五十子の戦い[長尾景春×山内上杉顕定(1477 1/早々)
・・・山内上杉氏の家宰・長尾景信の跡目争いが原因の争乱]
よくある跡目争いです。山内上杉顕定は長尾景信の死後、跡目を弟の忠景に継がせようとしたが、
これに怒ったのが景信の息子の景春である。景春は鉢形城に拠って山内上杉顕定に叛いたが、
江戸城の太田道灌が恐いのでしばらく睨み合っていた。
・・・が、その道灌が今川氏の調停に駿府に向かった隙に、山内・扇谷両上杉と忠景を五十子において敗走させてしまった。
★この両上杉氏はこの頃は仲良かったんですな。後に戦ってはくっつき、早雲につけ込まれる隙を与えますが・・・。
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高輪原の戦い[北条氏綱×扇谷上杉朝興(1524 1/13)
・・・北条氏の武蔵進出の転機となった重要な一戦]
早雲の跡を継いだ氏綱は、小田原城より東・武蔵の国への進出を目論んでいた。
その地域に勢力を誇っていた扇谷・山内上杉氏もやや翳りの色がみえ始め、
それにつけ込んだ氏綱は、両上杉氏の家臣の内応工作を進める。
おりしも江戸城守備にあたっていた太田資高が内応に応じた為、これをチャンスと見た氏綱は、武蔵の国へ兵を進めた。
一方、扇谷上杉朝興も江戸城を打って出て1524年1月13日・高輪原での合戦となった。
激戦の結果、扇谷上杉朝興は、敗走し江戸城に逃げ帰ったが、氏綱は追撃の手をゆるめず江戸城をも落として、
ついには河越城まで追い落とされてしまった。
★これを契機に北条氏は関東制覇の第一歩を踏み出した。
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第2次国府台の戦い[北条氏康×里見・太田連合軍(1564 1/8〜1/9)
・・・油断してたらやられちゃった、里見義弘]
それまで北条家の家臣であり、氏康の娘と結婚していた太田康資が里見家に寝返った。
当然面白くない(というか、許せない)北条氏康は太田康資および里見義弘を討つ機会を狙っていた。
その折、上杉謙信が武田信玄と争う為、里見義弘にも出陣を命じ、里見義弘は太田康資とともに国府台に出陣した。
謙信との挟み撃ちを恐れた北条氏康はこれを迎撃する決意を固める。両軍は1/8国府台地で戦となったが・・・
この戦いは里見家の勇将正木大膳の活躍により、里見側の大勝利となった。
里見の武将は気をよくして祝杯をあげ、緒戦の勝利を祝った。
しかし実はこの時、散り散りに逃げたはずの北条軍は、闇に紛れて密かに国府台の東方に迂回、山手に陣をひいていたのであった。
翌9日早朝、北条軍が一斉攻撃を開始した。そして、あっけなく里見軍は敗れ去ったのである。
死傷者は北条軍3,700、里見軍5,300であった。
★里見軍油断しちゃったね。
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上和田の戦い[徳川家康×一向一揆(1564 1/11〜1/13)
・・・家康にもあったマイナー時代の試練]
三河でおこった大規模な一向一揆である。この一揆には、農民だけでなく反家康の勢力も多数参戦した。
また、家臣の中にも一揆に参加するものまでおり、この一揆を静めるために、家康は非常に苦労したのである。
年末から始った一揆は、年を越えると激化し、11日に上和田で大久保党との戦となった。
12日には、あわや家康が鉄砲で狙撃されるか、、という事態も起こるほど激戦だった。
しかし、その一揆も家康家臣団の団結により、2月に入るとしだいに沈静化していった。
★家康もかわいい頃があったのね・・・って、当然か(^^;
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掛川城の戦い[徳川家康×今川氏真・朝比奈泰朝(1569 1/12〜5/17)
・・・今川家の運命もここに潰える]
前年に武田家に駿府の今川館を追われた今川氏真は、遠州掛川にある今川家重臣・朝比奈泰朝が守る掛川城に逃げ込んだ。
しかし今度は、武田家と共同で今川攻略にあたっていた徳川家康に城を囲まれる羽目になる。
甲相駿同盟の破棄後、あっという間に追い込まれてしまった氏真ではあったが、最後に逃げ込んだこの掛川城は、
守将の朝比奈泰朝が思いのほか強く、家康の出馬も有効な手立てにはなり得ず、長期戦となった。
その内、「遠江は家康」の約定を破って武田側が遠江の諸城にもプレッシャーをかけはじめたため、
家康は調略によって和議にもちこみ5月17日開城となった。氏真は伊豆に落ちのびて今川家は滅亡した。
★しかしこの氏真、結構長生きするんだよね。なんか微笑ましいと思うのは私だけ?
