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  上杉越後守影虎 さん  HomePage 返信
  不精ぎゃぐU
石田三成が秀吉に取り立てられて間もない頃、点呼の際に考え事をしていて返事をしなかった。そして上官に「こら、石田、何ばやっとるとか?」
三成曰く「は、上官! 自分(治部)はボヤボヤしたであります!」
[242] 2001/05/15(Tue) 00:08  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 不精ぎゃぐU
 「じぶん(自分)」と「じぶ(治部)」、なかなかですね〜。話の展開も抜群です。
 私は最近疲れ気味ですぐに思い浮かびませんが、また考えておきます。
[252] 2001/05/17(Thu) 00:36  削除  修正 


  SHIN太郎 さん 返信
  甘利氏について(「決破」より)
はじめまして。SHIN太郎と申します。

>  甘利虎泰は譜代家老衆、同心衆150騎持だったそうです。武田家中きっての軍事巧者でしたが、天文17年2月14日の信濃上田原合戦において討死を遂げました。その後、嫡子昌忠(後に信忠と改名)が家督をついだといわれています(『武田信玄大事典』)。 

 甘利・板垣と言えば両職として有名ですよねぇ。前々から疑問に思っていたのですが、家督を継いだ者(昌忠・信康(板垣はどなたが継いだか知りません…))は武田家中において、どのようなポジション(役職・立場)になっていたのでしょう?
 将星録では大名の実子でも足軽頭からスタートしますが、実際にはそんなはずはないと愚考するのですが…。ゲームとは違ってはっきりとした役職があるとは思いませんが、やはりそれ相応の兵を指揮する立場に就くのだと思うのですが…。
 武田家と言えば「合議制」というイメージがあるのですが、若年で家督を継いだ昌忠等の発言力はどうだったのでしょう?皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
[230] 2001/05/14(Mon) 22:28  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 甘利氏について
初めまして、勝手ながら記事を移動させて頂きました。ご質問の件、簡単ではございますがお答え申し上げます。

 甘利昌忠は父の死後、「両職」の地位と同じ軍役(150騎役)を継承しています。

>板垣はどなたが継いだか知りません

 板垣信方が上田原合戦で討死すると、嫡男の信憲が継ぎました。所領、同心衆はそのまま安堵されたようです。しかし「諏方郡代」の地位は、幼少のため継承されませんでした。
 
>武田家と言えば「合議制」というイメージがあるのですが

 信玄は家臣の言葉によく耳をかたむけたようですね。
[235] 2001/05/14(Mon) 22:55  削除  修正 
  石野真琴 さん
  Re: 甘利氏について(「決破」より)
 初めましてSIN太郎様
 武田家には、確かに「合議制」と言うイメージがあります。これは甲斐国内に小山田氏を初めとする幾つもの大豪族がおり、武田家と言えどもこれらの大豪族を無視しては、甲斐国内の治安維持さえ不可能であった為だと考えられます。
 一説によれば、板垣信方は晴信の守り役であったとされます。守り役と言えば父信虎に変わって晴信を育て、弓矢を教える師匠でしょう。そう考えると家督を継いだ晴信に、換言する役目を担っていた事は想像できます。
 甘利虎泰も信虎時代に軍功があり、信方が強い信頼を寄せていたのでしょう。
 その板垣・甘利が死した後、若く軍功を持たぬ者が後を継いだからと言って、その言葉を聞くか、と言えば聞かないのでは無いでしょうか?
 その結果、飯富・馬場・古典厩信繁等の発言力が強くなったと考えます。
 父の家督を相続しても、父の発言力をそのまま維持したのは、陣馬奉行原昌胤や小山田出羽守信有(父は越中守信有)あたりでしょうか。
 戦国期の武将の理想は、ある程度の年齢となると、仏門に帰依して法体となり、家督を子に譲り、後見として子の戦を見守り、子に戦功を立てさせ、発言力を維持する。
 真田一徳斎こと幸隆は、そのような手順で嫡子信綱に家督を譲り、真田家の権威を保ったのだと推測しています。
 
