食べ物屋が成功するには、いかなる料理の店にせよ、「基本」を重視しなければならない。パスタの店で言うならば、売り物の基本は「パスタ」だ。あの、小麦粉を練ってにょろにょろ伸ばして茹でた奴だ。そうじゃない形もあるけどな。とにかく、「パスタの店」を名乗るなら、麺そのものが美味いものじゃないと、客から評価されないし、成功しない。 ここで物事を考えない奴は、「麺そのものの味と言ったって、実際の客は麺がどうのじゃなくて、どういう味付けがしてあるかとか雰囲気とか値段で店を選ぶ。いろんな種類のメニューがある店の方がいいし、キャビアといくらのスパゲティーとか見た目にも面白くて味のいい店なら喜んで入る。安くて雰囲気のいい店もいいし、逆にいくら麺が美味くたって、それだけじゃあ食べる気にならない。麺がいくら美味くたって、それだけでどうやって大勢の客を呼ぶんだ?」みたいなことを言う。 まったく、わかっていないわけだ。 パスタを食う客、それも、たまたまパスタを食った客ではなく、「この店のパスタでなきゃ」っていう固定客ってのは、どのメニューにしても、パスタの基本である麺が美味い、つまり、「本物の麺」が使われているからこそ、その店にやってくる。店の雰囲気とはメニューの多さとか値段とか言う以前に、本物の美味い麺が使われていて満足ができ、一番大切な味に対して信頼が置けるからこそ、雰囲気だのメニューの多さだの値段の安さだのという付加価値あるいはトッピングの部分を評価するのだ。 これが、基本をないがしろにして付加価値の部分だけ追求した店だとどういうことになるか。つまり、雰囲気が良い。値段が安い。いろんな種類のパスタメニューが揃っていて面白い。だが、麺は大したことないという店だ。 この場合でも、その店には客は入るだろう。ひょっとすると、大勢の客が入るかもしれない。だが、一つ言えることは、その客のほとんどがその店に定着しないということだ。 雰囲気に惹かれているだけの客は、何度か来て、その雰囲気に慣れてしまったら、他の雰囲気を求めて別の店に行ってしまうのだ。麺の上のソースだの具だのメニューの種類だのに惹かれている客も、それぞれ、一回食べると十分で、その店に定着しようとは思わない。値段に惹かれている客は、値段だけを理由にその店に定着することは無い。他に安くて美味いものはあるしな。そういう入れ替わりの激しい客の集合体として、その店に常に客が溢れているということはあり得るだろう。 ここで起こることは何か? そういう店では、常に、定着しない客の補充をしなければならないのだ。そこでやることは、「○○フェア」「・・・プレゼント!」「割引券」「新メニューが出ました!」等々を次から次へとやることだ。しかし、そういう努力が世の中とズレを起こすと、気がつくと客が減ってしまうという現象が起こる。ビジネスとしては非常に不安定な状態だ。 そういう不安定さを極力排して経営を安定させるために、飲食業は固定客を作ることを重視する。何度も戻ってきてくれるファンを作ることを重視するのだ。その固定客作りを商品の基本部分によらず、付加価値あるいはトッピング的な部分でやろうとすると、グッズプレゼントだの新メニューだのイベントだの、そういう部分で客を引き付けようという話になるわけだが、実際に集まるのは、その一時的な「刺激」だけを目当てにやってくる客になってしまって目的は達成できない。本当の固定客を作るには、基本部分をしっかりさせ、その基本部分が好きだから来るという客を作ることが必要なのだ。麺の味を評価して店に来る客というのは、いつまでもその店に飽きることが無い。 で、こういう話をすると、必ず「いくら麺が美味くてそれが好きでも、それだけだと絶対に飽きるはずだし、大勢の客はこない」と言う奴が出てくる。それはそうだ。ただ、麺だけ出してたらな。 別にな、本物の麺を出す店だからといって、無味乾燥な雰囲気の店にする必要は無いし、メニューを単品にする必要は無い。堂々と、良い雰囲気の店作りをし、いろんなメニューを出せばいい。いろんなサービスやイベントをやればいい。客はそれを喜んでくれる。一見客も大勢やってくる。だが、大きく違うことは、常に、美味い麺が基本となっていることであり、集まった客の中に固定客がいるということだ。基本の麺が信頼できるのだから、あとは、安心して付加価値あるいはトッピングの部分を楽しむことができる。