項目名 | 超時空要塞マクロス |
読み | ちょうじくうようさいまくろす |
分類 | アニメ |
作者 | |
公的データ | 第二話 「カウント・ダウン」 第三話 「スペース・フォールド」 第四話 「リン・ミンメイ」 第五話 「トランス・フォーメーション」 第六話 「ダイダロス・アタック」 第七話 「バイバイ・マルス」 第八話 「ロンゲスト・バースデー」 第九話 「ミス・マクロス」 第十話 「ブラインド・ゲーム」 第十一話 「ファースト・コンタクト」 第十二話 「ビッグ・エスケープ」 第十三話 「ブルー・ウィンド」 第十四話 「グローバル・レポート」 第十五話 「チャイナ・タウン」 第十六話 「カンフー・ダンディ」 第十七話 「ファンタズム」 第十八話 「パイン・サラダ」 第十九話 「バースト・ポイント」 第二十話 「パラダイス・ロスト」 第二十一話 「ミクロ・コスモス」 第二十二話 「ラブ・コンサート」 第二十三話 「ドロップ・アウト」 第二十四話 「グッパイ・ガール」 第二十五話 「バージン・ロード」 第二十六話 「メッセンジャー」 第二十七話 「愛は流れる」 第二十八話 「マイ・アルバム」 第二十九話 「ロンリー・ソング」 第三十話 「ビバ・マリア」 第三十一話 「サタン・ドール」 第三十二話 「ブロークン・ハート」 第三十三話 「レイニー・ナイト」 第三十四話 「プライベート・タイム」 第三十五話 「ロマネスク」 最終話 「やさしさサヨナラ」 |
感想文等 | ・カルチャーショックだったのかも。 SFファンのつもりだったので、〈スタジオぬえ〉のSFアニメはさぞや面白かろう……という感じで、期待して観始めたのではないか。 第1話は、今でこそ珍しくないのかもしれないが、1時間のスペシャル版でのスタートだった。エンディングの〈絵〉も、翌週からが『ミンメイとのアルバム』なのが、まだ『ゆったり飛んでいる飛行艇』だったと思う。 期待にたがわない、ワクワクできるスタートだったはずだ。主人公メカがあるわけではなく、つまりは〈ロボット物〉ではない。しかし、タイトルは似た形を取っても「ヤマト」や「ブルーノア」などのようなタイプともまるで違う。いよいよ、「ちゃんとしたSFアニメ」を拝めるのではないか、そんな興奮があった。 アニメーションとしての「絵」の動き等については、「イデオン」のアディゴなどで感動的なものを体験しており、しかし、「なんてきれいで統一された絵なんだろう」と当時は感嘆した。今見返せば、たとえばのちの映画版「愛・おぼえていますか」などと比べて、ずいぶんアラのある「絵」であり、そして、「愛・おぼえていますか」でさえ、今のテレビアニメのレベルからすると「やはり昔のアニメだから粗い」と言われるらしい(^^;)。絵的な面の進歩は凄いものがあるようだ。いや、往時の週刊テレビアニメシリーズの絵が、あまりに惨い状況にあったというのが、たぶん正しいのだろう。スタッフの置かれた自転車操業(?)が、果たして現在どれほど改善されているのかは知らないのだが、「エヴァンゲリオン」の頃でも、回によってキャラクターの絵柄がかなり違ったりしていたようだ。 この「マクロス」の場合、さっそく次の回から(つまり、レギュラー放送の第1回めから)「なんてこった……」と観る者を嘆かせるキャラクターの無残さを見せてしまうのだが……当時は、ガンダムでもヤマトでもこんなものだったのだ。 「SF」として期待したプロット面だが、異星人とのファースト・コンタクト、カルチャー・ショックなど、確かに「面白い」部分がたらふくあった。「さすがだな〜」と楽しめていた記憶もある。 けれど、同じ「異星人との接触」をSFとして興奮すらさせてくれたのは、先行した「イデオン」だったし、最初のうちのワクワク感が過ぎ去っていくと、「SFとして」の期待と楽しみはだんだんだんだん無くなっていった。メカフェチなところはまるでないので、マクロスやバルキリーがどんなに精緻に描かれていても、それだけでは面白くなかったし…… けれど、美樹本晴彦のキャラクターには魅力があったし、少なくとも、本来最終回だったのだろう第27話「愛は流れる」までは確かに面白く観ていたと思う(放送が延長戦となり、無理やりのように引き延ばされた第28話「マイ・アルバム」以降は再び観ようと思ったこともない)。 一条輝とリン・ミンメイの行くたてが、スリリングだったのだ、実のところは。 リン・ミンメイというヒロインが、騒がれるほどの魅力的なキャラクターだったとは、感じてはいなかった。ただ、「どういう子なんだ?」という(笑)、それまでの『解り易い』アニメヒロインと違ったキャラクターに興味はあったのだと思う。 「マイ・アルバム」以降のミンメイは、まるで落魄れたスターそのままで、そうしたいわばスリリングな部分が失われてしまい、自然に楽しむことができなくなってしまったのだろう。 振り返った時、第4話「リン・ミンメイ」に始まって(もちろん、ミンメイはそれ以前第1話から登場はしているわけだが)、第9話「ミス・マクロス」を通過し、「愛は流れる」に至るまで、観ているこちらはミンメイの思考を勝手に深読みしたり、トレースしているつもりで単に妄想作成していたり(笑)、輝同様に思いきり振り回されていたのだ。この意味では、ミンメイはやはり観ていたファンにとっては、血肉を持った実在の「女の子」だったのだ。 映画「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」が製作された時、別に劇場まで出かけてわざわざ観ようとなど思わなかったし、実際、テレビ放映されるまで実物を観ることもなかったのだが、封切りされた頃にテレビで「予告編」CMが流れていた時、あっと実感したものがある。 短いスポットCMだが、見所たる華々しいシーンのあと、ミンメイの歌っている姿が映り、たぶんブリタイの声だったと思うのだが、「これが、ミンメイの歌……」と被さって終わる。そのミンメイのシーンを観た時に、思いがけなく感傷とも感動ともつかない思いが胸に湧いたのだ。 ああ……と思った。自分ではそんなにも感じていなかったが、いわば「ミンメイ・ショック」とでも言うべきものを、「マクロス」を観て、与えられていたんだな……と。 リン・ミンメイの歌う姿は、ゼントラーディに凄まじいまでのカルチャー・ショックを与えた。そして、ただ観ているだけの受動態の視聴者にも。 クライマックスたる「愛は流れる」は、決して映画版でのクライマックスに劣る出来ではなく、むしろ上回る部分が大きいと思っている。「味方殺しのカムジン」のセリフなど、ちりばめられた物がとても印象に残る。 何だかんだ言っても(言わなくても)、「マクロス」は思い出深い作品だったのだ。つまりは、そういうことだ。(おっぺ) |