bushの「Wuthering Heights」との類似を指摘し、ある人はこれこそ傑作だと評した。掲示板で議論は続き、中にはあからさまな嫌悪感を示し消えていったファンサイトもあった。みんな色々な形で川本真琴を愛して、否、恋していたのだと思いたい。
この曲の背景を察するに、ソニー側とのなんらかの意思のすれ違いがあったのだろう。それまでのリリース作品の流れなら一曲目が妥当な「ハート」(恋してるツアーで披露されていた)がカップリングに収められ、“実験的”とも呼ばれた「ピカピカ」を最初に持ってきたのは、ソニーが川本真琴を売り出すために作り上げたイメージ──小さな体でギターをかき鳴らし、等身大の歌詞を歌うポップシンガー、といった役目を演じるのに、彼女自身が飽きた・疲れたのではないだろうか。そうした意識が結果的に「ハート」ではなく「ピカピカ」を作品として世に問いたくなったアーティストの自我を抑えきれなかったのではないかと想像している。
私はといえば、そうした話とはまた別の次元で、この曲に不満だった。つまり以上のような推測をした上で、この曲がアーティスト川本真琴の真価だといえるほどの水準にあるかというと疑問が残った。微妙に音階をずらすコーラスも音が割れるドラムも不自然なストリングスアレンジも、「実験」の領域を超えることなく、消化不良の部分を多く感じる。ライブで披露するピアノソロバージョンの方が素直に受け止められるのは私だけだろうか……と、今だから冷静に書けるがこの頃はとてもそんな雰囲気はなかった。そして『ピカピカ』を出したあと彼女はまたしばらく沈黙し、それはこの曲をどのように受け止めればいいのか迷っていたファンが心を整理するのに充分な時間だった。
ファンサイトの多くは更新が停滞し休止していったが、それでもいくつかのファンサイトは新設された。着メロデータを配布していた「やきそばパン」や、私設FC「HEART」、テレビ出演時の貴重な動画を公開していた「アコギじゃかじゃかねぇちゃん」、記事紹介や名所案内が白眉な「Singer川本」、カラフルなデザインとデータがつまった「LunaFever」など、情報が無いなりにそれぞれが工夫し話題は絶えなかった。この頃ほぼ川本サイトのポータル化していた「愛の才能ホームページ」はドメインを取得し「KAWAMAKO.NET」と名前を変えた。先のchappieのアルバム『NEW CHAPPIE』に「Happyending Soulwriter's Council Band」を提供し(The Beatlesのアルバム『Revolver』を一曲に凝縮したような曲だった)、クリスマスに公式サイト上でJohn Lennonの「Happy Xmas」のカバーを公開した頃には、来年は活動予定が一杯ある、といった情報も入ってきた。
2000年初頭に出た『微熱』はドラマ「恋の神様」の主題歌だった。アルバムはいつ出るのかという問いに「今レコーディング中です」と答える姿はもはやギャグだったが(のちにもちろんレコーディングはしていなかったことが判明している)、それにしてもこのシングルは川本真琴の全作品中でも一、二を争う傑作であり、『ピカピカ』を完全に消化し、ヒットポップスとして申し分ない完成度を誇っていたことは記憶しておかなければならないだろう。
「微熱」は元は「アルマディラム」という仮タイトルだったらしい(この言葉は「トラブルバス」にも出てくる)。つい琴に耳を奪われるが、むしろそれを支えるコーラスとドラムの音色こそ重要だと思う。石川鉄男氏のアレンジと宮島哲博氏のミックスを含めたプロダクションの成果かもしれない。映画『ベティ・ブルー』の原題「37.2゜LE MATIN」と同じ体温(37.2度は最も妊娠可能な、つまり性行為の最高状態の体温をいう。詳しくは映画参照)を持ち夜の東京を舞台にした歌詞は、「tell me!」という歌詞カードに載らない叫びも含めてそれまでの作品で見せた“蒼さ”から抜け出した良作である(その傾向は「ドーナッツのリング」から見て取れた)。「月の缶」は逆にこれまでの一つの完結した男女のドラマ性を放棄するかわりに、非常に私的な心の動きを、夕暮れから夜の都会を放浪する猫に置き換え、若干抽象的な言葉で書きとめた彼女の心情吐露だろう。そしてそれを微塵も意識させない完璧な楽曲自体の力こそすべてだ。冒頭に出てくるフランス語は公式サイト上で公開された。ちなみに歌詞に出てくる「社会学者」は、宝島社の『音楽誌がかかないJ-POP批評2』で川本真琴を自意識ベタ派と分類した宮台真司のことだと言われており、のちのアルバムやライブでこの部分が歌われないのは、その辺が関係してるのでは、というのは考えすぎか。