[245] 2001/05/15(Tue) 19:38  削除  修正 


  上杉越後守影虎 さん  HomePage 返信
  不精ぎゃぐ
武将といってよいのか分かりませんが、これは江戸時代後期のお話です。
日米和親通商条約を締結した井伊直弼公をペリー総督が呼んだときのこと。
「Hey! Mr.Naosuke Ii. come on(掃部)!!」
[239] 2001/05/14(Mon) 23:15  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  さすが、ギャグの御大!!
 (爆)このギャグには驚かされました〜!単なる語呂合わせと違って、非常に高尚です!!影虎さんの爪の垢をせんじて飲まねば・・・
[241] 2001/05/14(Mon) 23:52  削除  修正 


  孫六 さん 返信
  はじめまして
はじめまして私は武田家家臣の末裔です。先祖の名前は分かっているのですが、有力家臣ではないため、詳細がわかりません。誰か教えてください。引治2年配下になって信濃国(今の飯島町)に300貫をいただいた小泉五郎左衛門です。ちなみにその子、石曽根新左衛門は武田家滅亡時に高遠で戦死しています。誠に勝手な申し出ですが、何とぞ宜しくお願いいたします。
[229] 2001/05/14(Mon) 14:16  削除  修正 
  石野真琴 さん
  Re: はじめまして
 初めまして、孫六様
 甲斐国志によれば、小泉氏は源氏の末裔、室賀に近き所に地名有り、信州下の郷の起請文に、小泉喜泉斎重成、同匠助宗貞・同新五郎高貞とあるそうです。
 小泉隼人正忠李と記せり書があるが、未だに不詳、他に起請源本には喜泉斎重永とある、小泉新五郎高貞は尾崎衆に見えるそうです。
 駿州大宮神馬奉納記に小泉讃月斎・紅葉斎などありますが名前はないそうです。
 一応仮名混じり漢文を意訳しました。
 まったく役に立たないような・・資料で申し訳ない。
[231] 2001/05/14(Mon) 22:44  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  孫六さま、ようこそ!
 初めまして。おそらく孫六さまのご先祖と私の先祖とは顔見知りであったと思われるので、この度のご訪問はとても嬉しく思います。
 書き込みして頂いた内容は『南信伊那史料』の「小泉氏ノ館跡」に載っていますね。
 「引治2年に配下になった」という記述は誤りであることは確かです。たぶん『伊那武鑑根元記』にそう書かれているのでしょう。今度時間がある時に調べておきます。

>石野さん
 いつも調べて頂き、とても助かっております。またチャットにて。
[240] 2001/05/14(Mon) 23:43  削除  修正 


  唐沢孫兵衛 さん 返信
  仕官申請
こんなに戦国時代の詳しいサイトがあるなんて知りませんでした。私も戦国に関してはかなり興味を持っているので、
是非仕官したいと思います。まだ初心者なので小者(ありませんでしたっけ?)で登録したいと思います。
なにとぞお手柔らかに。
[222] 2001/05/12(Sat) 16:33  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  喜んで!
 初めまして。
仕官してくださるとのこと、誠に嬉しく思います。好きなモノ等をお教えくだされば、「武田軍団組織表(↓)」に追加します。では宜敷くお願いします。

http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/organization.htm
[225] 2001/05/13(Sun) 21:13  削除  修正 
  唐沢孫兵衛 さん
  不肖者ながら・・・・
好きな物  孫子の兵法 
好きな武将 池田輝政 安国寺恵瓊 
      
是でよろしいでしょうか?
      
[233] 2001/05/14(Mon) 22:48  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  ご登録有難うございました
 近日中に「組織表」へ追加したいと思います。今後とも宜敷くお願い致します。
[237] 2001/05/14(Mon) 23:00  削除  修正 


  左衛門佐 さん 返信
  お願い
どうも、「不落の小城」の左衛門佐です。
今回いろいろと訳あってサイトを閉鎖することに
致しました。そこでリンク集のうちのサイトへの
リンクを外していただけないでしょうか?
いきなりの事で申し訳ないですがお願いします。
では用件のみですがこれにて・・・。
[224] 2001/05/13(Sun) 16:52  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  残念ですが・・・頑張ってください。
 ご丁寧にどうも有難うございました。勉強のほうを頑張ってください。またお会いできる日を楽しみにしております。
[227] 2001/05/13(Sun) 21:32  削除  修正 


