語る「万華鏡」

(「虎よ!虎よ!」に書き足す)

虎よ!虎よ!(とらよとらよ)

項目名虎よ!虎よ!
読みとらよとらよ
分類SF小説

作者
  • 平井和正
  • 公的データ
  • アダルト・ウルフガイシリーズ
  • 感想文等
  • アダルト・ウルフガイシリーズの中で、「単品」で『狼』という文字が付いていない稀有な作品。

    これは平井和正がアルフレッド・ペスターの同題名の作品を好んでいることから、意図的にやったことではないかと思う。ちなみに、「人狼、暁に死す」と同じく、元は「スパイダーマン」の脚本として書かれていたものだ。「スパイダーマン」のエピソード時のタイトルは、「を飼う女」。そして、日本版池上遼一作画の「スパイダーマン」としては最終話ともなったエピソードだ。

    スパイダーマン」はこのエピソードをもって、主人公のスパイダーマン、小森ユウがスーパーヒーローとしては死を迎えた……かのようなイメージで最終となる。
    アダルト犬神明の物語も、「人狼、暁に死す」に引き続くエンディングの絶望感があり、読んでいくエピソードの流れとしては「リオの狼男」+「人狼地獄篇」→「人狼、暁に死す」→「虎よ!虎よ!」の方がよいのかもしれない。

    ハヤカワ文庫版の刊行は、「人狼地獄篇」で途絶えているため、ここからは祥伝社ノンノベル版か角川文庫で読むことになる。
    角川文庫なら、「人狼、暁に死す」と「虎よ!虎よ!」が1冊になっている(『人狼、暁に死す』)ので、先に『人狼地獄』を読んでからこちらに移ればちょうど良いというものだ。また、デジタル版は『人狼、暁に死す』が「人狼、暁に死す」+「リオの狼男」、『人狼地獄』が「人狼地獄篇」+「虎よ!虎よ!」なので、これでも流れとしては同じことだ。とってもとっても紛らわしいが。

    これらの作品が初めて書籍として刊行された祥伝社ノンノベルの構成は、「虎よ!虎よ!」が中編であり、続く「人狼戦線」が長編、その次の「狼は泣かず」がまた中編であるために、「虎よ!虎よ!」と「狼は泣かず」で1冊(『狼は泣かず』)にし、「人狼戦線」はこれだけで1冊にしている。
    これについては、『狼は泣かず』のあとがきで、平井和正自身が解説している。「虎よ!虎よ!」と「狼は泣かず」を連続で読むと、違和感があるだろう、と。このあとがきの中で、平井和正アダルト・ウルフガイシリーズについて「永劫回帰の物語ではない」と初めて表明したのだ。どんなエピソードに晒されてもキャラクターが不動のシリーズものではなく、犬神明は変わっていく。特に、「虎よ!虎よ!」はスパイダーマン小森ユウがスーパーヒーローとしての死を迎えたように、犬神明がそれまでの「無罪!」を失った瞬間だったのだ、と。
    そして、続く「人狼戦線」で犬神明は再生する。そののちの「狼は泣かず」が存在するのだから、「虎よ!虎よ!」と「狼は泣かず」には不連続性があるのだ……と。

    正直言って、すでに「狼男だよ」→「人狼、暁に死す」→「リオの狼男」と読んでしまっていた私には、「虎よ!虎よ!」と「狼は泣かず」との不連続性などほとんど誤差のようなもので(笑)、あまり作者の解説通りには感じられなかったのだが、それでも、「永劫回帰ではない」という表現には、「ああ、そうか」と目から鱗が落ちた気がしたものだ。

    単品としての「虎よ!虎よ!」は、「人狼地獄篇」のエンディングと同じように、犬神明の無償の博愛心があまりにも当然のように(押しつけがましい道徳性など微塵もなく)顕れていて、胸を熱くせずにはいられない。

    なぜ、そんなことができるのか。どうしてそこまで、愛しても愛されてもいるわけでもない相手のために、自分がつきながら尽力できるのか。

    無敵の能力があるゆえに、正義のために闘うヒーローなら、いくらでもそれまでに存在した。拍手喝采し、憧れ、感情移入してワクワクできるスーパーマンたちだ。

    犬神明ももちろん不死身の狼男だ。けれど、彼はいつもいつも不死身で無敵なわけではない。満月期の3日間だけの、限定条件いっぱいのスーパーヒーローだ。月が痩せている時期の彼は、ただの「人間並み」でしかない。を負い、怪我もするし、死ぬことも当たり前だ。
    ゴキブリが苦手で、閉所恐怖があり、飛行機に乗ると面蒼白で冷や汗にまみれる、拷問に遭えば失禁する、そんな三十代前半のただの男でしかない。

    そんな彼が、縁もゆかりもない、友人でも恋人でもない人間のために、なぜそこまでして疾駆しなければならないのか。なぜ彼はそんなことをしてしまうのか。

    狼の心、黄金の心、気高い優しさ。
    どう表現しても、やはりもちろん、表現しきることはできないのだ。

    おそらく個人的には、「人狼地獄篇」と、この「虎よ!虎よ!」での犬神明の姿に、憧れを超えた尊敬の念を抱くことになったのだ。そこが、始まりにちがいなかったのだ。(おっぺ)
  • 初読時は、何しろ「人狼白書」を先に読んでからのことだったので、ここで初めて大滝雷太に遭遇する。いずれにしても表題作「狼は泣かず」は唐突な月輪観もあってあまり感じるところがなかった。それよりも「虎よ!虎よ!」。ここで犬神明が緒方ミキに示す憐憫を「人狼戦線」以前の上から目線と評するだの、だからラストでその視線の傲慢さで破滅するのだとシニカルに言い立てるだの、少年犬神明と違っておじさんウルフだからほいほいベッドインするだの、冷笑する向きもあるだろう。だが断定してしまうが、そういう冷笑は全て筋違いだ。それらは現時点での現代人が持つ価値観での断罪的石投げでしかない。そういう石投げをする輩は、梅毒に冒されている女性の魂を癒やす可能性があるからと彼女と肌を交わせるのか? 肌を交わすこと自体をくだらない自慰行為だとかどうせ満月期になれば自然治癒すると思っているからできることだとか言い立てるのはキミの精神がすでに基本的スタンスを冷笑に置いてしまっていることの証左だ。ここでの犬神明はそういう理屈には支配されていない。頭で考えていないのだ。彼女の魂を癒やす可能性があるならなんでもする。真実本気でそれしか思っていない。満月期になれば治るから? 治らない確信があったとしても、犬神明は同じことをやっただろう。その証拠が次の「人狼戦線」じゃないか。私は「人狼地獄篇(魔境の狼男人狼地獄)」ラストの、犬神明がドナを探しに行く場面と、この緒方ミキの魂を癒そうと覚悟を決めている犬神明が特に好きだ。理屈や言い訳は他の奴らに任せておけ。これが犬神明だ。(かめ)
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