すぐ次のシングルのリリースが発表された。当初は「水」とアナウンスされていたように思うが、実際に4月に発売された時は「FRAGILE」という名前だった。作曲の磯野栄太郎は岡村靖幸の変名で、デビューシングル以来のコラボレーションの結論は、弦アレンジにDavid Campbellを迎えた10分を超える壮大な楽曲だった。ゴスペルコーラスの歌う「all the fears, all the tears, all the blues in the night...」の歌詞を聞き取るために何度もくり返したが、何と歌っていたのか真相は謎のままである。カップリングの「トラブルバス」はchappieに提供した「Happyending〜」のセルフカバーで、明らかにBECKの影響が感じられた。
私は『微熱』と『FRAGILE』の名シングル連発に興奮し、前から考えていた川本真琴のファンサイトを作ろうと計画した。「KAWAMAKO.NET」「アコギじゃかじゃかねぇちゃん」「With tears in one's eyes」の掲示板をうろうろとしながら夏がすぎて、ようやく出来上がったのは九月に入ってからだった。「makotomania!」と名づけたうちのサイトと偶然同じ日に「前略、むちうちになりました」も開設し、お互いの掲示板でダラダラと書き込みを続けていたのを覚えている。そのうちイラスト中心だった「地下螺旋階段」から川本真琴ページが独立したり、アイコンや壁紙が楽しい「YAKISOBA KING」ができたりと、次のアルバムに向けてファンの期待が高まっていくのが日に日に感じられた。
そうした期待は、その年の終わり、クリスマス直前の12月22日に渋谷AXで行われた「川本真琴トーク&ライブ・ファンクラブイベント〜ひき潮2000」で沸点に達した。私にとっては初めてのライブだった。数年ぶりのライブでついに「来年の春か夏にアルバムが出る」と発表され、いくつか新曲も披露された。そのうちの「コカ」はのちに「ギミーシェルター」と改題された(この時はまだ歌詞が決定してなかったようで、ほとんどが適当な英語で歌われた。例えば「no security」の部分が「gimmishelter」、「G/I/M/M...」と連呼する所は「TOKIO TRIBE JP」だった)。他にも会場に響くアコースティックギターが心地よい「オクトパスシアター」や、ブレッド&バターのカバー曲「ピンク・シャドウ」の素晴らしさといったら!
しかしこのイベントで一番面白かったのは最初に流れたデビュー時から現在までを辿ったビデオ映像だったかもしれない。そこで初めて、川本真琴はアイドル歌手としてデビューさせられる予定だったことが暴露され笑いをさそった。画面に映っている彼女は眉毛が太く、カラフルなスプライトのセーターを着て、くるくる廻っていた。「♪扉を開ければ〜ほら〜つめこんだガラクタが宝石に変わるよ〜」「♪時計の針が出会うころ〜夜空に浮かぶ小さな町に雪が降る〜」とテクノポップを歌う姿を想像して欲しい(その映像は未だに忘れられない)。その曲は「宝石の神話」という名前で、またもう一曲は「GoインスピレーションWar」という、これまた奇妙なラップ調のテクノフュージョンと言えばいいのか……篠原ともえをイメージして頂ければ大体あっていると思う。これは想像だが、本当は川本真琴が予定されていた「ちょっと変わった女の子がテクノポップを歌う」という役目を、1995年7月にデビューした篠原ともえが代わりに果たしてしまったため、キャラがかぶらないようソニーが売り出し方をあらため、そこでようやくテクノと正反対のアコギ+ファンクという路線になったのではないだろうか。真相は闇の中だが……私は“運命のいたずら”を実感した。アンコールで「今度からアンティノスレコードになりました」と発表があった。