  味舌政宗 さん  HomePage 返信
  復活しました
ご無沙汰しております。2月に閉鎖してわずか3ヶ月で復帰しました。
失業していて、プロバイダ契約も解除しひたすら就職活動をしてました
このような厳しいご時世で4月には再就職が叶い、まだネット接続には
不自由な点がありながらも復活することができました。
以前のサイトでは本当に盛り上げていただき有難うございました。
こちらも更に充実の一途のようで武田氏サイトでも秀逸なものになって
ますね。今後ともよろしくお願い致します。
[223] 2001/05/13(Sun) 01:48  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  誠に嬉しいお知らせです!
味舌さま、ご無沙汰です。
戻ってこられたのですね。本当に嬉しく思います。私は味舌さまが必ず復帰されると信じていましたよ。以前と変わらぬ交友のほど宜敷くお願い申し上げます。お互い頑張りましょう。
[226] 2001/05/13(Sun) 21:27  削除  修正 


  猛馬飼育係 さん 返信
  大河内君のサイト
大学時代に所属していた“人文社会研究会ルプレザンタシオン”という学術サークルの後輩である、大河内君のサイト“大河内編集設計事務所”を紹介します。ちなみに彼は簿記三級君とは同級生です。URLは以下の通りです。御訪問下さい。

http://www.asahi-net.or.jp/~xh5s-oouc/

なお、大河内君に掲載の許可は得ています。
[218] 2001/05/11(Fri) 23:23  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  拝見しました。
 今度時間があるときに、ご挨拶しておきます。
[221] 2001/05/12(Sat) 02:03  削除  修正 


  吹雪 さん 返信
  またまた鉄砲の話
関ヶ原歴史民族資料館に地元民家から発見された鉄砲で、全長2.3m 重さ30s 安土・桃山時代の堺鉄砲鍛冶士 芝辻理右衛門の銘があり、弾丸は3q飛んだらしい。地面に置いて使ったとのことだか、関ヶ原の頃は大砲は無かったのだろうか。
[202] 2001/05/09(Wed) 19:23  削除  修正 
  野崎 さん
  Re:文禄慶長の頃からありました
 文禄・慶長の役では李氏朝鮮と明の石
火矢・大砲と闘い、日本軍も使っていま
す。石火矢の他に「大鉄砲」ともいい、
青銅の大砲なのに「鉄」砲と書かれて
いるので誤解された事もあるようです。
 関ヶ原は慶長16年ですから大砲が
使われてもいいのですが。
[204] 2001/05/09(Wed) 19:49  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: またまた鉄砲の話
 関ヶ原合戦の際に家康が所持していれば、小早川勢に火縄銃ではなく大砲をもって威嚇射撃をしたと思いますが、如何でしょう?
[213] 2001/05/10(Thu) 22:30  削除  修正 
  野崎 さん
  Re:自走砲なら
たしかあの時代の大砲は車輪の着いた台
もなくて、土嚢を積んでセットしたのだ
と記憶します。
 「かまわん!小早川の陣に鉄砲を撃ち
かけい!」
 なら大砲より鉄砲の砲が早い。
[217] 2001/05/11(Fri) 20:45  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: またまた鉄砲の話
>大砲より鉄砲の砲が早い。
 そうですね。戦ではもたもたしてられませんよね。
[220] 2001/05/12(Sat) 02:02  削除  修正 


  上杉越後守影虎 さん  HomePage 返信
  三島出陣の件
毎度謙信之館へ来館頂き誠にかたじけのうござりまする。おかげさまで更新も楽しくさせて頂いておりまする。
さて来る弐拾日の三島への出陣の件でござるが、当方も家頁奉行として参陣つかまつる所存にて候えば何卒よろしゅうお願い申し奉り候。
[201] 2001/05/09(Wed) 00:18  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 三島出陣の件
 嬉しき仕儀にござりまする。
詳細は電脳飛脚(メール)にて。
[208] 2001/05/10(Thu) 01:39  削除  修正 
  上杉越後守影虎 さん
  Re: 三島出陣の件
してご同道される諸士がたは何騎おられるのでござろうか?
[211] 2001/05/10(Thu) 12:19  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 三島出陣の件
 陣立を申し上げまする。

先手 小田原衆 金吾右衛門殿(十騎役)