一見客は、そもそも麺について無関心だから、トッピングだけを見る。これはこれでいい。それはそれでビジネスを支えてくれる。ひょっとすると、そんな客の中から、麺の美味さに気づいて固定客になってくれる客が出てくるかもしれない。 基本をしっかりさせるということは、何も、基本だけにせよということではない。 基本をしっかりさせた上で、できるトッピングは全てやればいいのだ。 これはプロレスでも同じことだ。 プロレスの基本はレスリングなのだ。だから、プロフェッショナルと呼ぶに相応しい、しっかりしたレスリングをやること。これは極めて重要だ。 しかし、それは何も「レスリングだけ」という話じゃない。しっかりしたレスリングがある上に、ショーアップやらメディア戦略やらいろいろやればいいのだ。また、レスリングと一口に言っても、選手によって違いがある。ならば、その違いをフルに活かせばいい。長州なんかいい例だけどな。長州はレスリングの実力を持っている。数年前は、プロフェッショナルなレスリングをパワーファイト風にアレンジした試合を実際にやっていた。長州はパワーファイト一筋では決して無い。猪木なんか最高のお手本だ。何気ないタッグマッチの何気ないシーンにも、レスリングテクニックをきちんと披露して、その上に、ショーアップした動きを乗せていた。だからこそ、レスリングそのものを求めるファンを満足させ、一見客も喜ばせることができたのだ。武藤にしたって、膝を悪くする前は、レスリングとショーアップを上手くミックスした試合をやっていた。猪木、長州、武藤だけを取ってみても、それぞれ、プロフェッショナルなレスリングという基本はきちんとあった上で、それぞれの味付けをしている。その結果、一見、3人の闘いぶりは違うように見える。お客も喜ぶ。だが、よーく見ると、やはりプロフェッショナルなレスリングという部分で、3人は共通したベースを共有しているのだ。上っ面しか見ていない奴は、いつまで経ってもこの意味がわからない。 話を変えると、約10試合が行われる一つの興業という視点で考えれば、レスリングができない選手が必要になる場合もある。いくら美味いパスタでも、ちょっとしたアクセントが欲しくなることもあるからな。ただ、それはあくまでアクセント。あるいは、スパイス。それが主になるのは本末転倒というものだ。 ザ・コブラは前田達と一緒になって新日で育ったレスラーだ。ならば、基本たるプロフェッショナルなレスリングを基礎に持ちつつ、ダイナミックな派手さを加えたジュニアヘビーの選手であるはずなのだが、不思議なことにコブラの試合には「基本を押さえている」という安心感がまるで無い。まるでアクセントあるいはスパイスだけのような選手なのだ。これはいったいどういうことなのか。 ザ・コブラの残した謎は深い。だからこそ、我々はザ・コブラの魅力から逃れられないのだ。
『あんたのコラム楽しみにしてるぞー』 →“コラム”とは何だ、“コラム”とは!! それは、例えて言うなら、ザ・コブラの試合を見て「マンガみたい」と言うようなものだ。 「闘い」と呼ぶがよい。ザ:タイガーは激闘を繰り広げているのだ。 『タイガーてめー文章がなげーんだよ!! 読む気もないがのー』 →「闘い」が長かろうがどうだろうが、大した書き込みをしない奴につべこべ言われる筋合いは無い。いっぱしの文句が言いたかったら、ザ・コブラをネタにストロングスタイルの書き込みをやってみるがよい。 できるかな.....フォッフォッフォッフォッフォッフォッフォッフォッフォ.... 大体、「読む気もない」なら長くても短くても関係ないよな。それでいて、わざわざ文句をつけるとは、例えて言うなら、タイガーマスクと比較してザ・コブラを馬鹿にする小林邦明が、コブラにマイクでアピールして抗争劇に持っていくようなものだ。悔しかったら、長短文でストロングタイルなコブラ書き込みをやってみろ! それができないからには、ここは、ザ:タイガーが好き勝手に激闘を繰り広げるのだ。 http://hyper4.amuser-net.ne.jp/~auto/b29/usr/snakepit_id/brd1/bbs.cgi?email=&wtpass=
おい!!!!!!!!!!!! タイガーてめー文章がなげーんだよ!! 読む気もないがのー がはははは!!!!!!
