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  Yamakan さん 返信
  山カン一代
 ツッコミにご返事いただきありがとうございました。感激で動悸(道鬼)が止まりませぬ。
山本勘助(菅助)は『日本外史』では「三河の人、眇目萎僻、兵を尾形某に学び今川氏に仕える。義元奇とせず。板垣信形これを武田晴信にすすむ。晴信喜び、即日二百貫の邑を与え名を晴行と賜う」とあります。川中島合戦で討ち死にしたとありますが、同時代史料に見えず、「晴」字は将軍足利義晴より「一字拝領」したもので家臣に勝手に与えてはいけない筈だが、などと存在が否定されていた時代もありました。
 まあ、正体が分からない方が脚色自由自在で、井上靖『風林火山』では策を立てて誤ることなしという、三国志の孔明のような軍師にされています。映画では三船敏郎が演じていました。
 あの映画は三船プロ昭和44年で監督は稲垣浩ですが、信玄が萬屋錦之介、謙信が石原裕次郎、由布姫が佐久間良子、板垣信形が中村翫右衛門、少年武田勝頼が中村勘九郎、槍持ちが尾形 拳という、ため息の出る贅沢なキャストでした。もう富士山麓では馬が集まらず相馬野馬追祭の騎馬隊を動員して撮影されました。この時代、相馬藩の農兵制度もまだ記憶にあり、戦前の騎兵隊の実戦経験者もいたからそれなりの迫力があったのでしょう。その後のテレビや映画は騎馬パレードのようで迫力が今ひとつです。
[279] 2001/05/20(Sun) 06:31  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  ご教示感謝します
 楽しく読ませて頂きました。菅助ギャグはこんど追加しておきます。
 
>「晴」字は将軍足利義晴より「一字拝領」したもので・・・
 とんでもない説を唱える人がいるものですね(笑)。江戸期の一部の歴史家の著述を見ると、現在では通用せぬことが平気で書かれていますね。