馬廻 伊奈衆 宮下帯刀左衛門尉(一騎役)

本陣 関東管領影武者 上杉越後守影虎殿

後備 伊奈衆 小笠原土佐守(猛馬飼育係)殿(十騎役)

 以上、命を賭して殿をお守り申し上げまする。
[212] 2001/05/10(Thu) 22:19  削除  修正 
  上杉越後守影虎 さん  HomePage
  Re: 三島出陣の件
素晴らしい陣容でござりまするな。此度の三島出陣の件、それがしの館の大広間にて宣伝させて頂きましたぞ。当日が楽しみでござりまするな。
[214] 2001/05/10(Thu) 22:36  削除  修正 
  猛馬飼育係 さん
  Re: 三島出陣の件
>上杉越後守影虎様
はじめまして、猛馬飼育係こと小笠原長義と申します。20日はよろしくお願い致します。
[215] 2001/05/10(Thu) 22:51  削除  修正 
  惟新入道 さん  HomePage
  Re: 三島出陣の件
ちなみに「関東侍所」の志摩の守殿、のりび殿、そして拙者は参加という事で三島山中城祭りに参陣いたします。ぜひとも皆様にご挨拶できる機会があれば・・・と願ってやみません。では失礼致しました。
[216] 2001/05/11(Fri) 00:12  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 三島出陣の件
 お会いできますとも!惟新入道さんは風格があるので、すぐに見つけだすことができると思います。
[219] 2001/05/12(Sat) 02:00  削除  修正 


  もさもさ さん 返信
  きちゃった・・・
やほー。きちゃいました。
あ、ていうかなんか・・・一言感想申しますと「すげーーぇ」て漢字なんだけど・・・。ていうか今実際俺ここに居てもいいの?あとからコレを見た人に、ナニこの人・・・って絶対白い目でみられてるだろうな。でもまぁいいや。
本当に足跡残してるだけなんで・・・。
えーと、とりあえず武田信玄っていう人は知ってる・・・ということで。
あぁ、なんか居辛いから・・・帰る。
[203] 2001/05/09(Wed) 19:36  削除  修正 
  石野真琴 さん
  Re: きちゃった・・・
 もさもささん、来る所間違っています・・
 確かに掲示板に書いたのは、このHPの表紙だけど、おいらが管理しているのは「時の掲示板だぁ」
 まあ、来てくれただけで感謝です。めげないでたまには遊びに来て頂戴。
 もさもさも、もう高校生なんだから、漢字が多いだけでめげるな・・。頼むから。知り合いの俺の立場はどうなる。 
[206] 2001/05/09(Wed) 22:55  削除  修正 
  石野真琴 さん
  Re: きちゃった・・・
と言うわけで、宮下殿、この投稿はそっとしておいて上げて下さい。
[207] 2001/05/09(Wed) 23:34  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: きちゃった・・・
もさもささま、初めまして。
 ”もさもさ”というH.N、気に入りました!!(爆)

石野さん
 了解です!お友達がたくさんいらして羨ましいです。
[210] 2001/05/10(Thu) 01:49  削除  修正 


  猛馬飼育係 さん 返信
  また甲冑探してみます
またどこかに行った時、戦国武将の使用した甲冑を探してみます(金欠のため、当分旅行は出来なさそうですが・・)。でも甲冑総覧はよく調べられていて、大部分を網羅しているでしょうから、掲載されていない甲冑を探すのは至難の業ですな・・。
[205] 2001/05/09(Wed) 20:37  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: また甲冑探してみます
>またどこかに行った時、戦国武将の使用した甲冑を探してみます
 有難うございます。「総覧」には”あやしい!?”と感じるものも収録していますので、この手のものならまだまだあるはずです。
[209] 2001/05/10(Thu) 01:45  削除  修正 


  うーろん さん  HomePage 返信
  ごめんなさい
やっと実家より帰ってまいりました。
一日で比叡山やら日野やら安土やら坂本などに行ってきたのでかなりの強行軍でした。