2001年に入ると、ファンの考えることは全員一致していた。すなわち「アルバムはまだか」だ。幸いなことにその答えは一月下旬には明らかにされた。3月3日。シングル『ギミーシェルター』とアルバム『gobbledygook』の発売日はファンサイト中を駆け巡り、雑誌掲載やラジオ出演の情報がいきかった。ラジオで流れる「ギミーシェルター」の歌詞を聞き取ったり、ビデオクリップが二種類存在すると話題になったりと、ファンにとって久しぶりに充実した毎日だった。渋谷をはじめ東京の至るところに張り出された巨大なポスターを覚えてる人もいるのではないだろうか。金髪で、緑色のドレスを着て片膝を抱えている川本真琴の写真は、アルバム発売後にはCDショップHMVの袋にも印刷されていた。ソニーが本気で売ろうとしている気がして嬉しかった。
さてようやく発売されたアルバムである。皆はこれをどう聞いたのだろう? 少し余談だがうちのサイトは発売日の前日にヤフーJAPANに登録されたので人が沢山来て、調子にのって全曲レビューを行った。当時のうちのサイトを知っている人に白状すると、その時はわりと好意的に書いたが、本当は『gobbledygook』は期待に反してイマイチな出来だと思っていた。もちろん、せっかく三年九ヶ月ぶりのニューアルバムであるし、ファンサイトの、しかもトップページでそんな事を書くのは気が引けたので、「もうちょっと先へいける気がするが、成長は確実に感じられた。次作も期待」とか、そんなことを最後の方に書くに留めた気がする。
なぜイマイチだと思ったのか。一つは、「桜」からすべてのシングル曲が収録されており、「微熱」や「FRAGILE」という傑作を通過した川本真琴の現在に対して、どうしても散漫な印象が拭えず、アルバムとしての統一感が感じられなかったからで、そしてこれがメインの理由なのだが、「オクトパスシアター」における英tahiti 80の「Heartbeat」や、度々挿入されるインストゥルメンタルから覗けるドイツ音響派・エレクトロニカ勢との近視観、「TOKYO EXPLOSION JP」に感じられる米“BECK以降”のポップ性──具体的には「Sexx Laws」「Mixed Bizness」──などおそらく意識的に取り入れた同時代の洋楽への歩み寄りが、充分に消化されてないように聞こえたせいだった。
もちろんこれは傲慢な思いこみにすぎないだろう。ただ、初期の彼女の活動から垣間見ることができるレベッカやユニコーンへの無邪気な愛情が、結果的に100万人に届いたアルバム『川本真琴』を生んだのに対して、先に挙げたような洋アーティストの影響が自身の音楽の血と肉になるには、もっと時間が必要だったのではないかという気がしてならない(そんなに待てたかどうかは疑問だが)。というのがあの時レビューで書いた「次作も期待」の真意であり、この路線を完全に自分のものにした後に出る次のアルバムこそ、川本真琴の最高傑作になるであろうと考えたのだった。その時こそ、アルバムに収められた新曲「キャラメル」や「ドライブしようよ」、「雨にうたえば」を聞いた時に感じた「こんないい原石なのに……勿体ない」という不満を解消するに違いなく、だから私はこのアルバムを受け入れ、ファンで居続けることにした(ただサイトは5月頃にサーバのトラブルなど色々あって閉じてしまった。次のアルバムが出たころにまた始めればいいか、と考えつつ……。一番の理由は電話代が三万円を超してしまって、ネットを自粛しようと思っただけだけども)。
アルバムが出たあとも、ツアーはしばらく行われず、実際に小規模ながらツアーライブが行われたのは、ニューシングル『ブロッサム』が発売された10月末以降、11月下旬からだった(ツアータイトル「king size bedroom」はアルバム名が「gobbledygook」に決まる前の仮タイトルでもある)。曲目は当然ながら『gobbledygook』からの曲を中心に、新旧織り交ぜた華やかなライブであった。