>映画『風林火山』
 私はこの映画をみて育ちました。いま見ますと時代考証に不服が残りますが、当時はなんて武田軍はかっこいいのだろうと、胸ときめかせて見ていたものです。萬屋錦之介の信玄役は良かったですが、石原謙信は似合ってなかったですよね〜。そう思うのは私だけでしょうか??
[288] 2001/05/21(Mon) 08:11  削除  修正 
  野崎 さん
  Re: 山カン一代
 石原裕次郎は何と言っても現代劇の人でした。歌舞伎の空気を吸っている中村錦之助にはかなわないと思います。
 山本勘助は『甲陽軍鑑』編纂の小幡勘兵衛景憲の先祖だとされていますから、近代史学が入ってくると風当たりが強くなったのだと思います。
[293] 2001/05/21(Mon) 12:44  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 山カン一代
 私の年代ですと、石原裕次郎といえばやはり「西部警察」です(笑)!
[304] 2001/05/22(Tue) 20:38  削除  修正 
  吹雪 さん
  Re: 山カン一代
映画、風林火山の時代考察を手伝った人の中に、「鎧をまとう人々」著者 藤本正行氏もいたらしいです。その時武田の家紋は花菱のみと、気づいたとも書いてあったような気がします。
[326] 2001/05/23(Wed) 22:22  削除  修正 
  野崎 さん
  Re: 山カン一代
 相馬中村藩は一応武田流の軍学を採用
していました。あの映画は当時としては当世具足や面頬をそれまでの歌舞伎や村芝居的な考証よりリアルに扱っていました。
 少しは戦国時代の感じになっていたと思います。御乱舞(能)上演の場面など秀逸でしたね。確か諏訪氏暗殺の段でしたが。あと雑兵が野太刀を三人がかりで振り回す場面を記憶しています。
[328] 2001/05/23(Wed) 23:46  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 山カン一代
>あの映画は当時としては・・・リアルに扱っていました。
 そうでしたか・・・。黒沢映画と比較してしまうと、甘い部分が目に付くのですが、当時としては先駆的作品だったのですね。
[336] 2001/05/24(Thu) 07:26  削除  修正 
  三浦 さん  HomePage
  映画「風林火山」
 小生の世代の映画です。ほぼ同じ頃NHKの大河ドラマでは「天と地と」を放映していました。元禄以来の信玄、謙信の大ブームでした。次のブームが十二年程前にありました。どの映像を見ても『甲陽軍鑑』さながらで「カッコイイ」の一言です。
 因みに聴きますが戦争ってカッコイイですか? 殺し合いですよ。戦前の嫌な教育のことは一寸は知っているでしょ。小生は長年古武具を見てきて思うんです。戦争を忘れてから起こる戦争ってさらに大きな戦争になるのだと。
 江戸期に書かれた書物に、以前に行なわれていた戦闘をまともに伝えるものは何一つとしてありません。これは、幕府が行為的に行なった政策だと思います。そこで新たに生まれた武士道、忠孝の思想は明治になって天皇崇拝へと繋がっていきます。日清、日露の戦争を経て大陸へ侵攻。そして太平洋戦争へと続きます。この間に先の思想は脈々と受け継がれ、強いて言えば「戦艦大和カッコイイ」ということになったのです。
 「特攻」などという目茶目茶な攻撃は、江戸期の軍学に見られるとおりです。忠義を尽くすことを強制し、そこに美と説いたのです。
 その点、戦国期はどうでしょう。嫌なら次々に主君を替えられます。野戦において陣城を構えることなど、江戸期の書物には書かれてありません。それは、まさに上官の「撃て! 放て!」の世界です。
 戦争は絶対にしてはいけない。そのために真の戦争を忘れてはいけない。
[343] 2001/05/24(Thu) 17:23  削除  修正 
  Yamakan さん
  Re: 山カン一代
 左様でござるか。拙者、古き戦は歴史の鑑(かがみ)と思ってござる。カッコの問題でなく、人間はどのように生きどのように闘い、死後どのように後の世に評価されてきたか、今同じ様な状況に置かれた時、自分は人間としてどう行動するべきか。
 『書経』『史記』の昔から先人の行いを明らかにするのは今の生き方を学ぶためでござろう。
[345] 2001/05/24(Thu) 19:51  削除  修正 
  三浦 さん  HomePage
  左様という訳ではありません
 歴史上のことを人生の参考にするのはいいことだと思います。死後に後世の人が己を評価してくれるのは喜ばしいことですし、生きている間にそれだけ価値のある仕事をしなければなりません。それって凄く大変なことです。
 古今の東西を問わず、人類の歴史は戦争の歴史といってもいいでしょう。そこに己の意思で戦った人はどれだけいるでしょう。多くはこれに反してイデオロギーによって洗脳され、強制的に戦場へ狩り出されたのです。ある戦争体験者の言葉です。「初めて出会って、名も知らぬ人を殺さなくてはならない。これが戦争だ!」 
 今同じ様な状況に置かれないように、歴史を正しく認識し真の戦争を伝え、戦争のない世界にしていくことこそ、後世の人が評価してくれる人になれると思います。
 日本甲冑を研究していると、ついそんなことを思うんです。
[354] 2001/05/25(Fri) 17:02  削除  修正 
  猛馬飼育係 さん
  戦争防止のために
三浦先生のおっしゃる通りですね。戦争は常に民衆を大変な不幸に陥れることを、認識しておく必要があります。
民衆が戦争にかりたてられる時、そこには時の権力者や煽動者の力が介在していることが多いと思います。ボスニア・ヘルツェゴヴィナやコソボなどでも、民族が異なってもそれまで近隣の住民同士仲良く暮らしていた人々が、突然殺し合いを始めたことも多かったと聞きます。やはり権力者や煽動者の力も大きく作用していたのでしょう(もちろんそれだけが原因ではないと思いますが)。
自分は自衛戦争は否定しませんが、それだってぎりぎりまで回避する努力はすべきでしょうし、本当の意味の“自衛”か、“自衛”の名をかりた“侵略”かどうかを見極める必要があります。
我々庶民が彼らの煽動にのせられることなく、自分の頭で考え真実を見極め、平和で幸福な社会を築いていくためには、様々な事柄を学ぶ必要があると思います。そして歴史を学ぶ意義もそこにあると考えます。
[360] 2001/05/26(Sat) 12:03  削除  修正 
  上杉越後守影虎 さん
  Re: 山カン一代
確かに三浦さんの言う通りですな。
歴史絵巻などで見るのとは違い、戦争など本当に悲惨なものであります。
ことに一般民衆は一番悲惨です。
有事には兵隊に駆り出され、最前線で犠牲を強いられる。それでいて年貢は容赦なくとり立てられる。敵方の民衆は家を焼かれ略奪にも逢う。
この当時は為政者たちは民衆を自分たちと同じ人間とは考えておらず、人の命は信じられないほど軽いものだったんですな。
否、民衆だけでなく家臣たちもちょっとした落ち度やその時の動向の変化ですぐに手討ちになったり、詰め腹を切らされることになったりします。
歴史を見てみるとこれらの為政者の身勝手さ、民衆蔑視にとても腹が立ちます。
ことに京都の天皇、将軍などはその最たるものと言えましょう。都合よく利用しておいて少しでも意のままにならないと切り捨てようとするあたり、ずるい人種の見本といえますな。
そうした恐るべき民衆蔑視、人権軽視の時代が何百年も続いてきたのですが、その中にあって民政に心を砕いた為政者の存在は特筆すべきものがありましょう。
今思いついたものだけで北條5代、直江兼続公、上杉鷹山公があげられます。
北條氏の小田原城は町全体を城郭で取り囲んでおりますが、これを北條氏の民政に対する考え方の一端が現れていると見るのはそれがしだけでしょうか?
[364] 2001/05/26(Sat) 19:02  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 山カン一代
>人の命は信じられないほど軽いものだったんですな。

