語る「万華鏡」

(バトル・ロワイアル(邦画))

バトル・ロワイアル(邦画)(ばとるろわいある)

項目名バトル・ロワイアル(邦画)
読みばとるろわいある
分類アクション映画

作者
  • 深作欣二
  • 公的データ
  • 監督: 深作欣二
    脚本: 深作健太
    原作: 高見広春
    出演: 藤原也 前田亜季 山本太郎 栗山千明 柴咲コウ 安藤信 北野武 塚本高史 ビートたけし
  • 感想文等
  • 最初に原作たる小説版を読んだのは、単に「金八先生」のカリカチュアがあるようなので、それを読んでみようと思った、その程度の興味からだった。
     読んでみての感想は、あんまり後味はよくないなくらいのことで、別に悪書だのなんだのと思うレベルでもなかった。リアリティとかアクチュアリティとかいうものには欠けていたし、あくまでゲームの感覚で書かれていて、たまたま主人公たちが中学生だったというだけでしかなかった。「金八先生」ネタを入れたいがための中学生設定ではなかったかと思うくらいだ。別に高校生でも大人でも、なんの違いもなく物語は成り立つ。
     読み捨て本でしかなく、二度と読み返すことはないだろうと思っていた。
     ところが、そういう意味のことをひろさんとやり取りしている間に、或るワンシーンだけ、なんだか心に残って離れていないことに気づいた。
     それは、バトルの終盤、しぶとく生き抜いていた「ザ・サードマン」が最期を迎えたときのセンテンスだった。
     ――こうして「第三の男」、三村信史は死んだ。
     この1文は不思議に心に残った。
     他の、例えば主人公たる七原秋也やヒロイン中川典子、敵役桐山あたりのことは何も覚えてもいなかった(笑)。ゲームのキャラクターなら、そんなものかもしれない。
     三村のことも、どんな人間だったかといえば、何も覚えていない。ただ――
     ――こうして、「ザ・サードマン」、三村信史は死んだ。
     このポツンと書かれたセンテンスだけが、今ですらやはり頭に引っ掛かっている。
     これは驚きだった。
     けれどもやはり、このワン・センテンスだけは別として、これは小説というよりは、少年マンガの原作だな……とは思っていた。文章があまりに荒いとは感じていたのだ。まそして、「ヤングチャンピオン」誌上で、すでにコミカライゼーションが連載されているのに気づいて読み始めた。
     正直言って、やはり原作の「小説」よりも、このマンガ版の方がエキサイティングであり、また面白かった。漫画家の力量も勿論あっただろう。
     なにより、登場人物たちに「マンガの(ゲームのではなく)キャラクター」として、たっぷりと肉付けがされていた。
     特に、ふたりのキルマシーン、相馬光子と桐山についての肉付けが見事だった。光子が桐山との最終対決で見せた感情の奔騰は原作と比べても圧倒的にすばらしい。
    また、桐山は原作では割と典型的な悪の番長的キャラクターだった(虚無のキャラクターを設定しようとしていたと思うのだが、結局はそう読めた)のが、マンガ版ではディオ・ブランドーふうの外観を付与され、そして、それのみならばまたひとつの類型で終わっていたのだろうが、幼少時には逆に光の天使、神の子のような愛と才能とを持っていた――それが哀しいほどの運命により翻転する……のが描かれており、この翻転の瞬間の切なさは特筆に値するものだと思う。
     主人公七原との最終対決で、倒されても倒されても立ち上がって来る、それこそ吸血鬼かという、読み方によってはギャグにも近い描写がなされたが、ここで感じ取れたのはやはり哀切だった。
     桐山がこうまで立ち上がって来られるのは、来てしまうのは、桐山があれほどの素晴らしい天使的な存在だったからなのだ。この不死身さは、実のところ、主人公に付与されるはずの不撓不屈の精神、黄金の心のもたらす力ではなかったか。
     そして、その黄金の心は失われた――あまりに、無残に。
     その結果生まれたのが、虚無の鬼、桐山なのだ。この描写はデモーニッシュであり、鮮烈だ。
     だから、スプラッター描写には辟易としても、私はこのコミック版に心打たれずにはいられない。
     ……話が映画版に入るのが随分遅くなってしまった。
    この映画版は、長大な原作をさらに描き込めたコミック版とは逆に、切り詰め得る限り切り詰めざるを得なかった映像版だ。いかに深作欣二といえども、「原作の宣伝」に近くなってしまうのは否めない。
     相馬光子も、三村も、杉村も(そう、コミック版では、この杉村のエピソードもすさまじかった)、そして何より桐山も、断章のうちに消えていった。
     スポットは主人公たち3人に集中し、けれどコミック版のように七原に「そこに正義はあるのか!?」と問わせ叫ばせることはない。
     七原もまた、――なんと、原作よりはキャラクターがはっきりしてはいたが――コミック版に比べて強い印象が有ったとは言えない。
     で、ここでキタノと典子の映画になってしまうのだ、この映画版『バトルロワイヤル』は。
     金八先生の悪どいパロディを映像化できなかったのか、映画版ではいきなり北野武がキタノという名前で役割を務めている。そして、そこに顕れているのは、原作では反感か嫌悪によるかとも見えるグロテスクなパロディ、コミック版では狂気と醜悪とを体現した目に見える敵役だった坂持金発とは違った、悔しさと埋没と回想とを持った「まっとうな大人」であり、そんな大人が「悪」になってしまう「当たり前」の構造、さらには諦められない憧憬と居直った敗北感達なのだ。(おっぺ)
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