おーい ザ・タイガーさん あんたのコラム楽しみにしてるぞー
新日30周年記念の東京ドーム大会、テレビ視聴率はわずか7.1%であったらしい。これは単に「視聴率が振るわなかった」で済む話ではないだろう。なんせ、30周年の記念大会だからな。 まあ、視聴率が悪かった理由は明らかだ。それは、ザ・コブラが出場しなかったことにある。蝶野は大きなミスを犯したようだ。 しかし、「キングコブラになって帰ってくる」と言い残して新日から姿を消したザ・コブラだからな。いくら30周年ドーム大会だからと言って、キングコブラになっていないのに出場するというわけにはいかないだろう。コブラの不出場は当然のことであり、この点で蝶野を責めるのは酷というものだろう。 とは言え、ザ・コブラが出場しないことで視聴率的に大きなダメージを被ることはわかっていたわけだから、相応の対策を取る必要はあったと言えよう。 今回のTV放送では、プロデューサーとしての蝶野を前面に出した構成となっていたが、基本的に、「プロデューサー蝶野」なんてどーでもいいよな、視聴者からすると。知ったこっちゃねえよ。 プロレスファンにしたって、「プロデューサー蝶野を猪木が審判する!」なんてどうでもいい話。欲しいのは「試合」そのものだからな。テレビ朝日は、結局、センスが無いってことだな。下手なショーアップをするより、純粋に試合を流した方がよほど視聴率が上がるんじゃないか。 まあ、言ってしまえば、これまで脳みそを使わないプロレス放送、いや、TVだけじゃなく、新日そのものも脳みそを使わないプロレスをやり続けてきたことのツケだよ。 「遺恨」だの何だのと、「リング外」の「化粧」を強調したやり方を続けてきたことのツケだよな。 長州の維新軍が人気を得たのなんて、対立の構図以前の基本中の基本として、「リング内」つまり試合そのものがレスリングの真っ向勝負だったからだぞ。どんなに対戦相手を罵倒しようとも、いざ試合が始まれば、正々堂々のレスリング勝負。そこに長州の主張や対立の構図、藤波とのライバル関係等々のトッピングが乗ったからこそ、ファンだけじゃなく一般の視聴者も、安心して試合を見ることができたし、また、素直に試合内容に引き付けられていったわけだ。 UWFだってそうだ。メディア戦略とかいろいろと成功させるためのトッピングはあったが、まずは試合ありき。誰もが安心して見ることができる、つまり、「なんだ、乱闘して終わりかよ。見るんじゃなかった」とか、「おいおい、でかい男がチンタラチンタラやってんじゃねえよ」とか、そういう裏切られる心配が無い試合をやったからこそ、トッピングがシナジー効果を発揮した。K-1やプライドもそうだ。まだ一般に認知されていなかったときに、ビッグネームの起用等の戦略はあったとは言え、試合そのものが安心して見ることができるという、「見るものからの信頼」を得ることができたからこそ、一般視聴者にも受け入れられた。 この点、新日のTV放送では、毎回毎回チンケなことをやってきたからな。試合そのものを強調するのではなく、常に、リング外のことを前面に出してきた。橋本の「負けたら引退!」だってそうだ。長州と小川のタッグマッチでも、リング外の部分で騒いで、肝心の試合そのものがチンケだったりな。 言い分とすりゃあ、「リング外の部分で視聴者の目を引き付けて、その後は試合内容で取り込む」ってことなんだろうが、今の時代、そんなチンケなことでホイホイ乗ってくるような視聴者はいないってことだ。今の時代は「本物」じゃないと勝負できない。「試合そのものに対する信頼」が無いものは、TVでは駄目ってことだ。これまで信頼を作るようなことをやってなかったのに、いきなり「リング外の部分で視聴者の目を引き付けて、その後は試合内容で取り込む」みたいなことを考えたって、そりゃ無理だよな。 新日を直ちにどうにかすることはできないだろう。で、このままだといずれ死を迎えることになりそうだ。 新日がやるべきは、とにかく、試合をプロフェッショナルなレスリングによる真っ向勝負の場に変えること。TVも、取ってつけたような飾りはいいから、レスリングの魅力や迫力を伝えることに主眼を置くこと。それができた上で、脳みそを使って、いかに迫力あるレスリングを展開するかを考えること。いかに殺気溢れる、だが、流血だの反則だのが無い正々堂々のレスリングを展開するかを考えること。いかにショーアップするかを考えること。どんなメディア戦略を取るべきかを考えること。 会場には「ファン」が集まってくれるが、TVはファンだけでは数が足りなくて、一般視聴者を取り込むことが大切。そのためには、ファンが「プロレスって最近、凄いらしいねぇ」と、チャンネルを合わせようとするような状況を戦略的に作っていくこと。 それができないなら、やはり、ザ・コブラを呼ぶしかないだろう。 http://hyper4.amuser-net.ne.jp/~auto/b29/usr/snakepit_id/brd1/bbs.cgi?email=&wtpass=