『ブロッサム』発売前だったか終えた後だったか、細かい時期は忘れてしまったけども、川本真琴ファンの「インターネットの入口」的な役割だった「KAWAMAKO.NET」が閉鎖してしまったのは割と大きな事件だと思う。この頃の「KAWAMAKO.NET」の掲示板は若干荒れ気味で、しかし管理者が忙しいのか自主性を重んじていたのか、積極的な対応はしておらず(そう見えた)、そのうち掲示板で「管理できないなら閉鎖してください」という意見までチラホラと書き込まれていた。それから割とすぐに閉鎖してしまった。結果、ファン同士のコミュニケーションを取れる総合的な場所がなくなってしまい、なにかポッカリと穴が空いてしまったように感じた。2002年に入ると、私がほぼ唯一出入りしていた「アコギじゃかじゃかねぇちゃん」も閉鎖してしまって、それ以来あまりファンサイトに書きこむことがなくなってしまった。
また少し経って、5月に小さなイベントに出演、7月にライブが行われた。どちらも「新曲予定もないのに?」と思ったが、活動があるだけで嬉しいというファン心理が働くのは、川本真琴くらいかもしれない。また7月のライブは二種類あり、一つ(「夏祭り 夏祭り 夏祭り」)はライブハウス「DOORS」の一周年記念イベントで、他のミュージシャン(七尾旅人、豊田道倫、ギターベイダー、ニーネ)らと共演し、二日間かけて行われた。もう一つもジョイント企画で、「LIVE SUMMER VACATION」というそのイベントには岡北有由 、川本真琴、Hysteric Blueなどが出演していた。これらのライブで披露された“幻のデビュー曲”「人形」は重くけだるい雰囲気をもったものだったが、この曲を思いだすたび、一体ソニーはこんな曲でオーディションに応募してきた新人を、どうしてテクノポップアイドルとして売り出そうとしたのか経緯が知りたくなる。「LIVE SUMMER VACATION」の方ではアンコールで未発売の新曲「CLOSET」も演奏されたが、ギター弾き語りの小品であまり印象に残っていない。2002年はこれ以降めだった活動はなかったものの、代わりに公式サイトが「salon-kawamoto」とリニューアルされた。
既に2003年が四分の一すぎた4月17日に、松本隆のイベント「風待フラッグ Vol.2」に出演し、久々にファンの前に姿を見せたが、やはり新曲や今後の予定などは発表されなかったようだ。ようだ、というのは私が日付を間違えていて行けなかったせいだが。そうしてるうちに7月1日に公式サイト上で「色々な都合でご報告が遅れましたが、去年の10月に事務所をやめ今年の4月でアンティノスレーベルをやめることにしました。そしてこれからは個人で音楽を中心に活動を続けていきたいとおもってます。関係者の皆様、応援してくださっている方、ただの友達の方など、これからもよろしくお願いいたします。川本真琴」
と穏やかな文面に反して衝撃的な内容の発表があった。
色々な噂が立ったが、判ったことは今福井に帰ってること、ファンクラブも同時にストップすることだけで、また今後しばらくシングル・アルバムなどのリリースがないことも容易に想像できた。ファンとしては今後も活動してくれるならそれでいい、と言えるかもしれないが、次のアルバムが出る頃にサイトを再開させようと思っていた私にとっては、なかなか不安なニュースである。そうしてるうちに10月に彼女の地元・福井のイベントに出演するという話が入ってきて、流石に遠すぎて行けなかったが、「秋」という名の新曲が演奏されたことを聞き、ひとまず作曲は行っているらしいと安心した。
当然ながら川本真琴は今も現役のミュージシャンであり、回想が必要なほど年を経たわけでもなく、このような文章に意味はない。ただ、最後のリリースから二年以上経過し、私が待ち続けている次のアルバムはしばらく出る様子もなく、ソニーとの契約を終え、福井に一時的に帰郷している姿を見ると、何か一区切りしてしまったように思えて、新しくファンになったり最近インターネットを始めた人達が少しでも当時の状況を想像できるように、少し書いてみたくなっただけの話だ。別に普段からこんなシリアスに考えてるわけではないし、このサイトもたまに更新したり消えたりしながらのんびり続くだろう。
彼女の活動のように。