 さて、私ったら、違うところに書いてしまったのですね。宮下さまにも石野さまにもご迷惑をおかけいたしました。
石野さまのところにも書き込みさせていただきますね。

今回は安土にいってきたので、天下布武にしてみました(笑。
[195] 2001/05/07(Mon) 18:47  削除  修正 
  石野真琴 さん
  いえいえ、大歓迎です
>ウーロン様
 ようこそお出で下さいました。
比叡山は一度訪れたことがあります。根本中堂でしたか・・天下布武、良い響きの言葉ですね。
 自分が担当する掲示板に一生懸命レスしてると、メインBBSであるこちらをほとんど見てませんでした。書き込みの多さに驚きです。
[196] 2001/05/07(Mon) 20:06  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: ごめんなさい
>うーろんさん
 お疲れさまでした。安土城は如何でしたか?大手道がだいぶ整備されたようで、もう行きたくてしょうがないですよ〜

>天下布武、良い響きの言葉ですね。
 信長の息子達もなかなかのスローガン(印章)を掲げていますよ!後北条氏は渋いものが目立ちます(爆)
「威加海内」北畠信雄 
「弌剣平天下」神戸信孝
[199] 2001/05/08(Tue) 02:15  削除  修正 


  三浦 さん  HomePage 返信
  甲冑他について
かたはるさま
 厳島神社蔵のは紫糸威で烏帽子形兜のですか? だったら「立涌文韋包」ではありません。ふつうはあの模様の韋は「鶉韋(うずらかわ)」と呼んでいます。あの具足はいい具足です。奉納年がはっきり分かるのだから、基準資料として大いに評価できます。

宮下さま
 阿古陀瓜とはカボチャのことだとする説があります。確かに膨らみがある形は似てますよね。
 総覆輪を「すべての筋に覆輪が施してある」と定義を勘違いしている人が多くいるようです。これって一寸違んですよね。

野崎さま
 「召替具足」という用語があるように身分によっては複数の甲冑を所持していたでしょう。
 「信玄筒」は一度見たことがあります。普通見るものよりかなり太かったことを覚えています。野田城云々の伝承は別にしても古いものだと思いました。銃身が先端にいくほどラッパのように開き、先目当の形もいたってシンプルです。一乗谷出土のものは当然外カラクリです。内カラクリのものは江戸前期以降にしか作られておりません。
[191] 2001/05/07(Mon) 09:46  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: 甲冑他について
 阿古陀形兜って確かにカボチャに似てますね(笑)!
[198] 2001/05/08(Tue) 02:03  削除  修正 


  上杉越後守影虎 さん  HomePage 返信
  ただいま帰参
いや、疲れましたな。
でも楽しかったです。行ってきてよかったと思います。何冊かめぼしい本も買いましたし、帰りの新幹線の中で読んでみてつくづくいい本を買ったなと思い、充実感に浸っていました。
ところでお祭りの中で一番よかったのは本物の火縄銃の実演射撃が見れたことです。大音響が轟くさまは圧巻でした。これは米沢駅前と河原での川中島合戦の時に行いました。肝心の合戦の方は人が多すぎてあまり満足に見れなかったのが残念でしたが、ある程度写真を撮れたのと射撃を見れたのでよかったと思います。詳しくは後日レポートをアップします。
[159] 2001/05/04(Fri) 02:20  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  Re: ただいま帰参
 お帰りなさいませ〜