『その昔、蝶野と三沢が対談した時に、ドームクラスの会場では、アリーナ客が何をやってるのか確認できないからグランドでの攻防は極力さけた方がいいかもなって話で同意しあってたよ。』という話をする奴がいる。 そんなもん、単に、蝶野と三沢が、古臭い発想から抜け出していないだけの話だ。 基本的に、ドームクラスの会場ってのは、プロレスみたいなものには向いていない。 映画とかコンサートならいいけどな。映画は大画面で遠くの客にも十分見せられるし、音楽は「音」がメインとなる。 その点、プロレスってのは、レスラーが身長25mに巨大化するわけにはいかないし、リングの上の音だけ聞かせても意味が無いわけだ。リングの上で展開する試合そのものを見せてこそ意味がある。だから、そもそも、ドームみたいなところでプロレスをやるってことは大きな間違いだ。 しかし、興業収入であるとか、ドームならではの雰囲気であるとか、いろいろな理由によってドーム大会は行われる。 そうなると、「会場が大きくなるとよく見えなくなるから・・・・」という発想が出てくるわけだが、そうではなく「大きな会場だから・・・」という工夫の発想が必要となってくる。 会場が大きいとグラウンドが見えないから、という発想に立つと、「ドームでの試合は、極力グラウンドを少なくして、動きを大きくしよう」という話になってしまう。だが、これは、一方でプロレスそのものを壊してしまう。 ここで発想を変えて、「大きな会場でもグラウンドレスリングの凄みを伝えるにはどうすればいいか?」と考える必要があるのだ。 ドームの場合、大画面が使えるんだし、そもそも観客は見えにくいことを承知の上で来ているんだから、あの大画面をフルに活用すればいいのだ。リング上の音もマイクで拾って場内に流せばいいのだ。 観客は、豆粒のように見えるリングの上の動きと大画面とスピーカーから流れる音を、自分の中で容易にリンクさせることができるわけだから、映像・音響機器がもたらすメリットを最大限に使えばいい。ファンは、グラウンドの展開になると、すぐさま大画面を見て、リング上で起こっていることを特別リングサイドにいる以上の詳細さで見ることができる。レスラーの息遣い、激しさを知ることができる。 ここで必要になるのはカメラワークや音声の技術。そんなものは、ドーム大会を成功させるには、できて当たり前のこと。 そういう工夫をしないのが、プロレスがまだまだ甘いところだ。 こういうのは、センスと実行力の問題であって、プロ野球なんて、もう何年も前から、ピッチャーの球速を表示してファンを一層楽しませることをやっている。 「大画面で、見えにくいグラウンドの攻防をじっくりご覧ください。これは、会場に来た皆さんだけの特典ですよ。」っていう打ち出し方をして、その面白さを伝えること。これが「ファンを教育する」部分。「それをすると、会場のファンが一層楽しめるだろうな」ってのが、ファンから「潜在的ニーズ(=大会場では見えにくいのを何とかしたい)」を学ぶ部分であり、アイディアとセンスと実行力が問われる部分だ。 こういう「困難を違う発想で乗り越える」ってことは、「コブラの壺」にも要求されるものだろう。今や、誰にも見放された「コブラの壺」だが、この苦境を乗り越えるには、クリエイティブな考え方を持ち込めばよいのだ。大きな勝負どころだ。
わかっていない奴は、『提供する側が客に教育されるのだ。』なんていうことを言いやがる。 ザ:タイガーが数年前に無差別級で「ファンを教育することも重要だ」ってなことを書いたときにも、「なんでプロレスを見るのに勉強しなけりゃいけないんだ?」なんて言っていた奴がいたけどな。 都合のいいことに、ここ数年のプロ格闘技界とファンの動向は、俺の主張の正しさを証明してくれている。 かつて俺は、大技を並べたり頭から落としたりして“刺激”でファンを引き付けるのではなく、リングスがWOWOWで高坂を使って関節技教室を放送していたごとく、ファンにレスリングの知識を持たせるように努力することで、レスリングそのものを見て喜ぶファンを育成することの重要性を主張した。