 話がそれて申し訳ないのですが、私は昨晩『五条霊戦記』という邦画を見ました。そこでの映像は殺戮の数々でした。遮那王が小気味よく平家の武者を殺害していくのですが、それは人命軽視にも繋がりかねないと思いました。近頃のゲームセンターの格闘ゲーム(私は今はやらなくなった(笑)もしかりだと思います。実際に試してみたくなるものですよね。
[372] 2001/05/26(Sat) 21:14  削除  修正 
  上杉越後守影虎 さん  HomePage
  人命軽視の風潮
帯刀どの、さっきは途中で抜けてすみませんでした。パソコンの調子が悪くて色々やってるうちに来てみたらだれもいなくなっていたようでした。
しかし、ゲームで人命の軽視に繋がりかねないものは結構ありますな。ある意味では怖いかもしれませんな。
あと、上の発言で誤解のないように付け加えておきます。
上で京都の天皇、将軍は、と申しましたが、あくまで当時のことについて申したのであり、天皇制の反対とか何とかをあえていうつもりはないです。
かといって、熱烈な尊王思想を唱えるつもりもありません。
それがしにとっては天皇家は長く続いた旧家といった認識しかないです。
[378] 2001/05/27(Sun) 02:46  削除  修正 
  三浦 さん  HomePage
  生きるってこと
かつてこんな曲を世界に向かって歌った人がいました。
 思ってみろよ 天国なんてものはないと
 やってみればわけないさ
 おれたちの足の下に 地獄なんてあるものか
 頭の上には空があるだけさ
 思ってみろよ 今日のために生きている
 すべての人々のことを…
 彼は人権や反戦を訴え、人生半にして1980年12月8日に当局によって洗脳された若者にニューヨークで射殺されました。彼のが残した曲は、死後二十年経った今でもよく聞かれます。そこには彼の魂を込めた命懸けの訴えがあったと信じています。生きる勇気と感動を与えてくれた彼の突然の死に世界が泣きました。
 人は永遠には生きられません。しかし、魂はこの歌のように永遠に語り継がれるのです。「今日のために生きている」ということを認識し、この掛け替えのない命をどう生かすかは、各々の自覚にあると思います。
[385] 2001/05/27(Sun) 10:58  削除  修正 


  上杉越後守影虎 さん  HomePage 返信
  古田織部
大阪城天守閣の画像はないですが、興聖寺蔵のならあります。ただ、白黒なので衣服の色がわかりません。
出来れば画像を送っていただきたいのですが。
[379] 2001/05/27(Sun) 03:04  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 古田織部
興聖寺にある古田織部束帯姿の鮮明なカラー画像をお送りします。宜敷くお願い致します。
[381] 2001/05/27(Sun) 08:31  削除  修正 


  上杉越後守影虎 さん  HomePage 返信
  出自
自己紹介に宮下(神氏)とありましたが、これは諏訪氏(神氏)と同族なのでしょうか?
諏訪氏や九州の阿蘇氏は天皇家とも肩を並べるような伝統を持つ古代豪族とのことですね。
[357] 2001/05/26(Sat) 01:01  削除  修正 
  石野真琴 さん
  Re: 出自
 私がレスする事ではありませんが、信濃神氏と言うのは、諏訪大社の上社大祝である諏訪氏を頂点とした一族です。
 諏訪氏の先祖は出雲系の守とされる、建御名方神(たけのみなかたのかみ)と妃神である八坂刀売(やさかのとめ)とされます。
 この神は大国主の国譲りに反対した次男で、建御雷之男神(たけみかづちのおしん)に破れ、諏訪の海まで逃げて来て帰順したとか。
 真田幸隆の弟矢沢氏、矢島氏、根津氏なども神氏に連なる一族です。ご推察の如く、太古の昔、信濃では絶大なる力を持った一族であると言えましょう。
 宮下殿の御先祖は、諏訪社の下に居を構え、宮下と家名を定めたのか、宮下という地名に住んで家名としたのか?いずれにしても諏訪社とは切っても切れない関係でしょう。
 そう言えば伊達政宗の家臣、片倉家も神氏に連なる家で、その縁で真田幸村の娘を娶ったとか。
[358] 2001/05/26(Sat) 01:31  削除  修正 
  野崎 さん
  Re:出自
 片倉小十郎は米沢成島八幡の神主の家
だったとか。闘って退くことを知らない
猛将伊達成宗と共に知将として伊達政宗
を助けて活躍しました。
[359] 2001/05/26(Sat) 05:27  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 出自
 神(みわ・じん)氏の嫡流が中世の諏方氏で、近世は諏訪氏と改めております。なにしろ平安期から栄えたものですから、信濃国に留まらず分流が至る所に繁茂しております。神氏であっても途中で源氏等を称した家もかなりあります(諏訪・知久氏等)。
 私の家は源氏と言われている(「宮下家系図」)のですが、そんなことはあろう筈もなく、神氏系であると思います。おそらく宮下神五員家(大祝有員の子)の庶流が伊那谷に移住したのでしょう。
 これ以上、つっこまないでくださいね。あくまでも推測ですから(笑)
[376] 2001/05/26(Sat) 21:38  削除  修正 


  笑軍 さん  HomePage 返信
  三国志ギャグ
本を呂蒙!(本を読もう!=呉下の阿蒙より。)
張宝している!(重宝している!)
孫権分立(三権分立)

失礼しやした!
[365] 2001/05/26(Sat) 19:06  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 三国志ギャグ
(笑)なかなかです!

>張宝
 といえば張角の弟??確か妖術が使えたはずですよね。「張宝している」とはなんとも恐ろしい言葉ですね!