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第2次薩垂峠の戦い[武田信玄×北条氏政(1569 1/18〜4/20)
・・・今川家の同盟国・北条家が立つ?しかし・・・]
武田の同盟破棄・今川侵攻におこった北条氏政は、大軍45,000の兵を率いて氏真の救援に向かった。
しかし、武田軍も18,000の兵力でおしだし、両軍は薩垂峠で睨み合いの形となった。
しかし両軍はこのまま動かず、気付けば3ヵ月もたった後、兵を退いてしまうのである。何してんだか・・・。
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花沢城の戦い[武田信玄×大原資良(1570 1/4〜1/8)
・・・今川家の運命は潰えたが家臣は頑張っていた]
信玄の今川侵攻の1つである。が、今川家の家臣・大原資良は最後まで信玄に屈すること無く抵抗を続けた。
もはやかなわぬ、、となったところで大原資良は城を脱し、今度は高天神城に寄って最後まで抵抗を続けた。
こうしてみると今川家には骨のある家臣も沢山いたような気がする・・・あっぱれ!
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深沢城の戦い[武田信玄×北条綱成・氏繁(1571 1/3〜1/16)
・・・綱成の奮戦も武田方に屈す]
しかしこの深沢城・・もとは武田方の城である。それを前年の4月北条氏康が攻めてものにしたのであった。
北条はこの城に綱成を入れて防備を固めたが、翌1571年に再度信玄に攻められた。
よく堪えて援軍を待ったが、信玄が「もぐら攻め」と呼ばれる、城の下に金堀人夫を使って坑道を掘る作戦にでたため、
薄気味悪くなって16日に城を抜け出したのである。用意していた援軍は間に合わなかった。
★その後もこの城をめぐって武田方と北条方の戦いは続いた。
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野田城の戦い[武田信玄×菅沼定盈(1573 1/11〜)
・・・信玄銃撃さる!、、の話が残る合戦]
いよいよ天下に向けて進軍する武田信玄の部隊が、前年三方ヶ原で家康を破り意気揚々と次の攻略目標野田城に迫った。
徳川方に奪われていた城を奪還しにいったのである。しかし城将・菅沼定盈の守備は堅く、
業を煮やした信玄は、水の手を切ってようやく開城にこぎつけた。
菅沼定盈は切腹覚悟だったが助けられ、後に人質交換の際に使われた。
祝杯の中・・・しかし信玄には、逆らえない運命が迫りつつあった。
そう、この野田城の戦いが信玄にとって最後の戦いとなってしまったのである。
陣中で病にたおれ、そのまま病死してしまうのである。享年53才の早すぎる死であった。
★なお本当は病死ではなく、この野田城兵に狙撃され、それが元で死んだという話もあるが、真偽のほどは定かではない。
★黒沢監督の映画「影武者」の冒頭シーンもこの狙撃からはじまってます。
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中新田の戦い[大崎義隆×浜田景隆・留守政景(1588 1月〜2/23)
・・・伊達政宗が背後の安定を図るために行った戦]
伊達政宗はかねがね考えていた。「佐竹義宣や最上義光、芦名義広と戦うにあたって、
背後に位置する大崎義隆はどうしても討っておきたい相手・・・」
するとこの願いを実行する、絶好のチャンスが訪れることになる。
大崎氏の重臣、岩出山城主・氏家吉継が大崎家を離反、援軍を求めてきたのである。
政宗は浜田景隆・留守政景に兵5,000を与え、大崎軍の篭城する中新田城を攻めさせた。
ところがこれが上手いようにいかず、逆に他の城の軍に背後を取られるなどして、
今度は逆に伊達軍の方が新沼城に閉じ込められる形となった。
留守政景は、仕方なく人質を差し出して和議を申し込み、2月23日に自軍の救出となった。
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