そのときに取り上げた例の一つがプロ野球だ。 プロ野球は、何も知識を持たない人間が見ても、それなりに楽しめる。特に、ホームランやヒットがガンガン飛び交う大打撃戦にでもなった日にゃ、理屈抜きに見てて楽しいしな。 だが、そういう楽しみ方ってのは、持続しないし浅い。数回繰り返せば「もういいや」となる。 それよりも、ピッチャーとバッターの駆け引きの理論、守備の技術、チームとしての攻撃の技術・・・等々、選手を引退した解説者が聞かせてくれるような技術的な部分を理解し頭に入れた上で試合を見ることができるようになると、プロ野球を深く持続する形で楽しむことができるようになる。 これはプロサッカーでも言えることだけどな。サッカーについての知識が無いままに、派手に走りまわり、超ロングシュートが決まる試合を見るのは面白い。だが、ルールやサッカーならではのテクニックについて知識を持ちながら試合を見ると、もっと面白くなる。 ボクシングだって同じこと。ボクシングを知らなくても、対戦相手をパンチで綺麗にKOする試合は単純に面白い。わかりやすい。だが、パンチを打ち合う上での駆け引きや防御のテクニックなんかについてわかった上で見ると、面白さの質が変わってくる。単純に、KOシーンだけで楽しむのが物足りなくもなる。 この数年間で、かつては相撲とプロレスが独占していたも同然のプロ格闘技界に登場したのが、K-1でありプライドだ。そこで何が起こったか。 大勢のプロレスファンがK-1やプライドに流出した。 だが、もっと細部に注目してみると、かつては全日の肉弾戦やらジュニアの派手な技の展覧会を見て、そこから得る“刺激”によって満足し喜んでいた連中が、したり顔で「技術」を語るようになった。これが注目すべきポイントだ。 格闘技雑誌や誰かの書き込みを読んでの受け売りにせよ、技術を楽しむファンが大勢生まれるようになったこと。それも、誰かに強制されていやいや受け入れたのではなく、自主的にそういう見方をするようなファンが生まれるようになったこと。これが大きい。 ごく自然に勉強して知識を身に付け、ごく自然に新しい楽しみ方をするようになっているわけだ。これがプロレスでできない理由は無い。既にUWFが良い実例となっているしな。 言っておくが、「結局UWFは長続きしなかったじゃないか」ってのは的外れだぞ。長続きするかしないか。それは、「持続させられるかさせられないか」という、提供する側の能力の問題になってくる。いくらパソコンのバイオが大ヒットしようと、ソニーがそのヒットを持続させる努力をしなければ、あるいは、ソニー自身が問題を起こしてバイオどころじゃない状態になってしまえば、バイオが廃れるのは当たり前のこと。プロレスに限らず、努力無しに持続するものなど無い。 ビジネスとして見た場合、「提供する側」が顧客たるファンに学ぶという部分は確かに存在する。ビジネスってのは、顧客のニーズを満たすことによって成立する。 だが、勘違いをしちゃいけない。顧客に学ぶってのは、「お客様のお求めになるものをお教えください」ってことだけじゃない。 基本的に、ファンには新しいものを自らクリエイトし実践していく力は無い。出されたものを受け入れて、その範囲で楽しむだけだ。 新しいものをクリエイトするのは「提供する側」だ。その新たに提供されたものに対し、ファンが新しさを感じたり、従来慣れ親しんだものに無い魅力を感じたりして飛びついてくる。この例が、UWF、K-1、プライドだ。 新しいものが成功するには、ファンの「潜在的ニーズ」ってものを突くことは必要だが、ここで勘違いしてはいけない。ほとんどのファンは、自分がわかっているものの範囲でしか求めることをしない。自分が知らないものについては求めることをしないんだよ。 そんなものは「ニーズ」と呼ぶほどのものじゃない。 UWF、K-1、プライド。こんなもん、実際に出てくるまでは、業界関係者だけじゃなくファンだって「そんなものは面白く無い」って言ってたんだからな。 だが、結局のところ、ファンは、UWFの楽しみ方、K-1の楽しみから、プライドの楽しみ方を「教育」されて、これらを受け入れ楽しむことができるようになったわけだ。その裏には、団体関係者やマスコミなんかの多大な“教育のための”努力がある 『提供する側がファンに教育されるのだ』なんていうアホなことを言っていちゃいけない。ファンなんかに教育されたら、ろくなことにはならない。そういうのを「ファンに媚びる」と言うんだよ。 