 では私も・・・張魯なんかチョロイものよ〜 
[373] 2001/05/26(Sat) 21:20  削除  修正 


  孫六 さん 返信
  孫六の小劇場
ある若い女性が新潟県の上杉医院にやってきました。

謙信「どうしました?」
女性「お腹がいたいんです」
謙信「ちょとお腹を見せてください」
女性 (お腹を見せる)
謙信 「もっと上まで!もっと上まで!
看護婦 「餓え過ぎ!検診」

もし転載するのなら一番下だけで結構です。
故郷の飯島町には夏休みにでも行ってみようかなと思っています。なにしろ遠いんで・・・
[353] 2001/05/25(Fri) 13:09  削除  修正 
  上杉越後守影虎 さん
  Re: 孫六の小劇場
実はこれはそれがしも考えておったのですが、まさかこう来るとは。
なかなか面白いですな。
[362] 2001/05/26(Sat) 18:40  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 孫六の小劇場
 他人の誹謗中傷でなければ、下ネタも大いに結構!(笑)
[370] 2001/05/26(Sat) 20:50  削除  修正 


  三浦 さん  HomePage 返信
  信玄鍔
 刀剣の研究家に藤枝市で行なわれた「駿河の武田氏」に出品されていた鍔(目録の裏表紙に掲載)について聞きました。彼はこれをすぐに「信玄鍔」だと言われました。
 しかし、それは江戸期の俗称とのことで、直接武田氏に結び付ける根拠はないとのことです。こうした鍔は江戸期を通じて同形のものが幾つも作られ、その名で呼ばれていたとのことです。
 この品については、現物を見ていないのでなんとも言えませんが、少なくても太刀に用いたものではないようです。しかし、覆輪の形状等が古風であるため、天正期頃のものという意見でまとまりました。
 ムカデを表すといわれる特有の模様の象嵌ですが、そこからムカデ衆を連想し、この名が付いたのではないでしょうか。前にも言いましたが、ムカデの旗に古い遺物は一例なく、このムカデ衆という言葉についても『甲陽軍鑑』に見られるものが最も古い記録だと思います。これ以前の古文書等に記載が確認できる史料があれば教えて下さい。
[296] 2001/05/21(Mon) 18:05  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 信玄鍔
>ムカデを表すといわれる特有の模様の象嵌ですが
 藤枝市郷土博物館に飾られていた「信玄鍔」は、象嵌ではなくて銅線のようなようなものが接合されて出来ていたと思います。
 「むかでの指物衆」については、気に留めておます。
[306] 2001/05/22(Tue) 20:59  削除  修正 
  吹雪 さん
  Re: 信玄鍔
私も藤枝市で信玄鍔を見ました。鍔についてはあまりよく解りませんが、ぱっと見て「江戸時代ものだ.」と思ってあまりじっく見てません^^;信玄の物ではないとは思いますが、ホントに天正期のものなのですか?
なんか、時代にしては綺麗すぎた気もするけど^^;
[324] 2001/05/23(Wed) 22:05  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 信玄鍔
 私も天正期のものとは思えませんでした。そもそも意匠自体が江戸期のものですよね。
[334] 2001/05/24(Thu) 07:18  削除  修正 
  三浦 さん  HomePage
  勇気だ!
 これを分かるように主張して下さい。それがあなた方の課題です。真実を訴えるには勇気がいるものです。これが天正期のものでないといわれるなら議論しましょう。
 「信玄鍔」って、本当に信玄が考案して、忠義の代名詞であるムカデ衆の「ムカデ」をデザインした。いい話じゃないですか(微笑)。これって、稀の見る遺物じゃないんですか(爆笑)。
[355] 2001/05/25(Fri) 21:10  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  勇気を振り絞って!(爆)
 私は銅線のようなものを細かく切断し、それを一つ一つ曲げて溶接した技法を見て、江戸期のものだと感じました。天正期は実用的で、もっと素朴なものが多いのではないでしょうか。・・・素人の意見でした(笑)
[366] 2001/05/26(Sat) 20:30  削除  修正 


  ぷーよん さん 返信
  こんにちは
はじめまして
東京在住のぷーよんと申します.

プラ板を主な材料とする甲冑作りを趣味としていましたが
できるだけ実物に近い材料、拵えで作ってみようと思い立ち
ネットで検索しているうちにここにたどり着きました.
こちらにいらっしゃる方々は甲冑に詳しそうなので
いろいろと教えていただけたら幸いです.

まずは威糸からと思い、組紐の本で調べてみましたが
鎧と関連付けて記述されている訳もなくお手上げ状態です.
逆に鎧の本には啄木、樫鳥等々の表記がありますが
そのパターンにまで言及しているものを知りません.
どなたかご存知ないですか?
[315] 2001/05/23(Wed) 02:25  削除  修正 
  三浦 さん  HomePage
  Re: こんにちは
はじめまして
 まず、お聴きしますが、何時代のどういう甲冑を作りたいのですか? 
 素材にこだわるときりがありません。甲冑一領作るだけで、原材料で数百万円はかかるでしょうか。まあ、これは趣味の段階を脱出した人が集める材料ですが。
 プラ板でも紙でもいい。とにかく作る前に何を作りたいのかを明確にし、その現物をじっくり観察することです。組糸なんかは後でもいい。甲冑本体がどのような構造のもとで構成され、各時代によってそれがどのような変遷を辿ったか。それによって、さらに作りたい甲冑を絞り込んで下さい。
 具体的に作るのはそれからです。
[318] 2001/05/23(Wed) 06:18  削除  修正 
  ぷーよん さん
  Re: こんにちは
お返事ありがとうございます。

何時代と言われると困るんですが、具体的には
兜:日根野形
胴:横矧桶側(アクセントに胸取か腰取)
籠手:五本篠
佩楯:伊予佩楯
臑当:五本篠

シコロ(変換できません)、袖、下散は切付札毛引威しとするつもりです。
色は金蒔絵が映える黒漆塗りがいいかなと思っています.