>本物の火縄銃の実演射撃が見れた

 私は石和で大筒の轟音を聞きましたが、もの足りませんでした。やっぱり火縄銃ですよね!!
 レポートが楽しみです。
[161] 2001/05/04(Fri) 06:52  削除  修正 
  野崎 さん
  Re: 米沢鉄砲隊
普通の火縄銃は2匁か4匁玉ですが、稲
富流30匁は普通の持ち方で打てる最大
級の銃だそうです。
 発砲の瞬間に銃手の周囲直径3メート
ル位の地面からボッと土煙が上がる、
大砲並の迫力だったと思います。
 今度は近くで聞いてご覧になること
をおすすめします。
[162] 2001/05/04(Fri) 06:53  削除  修正 
  上杉越後守影虎 さん  HomePage
  Re: ただいま帰参
いや、米沢駅前では結構至近距離で見れましたぞ。迫力が半端ではありませんでしたな。
宮坂考古館では実際銃を持ってみることが出来ましたが、重いですな。普通の銃は何とか持ってましたが、大筒はきちんと持つのは至難の技ですな。
[163] 2001/05/04(Fri) 16:25  削除  修正 
  三浦一郎 さん  HomePage
  稲富流について
 若い頃は毎年のように長篠のぼり祭で見たものです。ものすごい爆音に耳を塞いだものです。しかし、今思えばこれには何等の実用性も無いことが分かりました。それは、ただのこけ脅しにすぎませんし、まさに江戸期の発想から生じたものなのです。大筒が使われたのは大坂の陣以降ですよね。それも、確か偶然天守に命中したとか。
 聴きますが「これが実用期の鉄砲だ!」ってもの見たことがありますか。以外に無いものなのです。恐らく残存する数の99パーセントが江戸期のものでしょう。言うまでもなくほとんどです。すでに慶長期のものが無いんです。よく薩摩銃が古い形式っていいますよね。しかし、朝倉一乗谷遺跡で鉄砲の機関部が発見され、その説が駄目になったんです。当時の鉄砲って変な形していますよ。
[165] 2001/05/04(Fri) 18:10  削除  修正 
  野崎 さん
  Dokan!!
 戸部正直『奥羽永慶軍記』に、磨上原
の闘いで伊達政宗の軍に葦名方が30匁
銃を発砲し片倉小十郎の旗本三騎を一度
に射殺したとあります。まあ、同時代
史料ではありませんが、銃手は坂太郎
兵衛だったとまで書いてあります。
 私はむしろ敵の騎馬隊を驚かす効果が
あったのではないかと思いました。馬は
高音に弱くて、伊達家でも鉄砲の音に驚
かないよう馬を訓練していましたが、そ
れでも落馬事故があったようです。
[166] 2001/05/04(Fri) 18:39  削除  修正 
  金吾右衛門 さん
  大筒
はじめまして、大筒に関してありましたので、自分も発言させてください。
大筒を指す定義が他にあったのならスイマセン、でも大阪の陣で徳川方が使用したのはカルバリン砲という石火矢ではないでしょうか?またそれ以前は使用されていないとの事ですが、北条氏が天正十七年十二月晦日に、配下の職人に二十挺の大筒製造を命令した文書が残されています。これは、年代的に豊臣氏の来襲に備えて緊急に出されたものとされています。その文書の中には、二十挺の大筒製作をそれぞれ担当する鋳物師の名前が記されています。また、『相州文書』の中には、「中筒」を製造する為の土(鋳造鋳型のためと思われています)を小田原に運搬するよう命じた伝馬手形が残されています。また、信憑性はイマイチですが、『北条五代記』などには、北条水軍の船に大鉄砲が備えられていた事があります。また銃身は出てませんが、山中城の調査では大型の弾が2発ほど出土していたと思いますが、それが「中筒」にあたるのか「大筒」なのかは、自分はわかりません。
ただ、炸裂弾でない単数の大筒は、戦闘においてはやはりコケオドシ(敵味方双方に、心理的効果はあったのかもしれませんね)に過ぎないのでしょうね。また当時の鋳造技術で、繰り返しの使用に耐えるものが作れたかも疑問なのですが。
飛び入りで、ズラズラ発言して失礼しました。
[167] 2001/05/04(Fri) 21:14  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  (驚)皆さん、何故だか大筒にお詳しい??
>野崎さま
 石和の大筒は結構迫力ありましたよ(最初は耳を塞ごうかと思いました)!でもなんか海戦さながらの両者の撃ち合いが展開されていたので、違和感を感じたのです。火縄銃の連射のほうが戦国を彷彿とさせるような気がします。

>影虎さん
 (笑)私も宮坂考古館で大筒を持ちましたよ〜!確かに重い!!
 あそこにある甲冑はどうでしたか?