UWFもK-1もプライドも、ファンに教育されたんじゃない。 プロ格闘技でファンが求めているものってのは、結局のところ「本物」だ。 UWFにせよ、K-1にせよ、プライドにせよ、なぜ大勢のファンが群がったかと言えば、ファンが「これは本物の闘いだ」と思ったからだ。小川が出ると沸くのも、「小川の強さは本物だ」と思うからだ。旧・全日の試合にしたって、あの気持ち悪い固定ファンがついたのは、「この肉弾戦は本物だ」と思ったからだ。 その「本物が欲しい」というニーズを掴み、それを満たしながら、ファンを教育し育てることによってUWF、K-1、プライドは成功したんだよ。 新日も、やるべきは、第一に「本物のレスリング」を提供すること。マットから立ち上がるという、目立たない動き一つ疎かにしないで、きちんとしたプロフェッショナルなレスリングを提供すること。その上で、ファンに「レスリングとはこういうものだ」という教育をしていくこと。本来、雑誌やTVのマスコミも巻き込んでやるべきだけどな。 そうして、レスリングそのものを楽しむようなファンを育てていくこと。その上で、ショーアップや抗争劇やストーリー作りやらをやればいいんだよ。 これは「コブラの壺」の再生を進めていく上でも言えることだ。 確かに、今の時点では、多くの書き込みファイター達が「コブラの壺の存在価値は?」と言うかもしれない。 だが、このコブラの壺における激闘を通じてそういう連中を「教育」し、コブラの壺の闘いに引き込んでいくこと。それが大切だ。
かつて歴戦の強者が激闘を繰り広げた「コブラの壺」。あのザ・コブラまでを登場させるパワーを誇った「コブラの壺」。その存在感は、「壺の前に壺無し。壺の後に壺無し」と称されるほどであった。 それが今や、その存在価値を問われるほどに落ちぶれてしまったのだ..... 我々はそんな「コブラの壺」に、現在の新日本プロレスの姿をダブらせることができる。 新日30周年記念大会を前にして、橋本は「新日本プロレスを見せることが大切なんだ」ということを言った。この橋本の言葉には、今、コブラの壺が必要とする大切な視点がある。 「存在価値」とはいったい何か? かつて日本のプロレス界には新日と全日しかなかった。一時期は国際もあったけどな。この二つの団体は、相交えないプロレス観を持ち、プロレス界に対立の構図をもたらしていた。この対立の構図が両団体にもたらしたもの。それは「存在価値」であった。 今や、ゴミのような団体まで含めると、いちいち覚えてられないぐらい団体数が増えてしまったプロレス界。新しいものがどんどん増えたのではなく、既存の団体が分裂や合体を繰り返し、「レスラー不足」を理由として本来レスラーとなるべきでない者までが取り込まれ、そのどさくさに、力の無いものがプロレスラーを名乗るようになり、かつてストロングスタイルを旗印にゆるぎないプロレスのあり方を築いていたはずの新日でさえ「己は何者であるか」を見失ってしまい、多数の「似たり寄ったり」が溢れんばかりに存在する世界となってしまった。 似たり寄ったりが大勢並存する状況であっては、「お前でなければならない」必要は無い。どれでもよくなるわけだ。 ファンは寄ってきても、それは“たまたま来ただけ”ということになる。ちょっとでも飽きれば、直ぐに去っていく。そんなファンを引き寄せるために、ファンに媚びるようになる。その結果、ますます浮ついたファン、いや、「ファン」と呼ぶまでも無い連中を一時的に集めるようになる。その繰り返しに陥る。 こんな世界になったからこそ、「己は何者か」を強烈に打ち出すことが必要になるのだ。他の何者とも違う「己はこれである」という強烈な“Only One”としての存在。それを打ち出したとき、己を他者から差異化させることができるようになる。 そこに「お前でなければならない」という存在価値が生まれてくる。 橋本は、こんなプロレス界の状況だからこそ、「これが新日本プロレスであるという“己”を明確に打ち出せ」ということを言ったわけだ。 現在のコブラの壺が必要とするもの。それは、「己は何者であるか」という自己の確立。すなわち、「これぞコブラの壺」という揺ぎ無い姿を作り上げること。 では、「コブラの壺」のあるべき姿はどうやって作り上げるのか?それは、壺で闘うファイターが己の闘いによって作り上げていくのだ。
せっかく独占しようと思ったのに、もう乱入してきやがった。 まあよい。 俺がここに、最高のコブラの壺を蘇らせる!!
ここの、存在価値ってあるのか???