特に威糸について述べたのは近所で手に入り難くなったため
自分で組めた方が良いと考えたからです。


[330] 2001/05/24(Thu) 06:38  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: こんにちは
 はじめまして。
手造甲冑ですか・・・先日、山中城まつりで見かけましたが、よく出来ていましたよ。
[339] 2001/05/24(Thu) 07:39  削除  修正 
  三浦 さん  HomePage
  難しいぞ!
おはようございます
 いきなり当世具足ですか。こりゃ驚いた。日根野形って日根野頭形のことですか? 板物の当世具足って一番難しいんですよ。プロの甲冑師だって嫌がるし、この程度のものなら実物を買った方が安いと思います。甲冑って案外安いんですよ。少々傷んだのを買って、自分で直してはどうでしょう。博物館なんかで見たって細部まで見るらないし、図鑑だってそのとおりです。甲冑師の言葉ですが「先生は実物だ!」っていうのがあるくらいなんです。因みにプロに頼むと一千万ではできないでしょう。実物を買えば百万くらいのものです。
 シコロって「革」に「毎」と書く字ですよね。小生は一年がかりで二千余語に及ぶ甲冑用語集を作成しましたが、この字だけが無いのです。あとは驚くほどの専門用語でのみ使う字までありました。
[342] 2001/05/24(Thu) 08:50  削除  修正 
  ぷーよん さん
  確かにそうですね
おつきあいありがとうございます。
 確かにネットオークションなどで見かける安いものを
買って修理した方が勉強にもなり手っ取り早くもあると思います。
資料として買うつもりであれこれ物色はしています。

板物の難しさはそれなりにわかってるつもりです。
日根野頭形と横矧桶側胴は2度目のチャレンジです。
かつては慣れ親しんだ材料ということでプラ版を使いましたが
3次曲面を表現するには加熱しながらの絞りが不可欠です。
着用できるくらいの大物を加工するにはそれなりの設備が
要るのであきらめガスコンロであぶりながら手曲げで作りました。
日根野頭形に関しては申し分ない強度でしたが、眉庇の
捻り返しの曲面が表現できませんでした。
胴は材料の尺の問題で二枚胴は無理だったので五枚胴にしました。
プラ版で蝶番は加工も強度も論外だったので古い学生カバンの
合成皮革を切り出し蝶番がわりに各パーツを繋ぎました.
強度は悲惨なもので着ているうちに肩上は根本から折れ
背中中央の溝にも亀裂がはいってしまいました。

 これらの反省から次は伊予札丸胴を作りました.
理由は
1.丸胴だと蝶番が要らない
2.板物と比べ応力集中による破損が少ない
3.伊予札だと本小札より重なりが少ない分少しの数ですむ
です。

 そんな経緯があってのチャレンジなのでいきなりでもないんです。
鉄で作るといっても加工しやすい薄さの鉄板を買ってきて
打ち出し、市販の鋲で留める程度ですので何とかなると
思っています。
既に籠手から作り始めています。
これが上手くいかなかったらあきらめます。

 シコロってそうだったのですか。道理で変換できない訳だ。

 先生のHP完成を楽しみに待っています。
ご専門の方とお話できて大変嬉しく思っています。
[349] 2001/05/25(Fri) 04:45  削除  修正 
  三浦 さん  HomePage
  勉強して下さい
我々はよく「線が出ない」という言い方をします。板物は特にそれが言えるのです。頭形兜にしろ桶側胴にしろこの線(シルエット)を出すのが難しいんです。
 甲冑展を見にいって同じような当世具足が十領並んでいるとします。これを遠目で見ただけで、ほぼ勢作年代が分かるものです。これは胴丸から当世具足への変遷、さらには当世具足完成後の変遷に特有の線があるからです。これを把握して作らないと化物になってしまいます。
 過去にいろいろと当世具足を着ましたが、慶長期頃の比較的古いタイプのものは着ていてもシャキとします。これに比べて江戸後期頃のものになると着ていて楽なんですがダラ〜とする。こんなところにも各時代の思考が感じ取れるものです。
 平成九年に愛知県日進市の依頼で当世具足の変遷を書いたものがあります。ご参考になるかと思いますので、よろしければ問い合わせてみて下さい。
[352] 2001/05/25(Fri) 11:38  削除  修正 


  のりあき さん  HomePage 返信
  無題
ゴニョゴニョゴニョ
蜂須賀(小六)さんが部下に耳打ちをしています。蜂須賀「・・・をとってきてくれ」部下「ええ!!蜂っすか??」
[346] 2001/05/24(Thu) 20:06  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 無題
 (笑)転載しておきます。
[351] 2001/05/25(Fri) 07:30  削除  修正 


  野崎 さん 返信
  無題
甲斐の駒について気が付いた事を。
 「ぬばたまの甲斐の黒駒、鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒」
  『日本書紀・雄略天皇紀』 処刑が決まった猪名部工匠(いなべのたくみ)を赦すため甲斐の黒駒に使者を乗せて派遣し間に合った時の歌。
 おがさ原焼野の薄(すすき)角ぐめば すぐろに迷う甲斐の黒駒 (藤原俊成)
  『夫木和歌抄』
 「厩戸王子(聖徳太子)の甲斐の黒駒」
   『異制庭訓往来』