>金吾右衛門さん
 お帰りなさいませ〜
大筒とは違うんですけど「北条白貝」ってご存じですか?北条氏直が黒田如水軒へ送ったホラ貝です。
[170] 2001/05/04(Fri) 22:07  削除  修正 
  野崎 さん
  Re:上杉の甲冑
 宮坂考古館には上杉家伝来の甲冑が多
数蒐集されています。関東管領上杉家の
兜とか、家臣直江山城守の客将前田慶次
の具足とか。
 宮坂コレクションの銃の中には「仙台
筒」も入っているそうです。近世の仙台
は銃工が多数いて、独特の鉄砲を作って
いました。
[171] 2001/05/05(Sat) 06:30  削除  修正 
  三浦一郎 さん  HomePage
  大筒及び宮坂考古館
 「大筒」の定義ですか? 難しいなあ。ただ元来あの手のものは、直接手で持って撃ったもんじゃないと思います。その多くは城門等に備え付けられいたものでしょう。その逆に城攻め等に使う場合でも、何らかの装置があった上で用いたのではないかと思います。あんなものを手で持って撃つという理屈が納得できません。抱き抱えるように構え、あれでは十分に狙いも定まりません。
 また「撃て!」とか「放て!」とかいう号令がありますが、これは嘘でしょう。爆音と黒煙が棚引く戦場で、そんな声が耳に届くとは思えません。それは、いかにも江戸期の演習そのもです。泰平が戦を意図的に忘れさせたのです。互いに敵が前に来れば撃つ。ただそれだけです。 
 宮坂考古館へは二度行きました。上杉家の具足は景勝所用と言ってももいいでしょう。前田慶次の具足って赤塗りのだったでしょうか。あれは胴だけ古いんですよ。ああいったものを関東具足って呼んだのでしょうか。中央では当世具足を使っているのに、未だ古風なものを関東以北では使っていたのでしょう。
[172] 2001/05/05(Sat) 07:49  削除  修正 
  宮下帯刀 さん  HomePage
  前田慶次の具足
>関東管領上杉家の兜とか
 総覆輪阿古陀形でしたね。臑当の蒔絵が素晴らしかった記憶があります。

>あれは胴だけ古いんですよ
 ということは、あの甲冑はモノがいいのですね。とんがり帽子のような張懸兜に朱塗のマンチラ?、おまけに鱗札・・・なんか後世につくられたような・・・(笑)
[175] 2001/05/05(Sat) 12:07  削除  修正 
  野崎 さん
  Re: 慶次の推理
 山形県教育委員会編『山形県の甲冑』
によると宮坂考古館の前田慶次郎の甲冑
は同型の物が県内の個人蔵としてもう一
両あるとされています。二つも作ったの
でしょうかね。
 
 よく戦国大名の甲冑は同型同大の品が
複数あり、伊達政宗公のものも4両あり
ます。着替え用とか影武者用とか言われ
ていますが、本当の所はどうなのでしょ
うか。

 火縄銃は「天正十一年」のと、信玄
公を野田城で狙撃したという銃身だけ
のものと、種子島家の伝来鉄砲の写し
と言われている物が古い代表とされて
いる様ですが、種子島の伝来銃は
薩摩筒から推定復元したような形です
ね。一条谷のは外カラクリになるので
しょうか?図面と写真ではそんな感じ
ですが。
[185] 2001/05/06(Sun) 21:17  削除  修正 
  野崎 さん
  Re:Handgun maybe
種子島以前に鉄砲があったというのは戦
前から言われていました。
 最近問題になっているのは手銃(火槍
というのは中国で鉄砲全体をさしていま
すから『もののけ姫』で火槍と言ってい
たのはおかしい)という杖の先に円筒形
銃身を差し込んだ様な物が入っていた
という説だったと思います。李朝では
もう使われていましたから。
 指火点火して使いました。『もののけ
姫』の最初で狼を撃っていたのがこの
手銃です。
[193] 2001/05/07(Mon) 18:27  削除  修正 
  吹雪 さん
  鉄砲伝来
鉄砲は南蛮より種子島へ伝わったというのが定説ですが、昨今それよりも、若干早く中国から鉄砲が伝わっていたという新説を最近聞きました。

信玄筒は設楽原歴史資料館にある信玄砲のことでしょうか?
それに関連してなのですが

ひょっとして設楽原歴史資料館にある信玄砲みたいな物が中国伝来系火縄銃で?よく種子島とも呼ぶ、よく見る火縄銃が、いわゆる種子島銃?なのかなと、読んでいて思いましたが、知ってる方いらっしゃいましたら、その点ご教授下さい。

私、鉄砲については無知でして^^;


[194] 2001/05/07(Mon) 18:39  削除  修正 

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