甲信越の古代の牧
『延喜馬寮式』
 御牧 甲斐国 柏前牧、真衣野牧、穂坂牧
信濃国 山鹿牧、塩原牧、岡屋牧、平井手牧、笠原牧
    高位牧、宮処牧、植原牧、大野牧、大室牧、猪鹿牧、
    萩倉牧、新治牧、長倉牧、塩野牧、望月牧
御牧はこの他武蔵国、上野国にありました。
 逢坂の関路にけふや秋の田の穂坂の駒をむらむらと牽く(堀川院百首)
 あしひきの山路遠くや出つらむ 日高く見ゆる望月の駒(平 兼盛)
平安末期からは陸奥の駒のほうが有名になります。
みちのくの安達の駒はなづめども今日逢坂の関までは来む
みちのくの小渕の駒も野飼ひにはあれこそまさめなつくものかは(後撰)
綱絶へて離れ果てにしみちのくの小渕の駒を昨日見しかな(相模)
 信玄公、謙信公、信虎公、及び家臣の名馬は『甲陽軍鑑』に見えますね。「鬼鹿毛」とか。
[344] 2001/05/24(Thu) 19:45  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 無題
 詳しく調べてくださいまして有難うございました。「決破書留」に転載したいと思います。
[350] 2001/05/25(Fri) 07:24  削除  修正 


  孫六 さん 返信
  毎度あいすみません
早速のお返事ありがとうございます。石野様、さすが鋭いですね。拙者が考えていたのも引治2年という年なのです。村上氏はそれ以前に、信濃を退去しているはずですし、なぜその年に300貫の領地を貰ったか?なるほど懲罰的加増ですか...はじめて知りました。拙者の先祖もやはり村上氏と関係があるのでしょうか?拙者が住んでいる県は資料が無くて困ります。宮下様、拙者は三国志も好きなので次回にでも駄洒落を考えておきます。
「あ!桜よ。日陰は駄目ね」朝倉義景はだめね...すみませんこんなんで。
やっぱり先祖も出世できなかったんでしょうね。子孫もこんなのだし。曹操、
昨日朝日テレビでドイツ人の武田信玄愛好者達を見ました。なかなかすごいと思いました。これからは武田信玄もグロ−バルな広がりをみせていくのでしょうね。宮下様、今度世界の誰もが見て分かるように英語版のホ−ムペ−ジを作ってはいかがでしょうか?ちなみに拙者は大学生ですが、英語は苦手です。協力は出来ませんが。
[320] 2001/05/23(Wed) 11:56  削除  修正 
  石野真琴 さん
  Re: 毎度あいすみません
 弘治2年と言うと、第2回川中島合戦の翌年、第1回川中島合戦が天文22年だから、村上家滅亡後、3〜4年後ですか・・。可能性としては村上流小泉氏が移封された可能性は充分にありますね(^o^)。
 ドイツ人の武田信玄愛好者のテレビ見ました。真面目に研究されているみたいで、実に感心しました。英訳された文献も少ないでしょうに、本当に頭が下がる思いでした。とは言え、歴史研究よりコスプレに重きを置いているような気もしますが・・。
 しかし、武田信玄だけでなく武田二十四将が世界的なものであったとは・・
[322] 2001/05/23(Wed) 19:03  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 毎度あいすみません
>可能性としては村上流小泉氏が移封された可能性は充分にありますね(^o^)。
 私もそう思います。『下之郷起請文』には「小泉重永」「小泉宗貞」の名が見えます。また、元亀三年の武田氏朱印状・天正三年の勝頼書状の宛名が「小泉昌宗」となっています。
 弘治二年十月下旬、秋山信友に伊奈衆が配属されていますので、その時に小泉氏の庶流が小県郡から移封された可能性があります。
 ところで、飯島町の小泉氏館跡へは行かれたのですか?

>「あ!桜よ。日陰は駄目ね」朝倉義景はだめね...
 (笑)この調子でお願いします。

>ドイツ人の武田信玄愛好者達
 見過ごしてしまいましたよ〜番組予告は見たのに・・・

>世界の誰もが見て分かるように英語版のホ−ムペ−ジを作ってはいかがでしょうか?
 うーん、トップページだけならなんとかなるのですが、全てのページとまでなると・・・年譜、図書総覧なんか辛そう・・・
[341] 2001/05/24(Thu) 08:12  削除  修正 


  上杉越後守影虎 さん  HomePage 返信
  図標版掲示板に変更しました。
此度数名の依頼あり候故図標掲示板制作此れ致し候。勝頼公図標制作致し候故御使用被為度候。
[329] 2001/05/24(Thu) 05:30  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 図標版掲示板に変更しました。
 勝頼アイコン、なかなかですよ!!
月代の具合(剃った部分が広い)なんかは抜群です。
 今度設けるチャットで重宝させて頂きたいと思います。穴山梅雪斎アイコン、楽しみにしてますよ。
[338] 2001/05/24(Thu) 07:37  削除  修正 


  唐沢孫兵衛 さん 返信
  やっぱり東京か・・・・
オフ会とか史跡巡りとかいろいろ興味深い物が多いですね。しかし皆さん東京に住んでいらっしゃるようなので、名古屋にすんでいる私には高嶺の花・・・・
でも名古屋だって3英傑関連とかいろいろな物があるんですよ。今度は桶狭間古戦場祭りへ行って来ようと思います。皆さんならご存じではあると思いますが、沓掛という所は桶狭間にも長篠にも関連があり、イベントが多いんですよ。
でも・・・やはり東京が・・・(ぐすん
[299] 2001/05/21(Mon) 23:00  削除  修正 
  上杉越後守影虎 さん  HomePage
  Re: やっぱり東京か・・・・
はじめまして、上杉と申します。
そうですな。3英傑関連の史跡は無茶苦茶多いですな。今年の正月3日に岡崎に行ってきました。城と資料館を見てきました。
オフ会は信長、秀吉、家康関連のサイトでやってるかもしれませんぞ。いくつか回ってご覧になってみてはどうでしょう?
[301] 2001/05/22(Tue) 04:36  削除  修正 
  三浦 さん  HomePage
  Re: やっぱり東京か・・・・
 小生も根っからの名古屋人です。「隣の芝生がよく見える」じゃないですが、興味を持った土地に憧れるものです。愛知は言うに及ばず三英傑の故郷です。我が家は那古野城と末森城の丁度中間に位置し、かつては信長が瓢箪をぶら下げ、馬に後ろ向きに乗って行き来した場所に住んでいるです。全国の信長ファンにとってはたまらない土地だと思います。
 そんなに恵まれた環境にありながら、小生は武田信玄の武具の研究をしています。嘗て小書を刊行したときに助成金の交付があると聞き、教育委員会に嘆願に行きました。そのときの係員の一言には参りました。「なぜ信玄かなあ、信長書かなきゃ駄目だよ!」って。
[302] 2001/05/22(Tue) 11:18  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: やっぱり東京か・・・・
 イベントといいますと、東京よりも名古屋方面のほうが多いと思います。古戦場は多いし・・・
 3英傑関連のオフ会は長興寺の隣人さんがお詳しいですよ。お尋ねになられたら如何でしょうか。午後十一時以降にいらしていることが多いですよ。
「井戸端評定」
http://www.hiro.org/wchat/idobata.html
[311] 2001/05/22(Tue) 21:50  削除  修正 
  吹雪 さん
  Re: やっぱり東京か・・・・
初めまして^^唐沢孫兵衛さん、私も愛知ですよ^^よろしかったら遊びましょう♪私も時間があれば、桶狭間古戦場祭り行こうかと思ってます。
[325] 2001/05/23(Wed) 22:16  削除  修正 
  唐沢孫兵衛 さん
  名古屋人へ
沓掛祭り(桶狭間古戦場)は6/2〜6/3だったと思います。場所は豊明市で、交通アクセスは名鉄前後駅からバスが出ます。この機会に名古屋人の方は一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
[327] 2001/05/23(Wed) 23:35  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: やっぱり東京か・・・・
 ネットを通して友達の輪が広がることは、とても喜ばしいことです。管理人冥利につきます。
[335] 2001/05/24(Thu) 07:20  削除  修正 


  猛馬飼育係 さん 返信
  昨日はお世話になりました
>宮下帯刀様

昨日はお世話になりました。山中城は精緻に設計されており、本当にすごい城でしたね。小田原城の大外郭の土塁や空堀の遺構も、予想以上に残っていて驚きました。

石和の写真有難うございました。

>今度は共に前日のお酒はひかえましょうね(笑)。

確かに・・。酒で疲れた胃に箱根の山道は効きました・・(笑)。

>それにしても舞子姫は、見目麗しい姫方ですね〜

有難うございます。

>金吾右衛門様

昨日はお世話になりました。レンタカーを手配して下さり、また様々な史跡に案内していただき、本当に有難うございました。高度な防衛機能を備えた山中城、日本でもあまり例を見ない城砦都市を形成した小田原城大外郭の遺構、都市用水としての北条用水を見て、後北条一族は行政・戦略のプロだったのだなあと、改めて感心した次第です。外郎家や現在も石材加工業を営む青木家等、北条の伝統が今の小田原にも息づいていることにも、感銘を受けました。

御先祖様の墓にも案内していただき、有難うございました。氏は先見の明を持った方だったのですね。

夕食をとったインド料理屋もよかったです。インド人店員も楽しい人でしたね。

>宮下帯刀様、金吾右衛門様

今度のオフ会はやっぱり6月に行いましょうか。港北区・都筑区の史跡めぐり(小机城跡、茅ヶ崎城跡、矢上城跡、横浜市立歴史博物館、雲松院、関家住宅等)もしくは神奈川県央地区の史跡(早川城跡、三増合戦古戦場等)はいかがですか?県央であれば自分の車を出します。
[298] 2001/05/21(Mon) 22:21  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 昨日はお世話になりました
 こちらこそお世話になりました。山中城の構造(とくに畝堀)には驚きましたね。堀底から土塁まではさすがによじ登れなかったですね〜。
 六月は一泊の武田氏甲冑見学オフ会があるので、残念ですが、次回は私を外してください。五月の二連ちゃんはさすがにキツかったです。
[309] 2001/05/22(Tue) 21:16  削除  修正 
  猛馬飼育係 さん
  Re: 昨日はお世話になりました
では港北区・都筑区めぐりor県央めぐりは7月に行いましょう。

ところで全然関係ない話ですが、もうじき自分は三十路に突入です。
[323] 2001/05/23(Wed) 21:32  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 昨日はお世話になりました
>ところで全然関係ない話ですが、もうじき自分は三十路に突入です。

 (笑)。お誕生日が近いということでしょうか?石和の反省会を兼ねて、お祝いをしなくっちゃ!(笑)
[333] 2001/05/24(Thu) 07:14  削除  修正 


  イネス さん 返信
  質問です
初歩的なことだとは思いますが、
3英傑というのは、信玄、謙信、氏康のことなんでしょうか。
よかったら、教えていただけませんか?
[312] 2001/05/22(Tue) 23:28  削除  修正 
  上杉越後守影虎 さん  HomePage
  Re: 質問です
どこの3英傑かということにもよりますがな。
そうですな。関東の3英傑はというとまさしくその通りですな。
しかしここで問題になっているのは愛知県の3英傑であります。
この場合は信長、秀吉、家康であります。
[313] 2001/05/23(Wed) 00:04  削除  修正 
  イネス さん
  Re: 質問です
ご親切に教えていただき、
ありがとうございます。
そうですか、愛知県の3英傑が
その3人なんですか・・・
[319] 2001/05/23(Wed) 06:26  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 質問です
 九州ですと、大友宗麟・竜造寺隆信・島津義久を指すことが多いですよ!
[331] 2001/05/24(Thu) 07:03  削除  修正 


  孫六 さん 返信
  御指摘の事
また駄洒落を書こうかと思いましたが、皆さんの不興を買いそうなのでやめておきます。さて、以前御指摘いただいた事なのですが、まず石野様、貴方が教えてくれた小泉氏は村上氏の一族ですね。
何か関係あるのかもしれませんが、なんとも断定できません。宮下様、以前拙者が書き込みした内容は、姓氏家系大辞典2巻 太田亮 角川書店 の「引治2年本国御手に入る、これにより家臣、小泉五郎左衛門、知行300貫を領し...」と同じく角川書店の、正確な題名はいまちょと忘れましたが、長野県姓氏辞典とかいう本の「石曽根」からとりました。
あとは長野県地名辞典などの飯島町石曽根を調べると同様の事が書いてありました。どうか御参考にしていただければと思います。ちなみに昨日県立図書館へ行って武田信玄辞典なるものを見ましたところ信濃先方衆にも先祖の名前が載っておらずがっかりいたしました。300貫を領する家臣というのは、したっぱのほうなのでしょうか?
[294] 2001/05/21(Mon) 12:58  削除  修正 
  石野真琴 さん
  Re: 御指摘の事
 村上一族の小泉氏ですか・・。済みません、それしか甲斐国志に載ってないので・・。
 領地300貫文が、しったぱであるかどうか?これは断定する事は難しいので、知っている範囲の領地を書きます。
 真田幸隆が上野に向かう前、その領地は(七ヶ村)1600〜1700貫文ぐらいであったとされます。
 砥石城を攻略して本領を安堵され、また真田の地にあった曲尾氏が移封され、その地も賜ったものと推測できます。それとは別に上田の地に1000貫文の領地が与えられます。また別に真田子(後の昌幸)を甲府に送り、350貫文の領地が与えられます。加増は1350貫文に加えて曲尾氏の領地分、1850貫文程度だと推測しています。曲尾氏は200貫文で移封。
 滋野三家の一つ望月家は、幸隆によって武田家に臣従しますが、この時700貫文の本領が安堵されたとあります。
 この時代の取れ高を石高に換算するのは難しいのですが、700貫文はおおよそ1500石程度とありますので、300貫文は700石程度でしょうか。
 望月家はむしろ本領が半分あるいは3分の1以下になっていると思われます。
 小泉氏がどのような過程で、武田家に臣従したのか解りませんが、新たに領地を貰ったのだとすれば、300貫文は決して少なくないと思います。問題はその後の働きで、加増があったのかどうかでは無いでしょうか?
 村上氏に味方し、村上の滅亡によって武田に臣従し、本領から懲罰的移封されたのであるとすると、それまでの本領は1000貫文ぐらいであった、とも考えられます。
 ちなみに200貫文の移封を受けた曲尾氏は、その後の歴史上ほとんどその名が見られません。懲罰的な移封を受けた家は、その後の立身は難しかったのかも知れません。
 この辺の判断は難しいですね・・。
 
[300] 2001/05/22(Tue) 01:19  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 御指摘の事
>また駄洒落を書こうかと思いましたが、皆さんの不興を買いそうなのでやめておきます。
 遠慮せずにどうぞ。私はギャグが苦手と自覚しているのに率先して書き込んでいるのですよ(笑)。

>武田信玄辞典なるものを見ましたところ信濃先方衆にも先祖の名前が載っておらずがっかりいたしました。
 同書は先方衆について全て網羅しているわけではない(全て収録することは不可能)ので、そうお気をおとされる必要はないですよ。お時間を頂ければ、調べておきます。

>300貫を領する家臣
 石野さんが詳細に比較なさってくれていますが、私も”したっぱ”だとは決して思っておりません。ただし「武田二十四将」に数えられる人達と比べますと、かないませんね・・・。

石野真琴さん
 真田氏についてのご研究、益々はかどっておられるご様子。でも、少々私が足を引っ張っちゃってるかも・・・パソコンのサポートをして頂いているので(笑)。今度『史籍集覧』の真田氏史料のコピーをお渡しします。
[310] 2001/05/22(Tue) 21:35  削除  修正 

- KENT & MakiMaki -
Edit:Omoiyari Club